初期マセマティック放浪記より

133.日本の臍を訪ねて

日本の中心とは、言うなれば「日本の臍」のようなものである。是非その日本の臍に足跡を刻んでみたいと意気込んで突入した林道だったが、ほどなくそれはゴツゴツした岩だらけのダートの悪路に変貌した。九州から北海道まで様々な林道や険路を走り回ってきた身だから、悪路は少しも気にならない。だが、このときばかりは、いったんエンジンが止まってしまったら、殴っても蹴飛ばしてもスターターが再起動しないおそれがあるという状況だったから、そのぶん慎重にならざるを得なかった。いまや「哀車」の域にいたらんとしている我が愛車は昔ながらのマニュアル車である。だから、突然岩角に乗り上げたり溝にはまったりして、一瞬クラッチの切断操作が遅れたりしたらたちまちエンストしてしまう。

そうこうするうちに道は悪路に加えて車一台通るのがやっとの急坂路になった。四輪駆動に切換え、時には車体を宙に浮かしたりしながらカタガタ走行を続けるうちに、みるみる高度は上がってきた。それでもなお急坂路が連なっているとこをみると、どうやら日本の臍は相当なデベソであるらしかった。

やがて車は広大な赤松林に差し掛かった。前方右手から左手に向かって急角度で落ち込む斜面一帯には赤松の密生林が分布していて、その中を縫うようにしてダートの隘路がなお上方へとのびている。秋になるとずいぶん松茸が採れるんじゃないかなと思いながらアクセルを踏み続けていると、案の定、「茸山につき許可なく入山を禁ず」と記された立看板が現れた。たとえ「入山を許す」と言われても「結構です」と辞退する人のほうが多いのではないかな、と思いながらさらに高度を上げていくと、ようやくのことで多少見通しのきく尾根筋に出た。

眼下はるかに天竜川のものとおぼしき谷筋が広がり、足元の斜面はその谷に向かって急角度で落ち込んでいる。周辺の景観からするともう相当な高さのところに来ていることは間違いなかった。林道入口の標識には「日本中心の標まで6.3キロ」とあったが、既にそれ以上走っている感じである。しかし、目標地点らしいものはまだ視界には入ってこなかった。

これまでの経験からしても、公的なもの以外の距離標識の表示はあまり当てにはならない。地図上でおおまかに図った水平距離と垂直方向への変化や大小のカーブを計算に入れた実距離との差は大きいから、最悪の場合には、表示距離の二、三倍は走る覚悟をしておいたほうがいいだろう。北海道などにおいては、一キロメートルと表示のあるところが実際にはその何倍もあるといったようなことも少なくない。

こんなところで対向車が来たら困るなとは思ったが、幸い、その心配はなさそうだった。そのかわり、ここでエンジンが止まって動けなくなってしまったら、他車に拾ってもらえる可能性など皆無に等しい。いずれにしろ、ここまで来たらどうあろうとも日本の臍目指しひたすら前進するしかない状況だった。進行方向左手は深い谷となって切れ落ちている。急坂の狭い林道の路肩は見るからに脆弱そうだったので細心の注意を払わなければならなかった。

だが、最大の難所が待っていたのはその先だった。行く手の道路が二、三百メートルにわたって一面残雪に覆われ、カチカチに凍結していたのだ。エンジンが止まらないように気をつけながらチェーンを装着したあと、とりあえず路面と雪の状態を細かくチェックしてみることにした。車幅よりわずかに広い程度の路面は谷側に傾斜しているうえに、二、三箇所路肩が崩れかかっているところがある。しかも、道全体はかなりの急坂だった。山側に車をいっぱいに寄せ、車体を傾けながら通ればなんとかなりそうではあったが、まんいち横滑りを起こして谷側へと脱輪したらひとたまりもなさそうだった。

雪面上に轍らしいものがほとんど残っていないところをみると、最近ここを通った車はないらしかった。慎重のうえに慎重を期すため、スコップを取りだし、とくに危なそうな個所の山側には左側車輪を通すための溝を掘った。天気がよく気温がかなり上がっていたため、凍結面になんとかスコップの先を突き刺すことができたのは幸いだった。スコップの先も突き立たないほどに凍結していたらどうしようもなかったかもしれない。

車を置いて徒歩で目的地まで登ろうかとも思ったが、車に戻ったあと来た道を引き返すため、切り返し可能な場所までバック運転するのも容易なことではなさそうだった。長い悪路をバック運転する途中でエンストし、スターターが再始動しなかったらお手上げだし、たとえJAFの救援車が駆けつけてくれたとしても、このような状況下では牽引もままならないに違いなかった。また、そもそも、この深い山中で携帯電話が使えるかどうかさえ定かではなかった。

ここは猪突猛進あるのみとばかりに、勢いをつけて凍結した路面に車を乗り入れた私は、そのまま一定の速度を保っていっきに問題の場所を乗り切ろうとした。慎重になるあまり下手に速度を落とし過ぎ、途中でストップしようものならかえって危ない。一瞬車が右に傾き、右斜め前方に少しスリップして内心ひやりとさせられはしたが、凍結した残雪に大きく車輪をとられることもなく、なんとか無事にその難所を切り抜けることができた。いったん車を停めチェーンを外してから轍を確かめに戻ってみると、文字通り路肩ぎりぎりのところを右車輪が通過したらしいところが一箇所だけあった。

