初期マセマティック放浪記より

149.北旅心景・美深から湧別へ

山岳地帯を縫って道北から道東へと抜ける途中、美深町東部にある松山湿原に立寄った。かなり山深いところにある駐車場で車を降り、そこから急な山道を三十分ほど登ると、標高七九七メートルの山上湿原に着いた。泥炭質の地層からなる松山湿原は国内最北の高層湿原である。開けた湿原を取り囲むようにして、小振りのアカエゾマツと大振りのクロエゾマツの混交林が広がっていた。緩やかな曲線を描いて下方に垂れしなうようにしてのびるエゾマツの枝振りは、舞踏会で見る若い女性の後姿を偲ばせる。

静寂そのものの無人の湿原では、涼やかに吹き抜ける風の中で、一面に咲き開いたワタスゲが小刻みに震えながら波打っていた。白く小さな集合花をつけたヒメシャクナゲも湿原のあちこちでひそやかに咲いていた。タチギボウシの大群落も目についたが、花が咲くのはまだこれからのようだった。あれこれととりとめもない想いをめぐらしならが木道伝いにのんびりと湿原を一周し遊歩道の出発地点に戻ったが、その間に湿原を訪ねて来た人は他に誰もいないようであった。

「松山湿原」の案内板の脇には鐘がひとつさげられていた。湿原が濃い霧に覆われたときなど、散策中の人に出発地点の位置を知らせるにこの鐘を鳴らしたりでもするのだろうか。他に人がいないのをよいことに、私は備えつけの木槌を手にすると、二、三度力いっぱいにその鐘を叩いてみた。そして澄んだ鐘の音が一帯に響き渡るのを耳にしながら、たぶん、この湿原を訪ねるのはこれが最初で最後になるだろうと思ったりもした。

こんなところをこの歳になって独り訪ねたなどということを何時の日かこどもたちが知ったりしたら、いったいなんと思うだろう。ただもう能無し親父のロクでなしめがと考えるだろうか、それとも、貧乏旅行をものともせず人跡稀なこの秘境を独りで黙々と歩いたその意気に、せめて敬意のかけらくらいは表してくれるものだろうか……。そんな愚にもつかぬことを考えながら、あちこちに白く愛らしいゴゼンタチバナの咲く山道をゆっくりと下っていった。

駐車場からダートの林道をさらに奥まで詰めたところには雨霧の滝と女神の滝という二つの滝などもあった。男性的な雨霧の滝までは車で行けたが、女神の滝まではそこからさらに熊でも出そうな藪道を掻き分け、しばらく歩かねばならなかった。しかし、その名の通り、女神の滝は、玄武岩柱状葉理層を流床にもつ実に美しく滑らかな滝だった。

松山湿原一帯の散策を終えたあと、美深峠を越えて雄武町西部に入り、さらにそこから下川町方面へと抜ける途中で、これまた奥深いところにある幌内越峠に差し掛かった。するとその時、峠から西に分岐するダートの林道入口に立つ、「神門の滝入口」と表記された案内板が目にとまった。案内板には「この先七・四キロメートルのところに落差四〇メートルの神門の滝をはじめ、さまざまな滝群があり、手つかずの無垢の姿の自然をたっぷりと味わえます」という一文が付記されていた。そして、その案内板の脇には「熊出没につき注意!」という警告表示のおまけまでが添えられていた。

熊は怖いが手つかずの自然とやらは見てみたい、いや、どうせならついでに熊も見てみたい。こんな看板を見せられて引き下る手などあるものか――そう決意した私はすぐにその林道へと車を乗り入れた。

四輪駆動走行に切り替え、かなり凹凸の激しい林道を五キロほど奥まで進むと、エゾマツ、トドマツ、ミズナラ、シナノキ、カンバ類などの大木が鬱蒼と茂る原生林地帯に差し掛かった。たまたま目にした案内板の解説によると、その一帯約三十二ヘクタールは奥幌内原生保護林として守られてきている自然林で、真の意味での原生林として古来手つかずのまま残っているのは、いまでは道内でもこの周辺だけになってしまったのだそうだ。なるほど、樹木の密生度と言い、偉々とした樹々の枝振りと言い、原生林の名に恥じないものである。昔は北海道のいたるところにこのような原生林が存在していたのだろう。

