初期マセマティック放浪記より

163.講演会から雉酒試飲会へ

雉酒再現の発案者である三嶋さんと私の間で、「メディカル漂流記」を執筆中の永井明さんや穴吹キャスターに雉酒を試飲してもらったら、という話が持ち上がったのがことの発端だった。仲介を依頼された私が永井事務所に電話し、マネージメント担当の浦井さんにその旨を告げると、もちろんこちらは大歓迎ですとの返事であった。

そこで三嶋さんに電話して、どうせなら東京三鷹台の三嶋邸で賑やかに雉酒試飲会を催したらどうだろうと持ちかけた。すると、奥様手作りの雉料理なども出せるからそのほうが好都合だということになり、まずは永井さんの返事待ちということになった。

ほどなく届いた永井さんからのメールには十二月十六日の日曜あたりはどうだろうとあった。この日はたまたま、府中市生涯学習センターで「ジャーナリズムの世界」という連続講座の最終回が催されることになっており、「新聞記者という職業とその評判」というテーマで講演をすることになっていたのはほかならぬ穴吹史士さんだった。また、府中市からの依頼で企画コーディネートに携わった私も司会進行役を務めることになっていた。

結局、永井さんが府中生涯学習センターの講座に当日顔を出すからということになり、講座終了後、そのまま私の車で三嶋邸に雪崩れ込む手筈が整った。話はいつしか、元国土地理院長で「駅弁地理学」執筆者、野々村邦夫さんにも伝わり、一時は急遽広島から参加ということにもなりかけたが、結局、十七日までは大学での仕事があるので断念せざるをえないとのことで、野々村さんの登場はまたの機会にということになった。それでも、永井さんの監視兼介護役の浦井嬢、穴吹さんと私の共通の知人の三森、住田、鈴木の三女史、さらには岩井母娘を加えた計九人が繰り込もうというのだから、戦場となる三嶋家も大変なことではあった。

アルコールのまったく駄目な私が舌のこえた無類の酒好き連中相手に飲み会を企画コーディネートするという、何とも珍妙な展開と相成ったわけだから、試飲会参加予定の紳士淑女たちがいまひとつ不安を拭いきれないでいただろうことは想像に難くない。私としては、酒客を迎え撃つ三嶋家当主の洋さんの酒豪らしい盃捌きと、「雉酒の君」の実力のほどにひたすら期待を寄せるしかない感じだった。

当日の十六日は、京王府中駅で穴吹さんと永井さんを拾い、午後一時半頃に府中市生涯学習センターに着いた。講座は二時ちょうどに始まり、私の講師紹介に続いて、独特のリズムとテンポで穴吹さんが熱弁をふるいだした。実をいうと、この日、穴吹さんはいつになく上機嫌だった。

朝日新聞日曜版にこの一年間連載されてきた「旅する50人の記者」という探訪記事を評価する投書が前日の朝日朝刊に掲載されていた。幸田真音という作家の寄稿した一文で、記者の素顔が見え大変に好感のもてる企画だったと絶賛した内容のものだった。しかも、講演当日の十六日の日曜版に掲載された船橋洋一記者の「隣人」という空からの日本探訪記がその最終回にあたっていた。「旅する50人の記者」の企画編集総責任者であった穴吹さんが喜んだのも無理はない。その投稿記事はコピーして受講者にも配布され、当然この日の講演のなかでも用いられた。

いつもの調子から考えて、デッドボールやビーンボールとはいかなくても、カーブかフォークボール主体の講演内容になるのではと思ったが、実際には予想に反しストレート中心の講演になった。現在の新聞界の現状と将来を憂いつつも、明治の頃の朝日の社史から説き起こし、司馬遼太郎の言葉などを折り込みながらメディア界における朝日新聞の歴史的意義を論じ、さらには昨今の新聞記者の良心と苦悩をも語るというのが大まかな話の流れだった。穴吹流講演の球筋をストレート主体に調整してみせた「幸田真音効果」は絶大だったというほかない。

もっとも、本欄AICについての話になると、司会の私と臨時聴講者の永井さんをいいカモにして、いつもながらの容赦ないナニワ流ツッコミが始まった。まあ、気心の知れている我々が相手だからよいけれど、いくらこれが本来の穴吹流だとはいっても、時と場合をちょっとばかり間違えたら、「ナンチューコトヲイイオルネン!」などと気色ばむ御仁も現れかねないことだろう。ツッコミ役は得意だがボケ役は苦手らしいこの稀有の才能の持ち主が、もしもボケの資質、べつの言い方をすれば、茶化されたり嘲られたりしてもそれを受け流し、人知れず相手の心底を見すえるピエロの一面をそれなりに秘めもっていたならば、いまごろ朝日の大看板記者になっていたかもしれないと思う。穴吹さん本人にとっても、また、我々にとっても、そのほうがよかったのかということになると、むろん話はべつだと言うしかなにのだけれども……。

穴吹さんの魅力的なキャラクターに触発されてか、受講者の質疑が相次いだため、予定時刻を四十五分もオーバーしてこの日の講座は終了した。穴吹さんの魅力的なキャラクターに三嶋邸での雉酒試飲会に参加予定のメンバーは、そのあとすぐに私のワゴン車に乗り込んだ。「全国をめぐっているボログルマ」と先刻の講演で穴吹さんからも紹介されたワゴンだが、ドライバーの私を含め八人までは乗れる。永井事務所の浦井さんは直接に電車で三嶋邸に向かうということだったので、二次会場への移動は私の車一台で足りた。

