初期マセマティック放浪記より

156.北旅心景・下北半島へ

神恵内の海岸や海中一帯には大小様々な奇岩が立ち並んでいる。それらを車窓から眺めながら走行するうちに、右手前方に聳える大きな山塊が見えてきた。冬場にはスキーのメッカとしても知られるニセコ連峰の雄姿である。あのニセコ連峰を越えて国道五号線に再度合流し、内浦湾岸の長万部に出ようかというと、そんな欲張ったルートをとって時間的に間に合いますかと、S君がちょっと不安げな表情で問い返してきた。走りっぱなしなら大丈夫だよと私は横で煽りたて、結局そのコースをとって函館に向かうことにした。ニセコ越えには少々時間を要するが、景色はいいし、国道五号に出て長万部に抜ければあとは函館まで一息だ。

ニセコ連峰を背景にして広がる岩内の町には木田金次郎の業績を記念した美術館がある。この美術館で近々知人の画家渡辺淳さんの個展が開かれることになっていたので、どんなところか立寄ってみたいとは思ったのだが、時間的に難しそうだったのでその件は断念せざるをえなかった。岩内市街を走り抜けるといっきに高度は上昇し、眼下にのびやかな緑の山麓が広がった。その向こうには日本海が青く輝き、陽光に映える海面越しには、延々と連なる積丹半島の山並みが望まれた。

ニセコ連峰のあちこちにはいろいろと見所も多いのだが、とりあえずそれらの見物は省略し、標高八百メートルほどの高度の峠を越えると、蘭越町方面に向かってひたすら下ることにした。途中、左手遠くに羊蹄山の特徴ある山影なども望まれた。もうすこし時間でもあれば、ニセコ町から羊蹄山麓を経て洞爺湖北西岸あたりをめぐり、虻田町に抜けたいところなのだったが、どう見てもそれは無理なようだった。

蘭越町で国道五号線に合流し、一走りして長万部市街を過ぎると、噴火湾の別称もある広大な内浦湾が、青々と輝くその姿を見せはじめた。内浦湾を大きく挟み、左手はるか前方にひときわ大きく聳えるのは、現在も活動中の火山駒ケ岳の雄姿だった。これから内浦湾を半周して森町に至り、その駒ケ岳の西山麓を経て函館に向かおうというわけだった。

道路は多少混んできたが、渋滞というほどのことでもなかったので、ほぼ予定時刻通りに森町を通過し、駒ケ岳の西山麓に差しかかった。千百三十三メートルと駒ケ岳の標高はそうきわだっているわけではないが、内浦湾の海面からいっきに聳え立つ独立峰なので、標高以上にその山容は大きくそして威々しく見える。誇らかにおのれの存在を訴える駒ケ岳を仰ぎ見ながら一路南へと下っていくと、大小の沼とそれらの沼に浮かぶ百余個もの小島で知られる大沼公園のそばに出た。珍しい植物などでも知られるこの大沼公園一帯を初夏の頃などに散策すると、いろいろな発見や感動があってなかなかに素晴らしい。

大沼公園を過ぎると函館まではもうほんの一走りだった。フェリー出航予定時刻の三十分ほど前に函館港ターミナルビルに到着した我々は、すぐに乗船手続きを終え、下北半島突端の大間港行きフェリーに乗り込んだ。素直に青森に渡るのではなく、どうせなら下北半島東岸を南下し、三沢、百石、八戸を経由して東北自動車道に出ようという魂胆だった。懲りない面々だと呆れられてしまいそうだが、たとえ還路であっても最大限に野次馬精神を発揮しながら戻ろうというわけだった。また、コスト的にみてもそのほうが安上がりだった。

フェリーは冬景色ならぬ夏景色の津軽海峡を渡り、一時間半ほどで大間港に接岸した。S君は下北半島も初めてということだったので、下船するとすぐに本州最北端の大間崎に向かい、岬の展望所から津軽海峡越しに北海道亀田半島一帯の山並みをしばし眺めやった。大気も澄んでいたので電波塔の立つ函館山の姿などもはきりと望まれた。

この大間崎展望所の一角には、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」という、あの有名な石川啄木の歌を刻んだ碑と、その碑の由来を記した解説板が設けられている。大間崎のすぐ沖には、灯台の立つ弁天島という小島があるのだが、解説文によると、啄木のその歌の舞台となったのは、ほかならぬこの弁天島だったのだそうである。啄木自身がはっきりとそう述べているわけではないらしいのだが、残された手紙その他の文書類から考証すると、歌中の「東海の小島」とはほぼこの小島に間違いないということだった。