そこからさらに二、三キロ近く林道を分け入ると、神門の滝入口を示す標識と来訪者用の小さな駐車場が現れた。車を降りて滝のあるほうへ歩きはじめると、またもや「熊出没につき注意!」という警告表示が目に飛び込んできた。警告は有り難いが、注意しろと言われても、こっちの都合などお構いなしに突如出てくる相手とあってはどうにもならない。「人間も出没しますのでご注意ください!」と熊たちに向かって警告板を立てたい気分にもなってきた。

神門の滝は細い水流の小滝が多数集まってできた大きな滝だった。全体の幅は相当に広く、落差も四十メートル以上で、ほぼ垂直に流れ落ちていたが、「神門」という言葉の響きから受けるイメージとは違ってどこか女性的な感じさえする滝であった。滝壷のすぐそばまで降り、霧雨状の飛沫を全身に浴びながら流水で顔や手足を洗ったりしたが、ほどよい冷たさで実にさっぱりした気分になった。他にもいくつか滝があるようだったが、地形的な面から見てほぼ似たような構造の滝だろうと推測できたので、神門の滝を見物しただけで車へと引き返した。そして、幸か不幸か熊どもにも出遭うことなく幌内越峠の林道入口に戻り着いた。

幌内越峠をあとにすると、下川町を経て岩尾内ダムまで南下、そこから東進して上紋峠を越え、滝上町へと抜けた。そして滝上町中心街の少し手前で原野線に入り、同町南部の上渚床方面へと向かった。上渚床に近づくころになると、左右の景観は、一面若草に覆われた雄大な牧場地帯へと変貌した。いましも西方の山陰に沈もうとする夕日を浴びて赤緑に映える広い草地を、どこか愛嬌のある歩きぶりでトコトコと横切って行くキタキツネの姿がなんとも印象的だった。まるでその有様は絵本の中に見る懐かしい光景そのままだったからである。

上渚床からは地方道を辿って中牛立に進路をとり、そこから丸立峠を越えて丸瀬布町へと抜けることにした。なお牧場地帯の続く中牛立を過ぎ、丸立峠に向かって南進するうちに道は深い谷を縫う細いダートの悪路に変わった。そして、そのダートの道を登り詰め、北見富士を指呼の間に望む標高五三〇メートルの立丸峠を越える頃には、西空は赤紫の深い黄昏色に染まっていた。

丸瀬布に着いたのはちょうど午後八時頃だった。丸瀬布町営の温泉施設で一風呂浴びて汗を流そうと思ったのだが、あいにく休館日にあたっていて入浴はできなかった。どこか入浴だけをさせてくれる温泉宿はないかとあちこち探しまわってみたが、結局そんな宿をうまく見つけることはできなかった。しかたがないのでこの夜の温泉入浴は諦め、もう一走りしてそのままサロマ湖方面へと出てみることにした。

途中の遠軽町でコンビニに立ち寄り弁当を買って遅い夕食とし、そのあと上湧別町を経てオホーツク海に臨む湧別町の三里が浜に出た。三里が浜は、オホーツク海に向かって左手からサロマ湖を抱えるようにのびる十キロメートル余の細長い腕部の先端に位置している。すぐ近くには、サロマ原生花園や、秋のころになると一面美しいピンク色に染まるサンゴソウの群生地などもある。

この夜、三里が浜の駐車場には他に車の影はなかった。その駐車場で一夜を明かすことに決めた私は、後部シートフラットにし、エアベッドを膨らませ終えると、しばらくあたりを散策するため車外に出た。そしてすぐそばの堤防を越えると、オホーツク海に面する砂浜に降り立った。夜風に乗って響いてくる潮騒に耳を傾けながら北の空を見上げると、悠然と輝きめぐる北斗の七つ星が大きく頭上に迫ってきた。

北斗七星の柄の端から数えて二番目の星のすぐ脇には、まるでそれに寄り添うようにして輝くミザールという名のごく小さな星がある。このミザールという星は六等星で、その明るさは肉眼で識別できる限界に近い。旧海軍などでは視力検査にも用いられていたとか聞いたことがある。周辺が暗く大気が澄んでいるところなら、視力が一・二くらいあれば見ることができるのだが、最近はどこへ行ってもやたら夜空が明るいため、識別するのがなかなか難しくなった。そのミザールのかすかな光を久々にはっきりと見分けることができた私は、なんだか嬉しくなってしまった。我が視力がいまなお健在である確証を得たこともその理由のひとつではあった。
2001年9月12日

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