初期マセマティック放浪記より

137.時計に騙された話

先日銀座に出かけた際、有楽町フードセンターの前を通りかかった。その時、記憶の奥底で眠っていた若き日の苦い想い出が突然昨日のことのように甦ってきた。

まだ大学に入学してほどない頃のことだが、体育の時間に更衣室のロッカーに入れておいた財布と腕時計とを、ロッカー荒しに盗まれてしまったことがある。安物の財布には小銭が数枚はいっていただけだったから、そのほうはすこしも惜しいと思わなかった。だが、大学入学のお祝いに知人からもらった腕時計を盗まれたのはショックだった。

いまとは違い、当時、腕時計は相当な貴重品だった。国産の一般的な腕時計でも新しいものは五千円前後したと思う。ラーメン一杯が七十円くらいの時代のことだから、学費と生活費一切を奨学金とバイト料のみでやりくりする貧乏学生の身にとって、それは大変な痛手であった。時計がなくても携帯電話その他の機器によって容易に時刻の確認ができる現在とはわけが違う。不便なことこのうえなかったが、しばらくは腕時計なしで過さざるを得なくなった。

そんな折も折、私は、たまたまこの有楽町フードセンターの前を通りかかった。高速道下の広い通路の脇にはかなりの人だかりができていた。なんだろうと思って前の人の肩越しに中を覗き込んでみると、一人の男が広いシートの上にたくさんの腕時計を並べ、周囲を取り巻く人々に向かってなにかを説明しているところだった。男の左脇には、やはり新品の腕時計の入った細長い箱が何段にも積み重ねられていた。

男は、新聞の切り抜き記事とある有名週刊誌の一ページを指し示しながら、そこに紹介されている新型時計は、いま自分がキャンペーン中の時計と同じ製品にほかならない、という主旨のことを言葉巧みに語っていた。一見したかぎりでは、記事中の写真の時計とシートに重ね広げられた時計とは確かに同じ品物であるように思われた。彼が指差す新聞の切り抜きと週刊誌の記事の見出しには、「画期的な新型腕時計近日発売!」といったような意味の文字が踊っていた。

某一流時計メーカーが、画期的な新技術を用いて省エネルギー型の新式腕時計を開発した。その時計はほどなく全国で発売されることになっているが、現在はそのキャンペーン期間中で、このように新聞や雑誌などでも大きく紹介されている。自分もメーカー傘下のキャンペーン部隊の一員として街頭に出て、皆さんにその時計の素晴らしさを紹介して回っているようなわけなのだ。

男はそのような大筋の口上を一通り述べ終えると、並べられた時計の何個か取り上げて数人の人々に手渡し、それらの感触やデザイン、構造などをじっくりと確認させた。最初に受けとって確認を終えた隣の人から私もその時計を手渡され、自らの手と眼をもってじっくりと品定めをしてみたが、手に伝わる重量感といい、上質で滑らかな金属の感触といい、また文字盤やバンド部分のデザインといい、どれをとっても某有名メーカーの高級時計に恥じない造りのものであった。

時計の品質を確認し終えた人々から時計を回収し終えると、男はタイミングを見計っていたかのようにこう切り出した。
「皆さんにも手にとって見ていただきましたこの新型腕時計の発売予定価格は七千円前後です。かなり高価なのですが、現在はキャンペーン期間中ですから、ここにご用意した時計だけは、事前の宣伝を兼ねて、特別価格五百円でお頒け致します。数に限りがありますので、すべての方には行き渡らないかとは思いますが、大変お買い得だと存じますので、この機会を逃さず是非お求めください」

それはなんとも巧みな殺し文句ではあった。現在なら、街頭においてこのような有名時計メーカーの新製品キャンペーンが行われることはまずない有り得ない。だが、テレビやラジオで流されるコマーシャルがいまほどには宣伝効果をもたず、全国的に見ると、カラーテレビはもちろん、白黒テレビでさえも普及率がいまひとつだったこの時代には、時々このような宣伝キャンペーンも行われていたから、話はよけいに紛らわしかった。鹿児島から上京したてのまだ純朴な世間知らずの身には、生き馬の目を抜く大都会の怖さなど知るよしもないところであった。

この時計が五百円かあ、まあ悪くない話だよなあ、ちょうど腕時計が欲しかったところだし、五百円は大金だけど、たまたま持ち合わせもあることだから――そんな思いを胸中に抱きながらも、私はしばらくその場でどうしようかと躊躇っていた。