流れの速い海中を泳ぎでもしないかぎり弁天島には渡れそうになかったし、たとえ渡れたとしても、白砂のある浜辺を探し当て、蟹を見つけて突ついたりしていたのでは日が暮れてしまう。ちょっと眺めたところでは、そもそも弁天島に白砂の浜辺があるのかどうかさえ定かでない感じだった。いくら野次馬根性の塊みたいな我々だって、さすがにそこまでは付き合いきれない。青春の一時期、啄木の歌に夢中になったこともある身ではあったが、ここはほどほどに退散したほうがよかろうと考え、ほどなく大畑方面目指して走り出した。

ハンドルを握るS君に、「どうする、閉門時間までに着けるかどうかわからないけど、恐山に行ってみるかい?」と尋ねると、「ちょっと外から見るだけでも……」という返事が戻ってきた。それじゃともかく行ってみるかということになり、大畑から直接に陸奥市へは向かわず、薬研温泉を経て恐山へと続く道に入った。そして、薬研温泉を過ぎ、鬱蒼とした樹林帯をくねくねと縫い進んで、火口湖の宇曽利山湖北岸に位置する恐山霊場の駐車場に到着した。正式には恐山菩提寺と呼ばれるこの霊場は、九世紀頃に慈覚大師円仁が開基したものだと伝えられている。

無事着いたのはよかったが、残念なことにちょうど門が閉められ、入場受付の係員が奥へと引き揚げていくところだった。白っぽい色の粗砂で覆われた広大な駐車場には、帰り支度をしている先客の車が一台とまっているだけだった。そして、ほどなくその車も立ち去ってしまい、あとにはぽつんと我々の車だけが残された。

考えてみると、何年か前に若狭の画家渡辺淳さんを案内してやってきたのも、夕暮れ近くのことだった。その時は閉門までにまだ三十分ほどあったのだが、半ば駆け足で慌しく霊場内をめぐり、場内にある古滝の湯という温泉に十分ほどつかったあと、身体を拭くのもそこそこに駐車場へと駆け戻った。そして、この日とは逆のコースをたどって、猛然と大間崎目指して走りだした。大気の澄んだ好天の一日だったので、どうせなら大間崎で美しい夕日を眺めようと考えたからだった。

初めてこの恐山を訪ねたのはずいぶんと昔のことだが、すでにあたりは深い宵闇に包まれ、ちょうど東側の外輪山の上に、満月をすこし過ぎたばかりの月が昇ってくるところだった。当時も霊場内と外側の駐車場とを仕切る長い柵は設けられてはいたが、いまの高くて丈夫な造りの板塀と違って申し訳程度のものだったから、その気になればどこからでも自由に出入りすることができた。光の弱った懐中電灯と月明かりを頼りに、その夜私は霊場内へとおもむろに足を踏み入れたのだった。

赤茶けてごつごつした岩場が高低をなして大きくうねるように広がり、鼻をつく硫黄の煙が四方に漂い、さらには地中のあちこちから熱湯が吹き出している恐山霊場は、昼間訪ねてみても実に荒涼とした感じがする。まして、人の気配の途絶えた夜とあっては、淡い月光に浮かぶその異妖な光景に想像を絶する凄みがあるのは当然のことだった。月が高く昇るにつれて月光は明るさを増し、その中に浮かぶように立ち並ぶ賽の河原の無数の石積みは、それぞれに深く秘める悲しい物語を旅人のこの身に切々と訴えかけてくるかのようであった。

黒ぐろとした影を落として地蔵菩薩の立つ岩山の陰を縫う細道を抜け、宇曽利山湖の湖畔に降り立つと、静まりかえった湖面には大きな人魂を想わせる月影が漂うように映っていた。湖にそって広く長くのびる石英質の白砂の浜辺に足跡を刻みながらゆっくりと歩いていると、突然サーッと風が起こり、それに合わせるようにして、カサカサ、カラカラという奇妙な音がどこからともなく響いてきた。

一瞬背筋に冷たいものが走るのを覚えながらも、気を落ち着けて不思議な音のするほうへと近づいてみると、砂地の上に立てられた何本もの短い棒状の先端で何かがカラカラと音をたてながら回っていた。懐中電燈で照らし出して見ると、なんとそれらは、霊場を訪なう人々が、いまは亡き縁者の霊への鎮魂の祈りを込めて湖畔に立てた風車だった。数知れぬ風車が一斉に回りだしたときに起こる波打ちざわめくような響きは、地の底から涌き上がってくる死者たちの悲哀に満ちた呟きのように感じられもしたものだ。