前日まで一週間ほど雉の養殖地、愛媛県広見町に滞在していた三嶋さんは、この日、何羽かの冷凍雉と特別に抽出した雉エキスを携えて帰京したばかりだった。三嶋邸に到着した我々は勧められるままにテーブルに着いた。そして一通り互いの紹介が終わると、それぞれに談笑を交わしながら酒宴の前哨戦にとりかかった。

上質の純米酒をなみなみとついだ大きな土瓶をそのまま湯鍋に入れてお燗し、ほどよいところで適量の雉酒の素を調合して仕上げられた酒は、人数分の大きなぐい飲みに次々と注がれた。私をのぞいてはつわもの揃いの宴席ゆえ、相当に大きな土瓶も小さく見えてしまうほどで、お燗係の三嶋さんの子息やその友人も大忙しの様子だった。はじめのうちは雉酒の素を入れるまえの酒と雉酒の素を混入したあとの酒とを飲み比べたりして、味の検証がおこなわれていたが、やがて本格的な雉酒の試飲会に移行した。

酒宴そのものはずいぶんと盛り上がったし、問題の雉酒のほうもなかなか好評のようだったので、その場をコーディネートした私は一応安堵の胸を撫で下ろしたような次第だった。途中からは、中谷商工開発部係長で雉酒本舗のSSI公認利き酒師でもある露木昭範さんがはるばる小田原からホスト方援軍に登場、自ら裏方にまわって雉酒の調合役とお酌係を務めるという展開になった。下戸の身でアルコール音痴の私にはその時に供された雉酒の味を論評することはできないので、試飲会の感想については、永井さんや穴吹さんあたりにいずれどこかで述べてもらうしかないだろう。

雉酒も好評だったが、それに劣らず素晴らしかったのは、三嶋さんの奥様手ずからの雉料理の味だった。何羽もの雉をふんだんに使い、中華風雉肉料理、雉の蒸し焼き、雉の塩釜、そして雉のパイ焼きといろいろな工夫を凝らした雉料理が次々と出されたが、それぞれに独特の風味や旨味があって一同皆感嘆するばかりであった。とくに、この日はじめて試作してみたという、雉一羽をまるごと用いたパイ焼きは絶品で、舌の肥えた一同が思わず美味いと声をあげるほどの珍味であった。

そのほかに、広見町の篤志家の育てた古代米(黒米)でつくられ、雉のスープで味付けされたお粥、やはり広見町特産の厚肉椎茸の煮物、さらには同町農業公社のハウスで水耕栽培されたという大粒で味も香りも色艶も見事なイチゴのデザートと、文字通り広見町尽くしの一夜であった。デザートのイチゴは、水耕栽培の特質を活かし、成熟中に全方向から光を当てて育てられたものであるため、輝くような色艶をしていて芯まで赤く柔らかく、甘味も抜群であった。温室における水耕栽培技術の革新的進歩のおかげで通年の出荷も可能になったのだそうである。近い将来、雉とならんで広見町の特産物になるに違いない。

六時に始まった試飲の宴は大いに盛り上がり、弾む話も尽きるところを知らない感じではあったのだが、翌日早くにどうしてもはずせない用事があるという穴吹さんが十時過ぎに三嶋邸をあとにした。本来は永井さんの世話役である浦井さんも、「横浜方面に向かうタクシーに乗せれば、いつものことであとはなんとか本能で帰り着くみたいですから」とあとを我々に託し、すでに天国を遊泳中のドクターのサポートを放棄してそのあとすぐに帰っていった。

それから一時間ほどしてから、まだ残っていた女性軍をそれぞれ希望の場所まで車で送り届け、再び私が三嶋邸に戻ったときには午前一時近くになっていた。客間では行司役の露木さんをはさんで、永井さんと三嶋さんとの雉酒合戦がなお延々と続いていた。初対面であったにもかかわらず、永井さんと三嶋さんとはすっかり意気投合したらしかった。既に人事不省状態の二人の間で繰広げられる支離滅裂なヨッパライ語の応酬は珍妙そのもので、ひたすら笑い転げる三嶋さんの奥さんや息子さんらの姿がなんとも印象的だった。

午前二時過ぎ、酒豪でなる二人もついに自らの身体を支えておくことが難しくなってきたようだった。永井さんのほうがまず三嶋さんに近寄り、枕がわりにお前の膝を貸せと合図を送ると、すぐさま三嶋さんの左膝に頭を乗せ気持ち良さそうに眠りこけてしまった。すると三嶋さんのほうもそのままうしろに身を倒し、たちまち寝入ってしまったのだった。しばらくすると、こんどは二人仲良く額を寄せ合って幸せそうに眠り込む有様だった。かくして永井対三嶋の酒闘は引き分けとなったのであった。
「横浜方面行きのタクシーに乗せれば、あとはなんとか本能で家に戻り着きます」との浦井さんのお言葉だったが、そうは言っても心配でならなかったので、永井さんを起こして車に乗せ、東横線沿線のお宅まで送り届けることにした。永井さんのお宅の所在地は知らなかったが、環八の玉川インターから第三京浜に上がり港北インターでおりればよいとは聞いていたので、とりあえずその通りにルートをとることにした。

助手席で海老のように身をまるめ至福の面持ちで眠り込んでいる永井さんを一時的に揺り起こし、港北インター出口からの道順を尋ねると、そこから先の道がかなり複雑だったにもかかわらず、意外なほどにしっかりした返事が戻ってきた。まさに帰巣本能のなせる業というべきもので、眠りこけながらも要所をしっかり押さえたそのナビゲーションぶりは、素面でも車のナビゲータにはまるで役立たずの三嶋さんにちょっとでも見習わせたいくらいのものであった。無事に永井さんを自宅まで送り届け、三嶋宅経由で府中の我が家に戻ったのはなんと午前五時近くになっていた。
2001年12月26日

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