突然、すこし離れたところで考え込むような顔をして立っていた恰幅のよいスーツ姿の男が、意を決したように五百円を差し出し、先刻確認したなかの時計の一つを買い求めた。お金を受け取った側の男は素早い手つきで時計の入った箱を包み、すぐさま相手に手渡した。それに続いて、今度は、違う場所にいた二、三人の男女が自分も欲しいと言いながら、それぞれに財布を開いてお金を取り出した。すると、それに誘い立てられるかのようにして、人々の輪の中から、我も我も言わんばかりに、お金を手にした多数の手が男に向かって差し出された。そして、そのたくさんの手の中にほかならぬ私の手が混じっていたことは言うまでもない。

男は慣れた手つきで次々に目の前の時計の箱を包み、手際よく我々に手渡してくれた。いや、実際には脇に積み重ねてあったほうの箱を包んでさりげなく手渡していたのかもしれないが、いまとなってはそのへんのことはよく判らない。ただ、いずれにしろ、手品まがいの手口が用いられたことだけは確かであった。私が手にした細長い箱の包みからは、中に収まっているはずの腕時計の重量感がほどよく伝わってきた。いくぶん面はゆい思いをしながら受け取った時計をポケットに仕舞い込んだ私は、あとで箱を開けることを楽しみにしながら、そそくさとその場を立ち去った。

あとになって思えば、最初にお金を差し出した何人かはたぶんサクラで、売り手の男とはグルだったのであろう。そして、確認のために人々に手渡された時計は本物で、サクラたちが買うふりをして持ち去った品物も本物だったと思われる。新聞の切り抜きや週刊誌の記事は巧妙に偽造加工されたものか、さもなければ何らかの時計についての実記事を悪用したものだったのだろう。

時計を買い求めたサクラ以外の多くの人々は、しばらくしてから見事にハメられたことに気づき、地団太踏んで悔しがったに違いない。いや、あまりの鮮やかな手口に、私同様、自嘲の言葉も出ぬままに、しばし呆気にとられていたというのがほんとうのところであったかもしれない。相手はいいカモとなった我々の心理を憎らしいまでに読み切っていたからである。

詐欺まがいのもであるにしろ、そうではないものであるにしろ、この種の街頭セールでなにかしらの品物を購入した者が、その場ですぐにその包みを開きその中の品物を確認するといったようなことはほとんどない。それがごく普通の買い手の心理というものなのだが、相手はその心理をあらかじめ計算に入れ、巧みに利用したのである。

なんとなく気になった私が、ポケットの中から細長い箱包みを取り出しそれを開けてみたのは、十五分ほど経ってからであった。中には確かに時計らしいシロモノがはいってはいたのだが、何やら様子がおかしい。慌ててその中身を取り出した私は、あまりのことに愕然とし、怒りの言葉も出ない有様だった。その時計がいまばやりの偽ブランドの時計だったというくらいならまだしもましというもの、いや、百歩譲って、インチキ商品であれ何であれとりあえず動く時計ならまだ救いもあった。

だが、呆れたことに、そのシロモノときたら、プラスチック製のちゃちな文字盤と安っぽいビニール製のバンドからなる幼児用のオモチャの時計だったのだ。さらにご丁寧なことには、その時計の内部には鉛の塊が詰め込まれていたのである。なんてことはない、手に伝わってきたほどよい重量感なるものはその鉛のせいにほかならなかった。どんなに高く見積もっても二、三十円程度のシロモノなのだが、なんとそれに五百円もの大金を支払わされたというわけであった。大急ぎでもとの場所まで引き返してみたが、むろん、男の姿はもうどこにも見当たらなかった。

世間知らずの我が身の愚かさを自嘲しながら通りかかったガード下には、幼い子連れの泣き屋の女の姿があった。その前を通りながら、どうせなら騙し取られた五百円を泣き屋にやってしまえばよかったと思いもした。当時、有楽町や新橋のガード下周辺には、空き缶を前に置き、ボロを纏ったみすぼらしい姿の泣き屋が、通行人に向かっては激しく泣き伏しながらその同情をかっていた。その女の脇には必ず四、五歳ほどの幼児が哀しそうな顔で坐っていて、人々に空腹を訴え、周囲の助けを求めるかのように涙を流してもいたものだった。