幸いなことに、このなんともけしからぬ霊場徘徊にもかかわらず、その後も我が身にはとくに不吉なことなど何も起こりはしなかった。あまりの図々しさに、恐山一帯に漂う霊魂も呆れはて、遠巻きにして眺めでもしていたのかもしれない。

そんな昔の想い出を懐かしみながら、さりげなくS君の表情を窺うと、霊場内を一目さえも覗くことができないのは残念でたまらないとでも言いたげである。そんな様子を見ているうちに、なんとかしてやろうというサービス精神がむらむらと胸中に湧いてきた。ただ、そうは言っても、昔のかたちだけの柵とは違い、現在の板塀はしっかりしていて隙間がないから、それを乗り越えたり擦り抜けたりするのは難しそうだった。また、たとえ可能であったとしても、そんな軽犯罪まがいのことまではしたくないとあって、いったんはそこで諦めかけもした。

だが、この宇曽利山湖の地形に通じていた私は、一箇所だけ意外な死角があることに気がついた。もちろん、過去に死角となっているそのルートの利用を考えたことがあるわけではなかったが、たぶん霊場内へと通り抜けられるだろうという想いはした。そこで、見当をつけたその地点に近づくと、S君をあとに従え、ちょっとした潅木の繁みと深い草むらの続く湿地帯へと分け入った。

しばらく進むうちに、案の定、地元の誰かによってつけられたとおぼしき、かすかな草の踏み跡らしいものが目にとまった。このまま進めば宇曽利山湖畔の白砂の浜辺に抜けられるに違いない――そう確信した私は、いちだんと足を速めて草むらを分け進んだ。そして、ほどなく、視界を遮るようにして行く手に現れた岩場を乗り越え、その向こう側へと踏み入った。我々の眼前に広がったのは、まぎれもなく、一面を大粒の石英質の白砂で覆われた宇曽利山湖畔の美しい浜辺だった。

その浜辺の中ほどまで進んだ我々は、そこにしばらく佇んで、黄昏時の残光のもとでなお濃紺に澄み輝く宇曽利山湖の静かな湖面に眺めいった。水辺のあちこちからは温泉が涌き出し、それとともに噴き出してくる硫黄が湖面の一部を黄緑色に染めながら水中に溶け出してもいた。他に人影はあろうはずもなく、渚に寄せる波の音も絶えて、あたりは静寂そのものだった。

南の空を見上げると、つい先刻までまだ白ぽい色をしていた上弦の月が、宵の深まりとともにぐんぐんと青い輝きを増していくところだった。眼前の宇曽利山湖面に映るその半月の影は、まるでそれが幽界を照らし出すいまひとつの上弦の月であるかのような錯覚さえもたらしもした。賽の河原のある一帯や本堂方面を遠望できる高みにもちょっとだけのぼってみたが、荒涼とした月下の岩場のあちこちで熱水が噴き出し、硫黄が燃え、高温の蒸気が勢いよく中空に立ち昇る異様な光景は、いつもながら冥界を想像させるに十分なものだった。

ただ、非常手段を駆使しての時間外場内見学だったので、さすがにゆっくり地獄めぐりをし、温泉に身をひたすというわけにはいかなかった。それでなくても、恐山に寄り道したことで予定時間をかなりオーバーしていたから、そのあとは夜を徹してのノンストップ走行で東京に向かわざるをえない状況になっていた。もう一度宇曽利山湖畔に佇み、湖面に映る月影をしげしげと眺めたあと、我々は往路とおなじ細道を逆にたどって車のところへと戻り着いた。来る時につけた踏み跡を月明かりのもとではっきり確認することができたから、とくに迷ったりするようなこともなかった。

恐山をあとにした我々は、陸奥市から国道三三八号線に入り、夜の下北半島をいっきに東岸伝いに南下した。広大な湖沼地帯や核物質処理施設の存在で知られる六ヶ所村も、かつては総合開発の基地として脚光を浴びていた小川原湖周辺もあっというまに走り過ぎ、米軍の基地で知られる三沢市に入った。そして、三沢からは百石町と八戸市を経て八戸自動車道に入り、安代で東北自動車道に合流した。東京府中に戻り着いたとき、この旅での走行距離数はほぼ四千九百キロに及んでいた。もちろん、往路にフェリーで移動した新潟から小樽までの距離数はその中に含まれていない。
2001年10月31日

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