地方から上京してきたばかりの心優しい人々は、初めて目にするそんな泣き屋親子の姿にひとかたならぬ同情を覚え、いくらかの小銭を空き缶の中に投げ入れてやるのが常だった。貧乏学生だった私も、上京したての頃には、ついつい情にほだされ何度か缶の中に十円玉を放り込んだ記憶がある。実を言うと、この泣き屋がまた曲者だったのだが、もちろん、この時はまだ泣き屋の世界の裏事情など知るよしもなかった。

それから半年ほどしてからのこと、都内の福祉施設や養護施設でのボランティア活動に参加し始めた私は、当時江東区木場の一角にあった塩崎荘という民間経営の父子寮で思いもかけぬ事実を知って愕然としたものだった。ちなみに述べておくと、父子寮とは生活力のない父子家庭のために設けられた一種の福祉施設で、母子寮などとは違って国内でもきわめて珍しい存在であった。現在その場所には中国残留孤児の帰国者たちの専用住宅が設けられている。

貧しくても我が子だけは必死に育て上げようとする母子寮の多くの母親たちと違って、人格的な破綻者も少なくなかった父子寮の父親たちは、我が子に窃盗やスリ、恐喝、売春、売薬といったような行為を教唆したり強要したりすることなど、なんとも思っていなかったようである。むろん少数の例外はあったが、彼らのかなりの者がそうやって子どもたちが稼いだ金品を巻き上げ、自分は何もせずに日々酒を喰って寝ているといった有様だった。

当時、その父子寮にはとても人なつこい四、五歳くらいの男の子がいて、彼は我々学生ボランティアのところによく遊びに来たものだった。ある日彼と一緒に遊んでいると妙にお尻を痛がるので、必死に抵抗するのを押さえて、そのズボンとパンツを脱がせてみた。彼のお尻にはほうぼうに紫色の痣や腫れがあり、また皮膚のあちこちがタコのように固くなってしまっていた。我々が理由を訊いても彼は頑として口を割ろうとはしなかった。幼い心なりに、彼が何らかの秘密を懸命に守ろうとしていることは明かだった。

その不可解な事態の背景を説明してくれたのは、父子寮の管理責任者でもあったベテランケースワーカーの財部さんだった。怪訝そうな顔の我々に向かって、財部さんはこともなげに、「ああ、あの子のお尻のことかい?、あれは泣き屋のせいなんだよ。わかっていても止めようがないんだけどね。でもねえ、あのくらいのことで驚いていたら、あんたがたにはここでの活動なんか務まらないよ」と言ってのけたのだった。

呆れたことに、彼の父親は一日いくらの約束で泣き屋の女に我が子を貸していたのである。泣き屋の女は借りた子どもを連れて繁華街近くのガード下などに出向き、空腹状態にさせておいて、人がそばを通るたびに悲しそうに泣きわめかせ、自らも泣き伏しては同情を求める演技をしていたのだ。子どもが言うことをきかなかったり、途中で疲れたり、うまく泣けなかったりすると、容赦なくお尻をつねったり叩いたりしてひどい折檻を繰り返していたようである。

当時の泣き屋が実の子を連れて街頭に出向くことは少なく、実際にはほとんどがそんな借り子であったらしい。考えてみれば、子どもはすぐに成長するものだから、長年にわたって泣き屋の仕事を続けるには、通行人の同情を買うにほどよい年齢の子どもを確保するため、次々に子どもを取り換えていかなければならない。だから、泣き屋が子どもを借りるのは当然のことではあったのだ。むろん、児童虐待もいいところで、いまからするとひどい話ではあるのだが、この種の行為やそれ以上に惨たらしい行為が大都会のいたるところで行われていた時代のことだから、わかっていても誰にもどうすることもできなかったのである。

「あのくらいのことに驚いていたら、あんたがたにはここでの活動なんか務まらないよ」という財部さんの言葉には誇張などなかった。それについてはここでは書かないが、実際、私たちはその後の活動を通して想像を絶する体験をすることになったのであった。

見事に騙されたそんな経験を皮切りに、一筋縄ではいかない都会の裏の姿を少しずつ学んだお蔭で、この歳になった今では、私も、その気になればちょっとした詐欺師くらいにはなれるほどにずる賢くもなった。いや、よくよく考えてみると、そもそも物書きという職業からして体のよい詐欺師みたいなものだと言ってよいだろう。愚にもつかないことを書いては多くの人々の関心を惹き、それでなんとか生きている。あのインチキ時計売りの男や泣き屋の女たちを責める資格は、もしかしたらいまの私にはないのかもしれない。
2001年6月13日

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