路面の凍結個所を過ぎてしばらく進むと、道の傾斜が緩やかになり、突然、明るく開けた感じの稜線上に出た。「辰野町、日本中心の標」と記された案内板が立っているその地点からさきで道は二手に分岐し、左手の道のほうは急な下りとなって南の方角へとのびていた。「日本中心の標」の方向を示す案内板の矢印にしたがい、もういっぽうの右手水平方向に続く道伝いに百メートルほど進むと、鉄塔風の大きな展望台の立つ場所に出た。そしてそこで道は行き止まりとなった。

どうやら、遠く人里離れた静寂そのもののこの地点こそが、ほかならぬ「日本の臍」であるらしかった。日本の中心とうたわれる地理上の特異点がこれほどに辺鄙な山奥に位置しているというのは、なんとも興味深いかぎりではあった。

エンジンをかけたままにして車を降りると、すぐに私は展望台に上ってみた。ほぼ三百六十度の展望のきくその高みからは、近辺の山々は言うにおよばず、八ヶ岳や甲斐駒、北岳、経ヶ岳、さらには木曽御岳、乗鞍岳などよく知られた山々の姿も遠望された。まだ周辺の山々は冬枯れの状態のままだったが、新緑や紅葉の季節になれば一帯が美しく彩られるだろうことは想像に難くなかった。

深山の大気を肺いっぱいに吸い込んだあと、私はゆっくりと展望台を降りた。そしてそこから四、五十メートルほど離れたところにある黒っぽいハンレイ岩質の四角い石碑の前に立った。その碑にはかなり丸みのある字体で、「日本中心の標」という六文字が深々と彫り刻まれていた。碑文の文字を揮毫したのは中川紀元という人物のようであった。またその碑には、「日本の中心」だというこの地点の正確な緯度、経度、標高があわせて表記されてもいた。

経 度:東経137°59′36″
緯 度:北緯 36°00′47″
標 高:海抜1277m
所在地:長野県辰野町鶴ヶ峰(標高1291m)付近

以上が日本の中心、すなわち、日本の臍の所在地に関する詳細なデータである。地図を見てもらうとわかるが、岡谷と塩尻を結ぶ国道20号線、諏訪湖畔の岡谷と辰野町をつなぐ天竜川沿いの県道、そして塩尻から辰野町にのびる国道153号線の三路線に囲まれた三角地帯は、ちょっとした山岳地帯になっている。その山岳地帯のほぼ中央にあるのが鶴ヶ峰という山で、問題の「日本の中心」はそのすぐ近くに位置しているのだった。

日本の中心の標に刻まれたデータを眺めているうちに、いったいどういう算定法のもとに、この地点を我が国の中心と定めたのだろういう疑問が湧いてきた。一番単純な方法は、全国の海岸線沿いの各地に多数のチェックポイントを設定し、それらの地点の経度と緯度との平均値を算定することだろう。単純に平面として考えたときの日本地図の重心を算出し、それを日本の中心と定めるやりかたである。その場合でも、小笠原諸島や琉球諸島など日本本土から遠く離れた島々のデータ等を算入するととなると、それらの処理の仕方によって算定値にかなりの違いが生じかねない。

まして、山岳地帯や平地などといった立体的な地形分布まで考慮してその物理的重心を計算するとなると、話はますます厄介なことになってくるはずだ。そこまで考えたとき、私はこのAICのライターの中に、野々村邦夫さんというその道の大家がおられることを想い起こした。私が初めてAICに登場した頃、本欄の編集責任者の穴吹キャスターは、半ば冗談まじりに私のことを「動く国土地理院」などと紹介していたようであるが、その後に登場なさった野々村さんは正真正銘の国土地理院長を務められた方である。ここはもう、専門家の野々村さんにお伺いをたてるしかないと私は考えた次第だった。

続いて湧き上がってきた疑問は、もしもここが日本の中心であるとすると、日本の最果てはいったいどこになるのだろうというものだった。さっそく私はいつも資料として車に積んである地図帳を取り出し、日本周辺の地図の表示されているページを開いた。次にこれまた七つ道具のひとつディバイダーを手にして両針先を大きく開き、その片方を現在地と思われる地点に突き立てた。そしてそこを中心にもう片方の針先で円弧を描きながら日本の領土のどこが一番遠いのかを調べてみた。

その結果判明したのは、沖縄県の与那国島の南西端が最果ての地にあたるらしいということだった。地図の縮尺を用いて概算すると直線距離にして約1800km、この距離を半径にして円を描くと、沖の鳥島も南鳥島も、択捉と国後の両島もその円内にすっぽりとおさまった。北方で与那国島までの距離に相当する地点は、樺太島北部とアジア大陸との間に位置する間宮海峡の北端、アムール河(黒竜江)の河口付近であることもわかった。中国の北京もほぼ同距離に位置していた。

日本の臍に別れを告げたあとは、やってきたほうの林道には戻らず、反対側へと下る林道に入った。意外なことにそちらの林道は道幅も広く路面もしっかりしていて走るのに何の苦労もいらなかった。どうやら、こちらの林道のほうが日本中心の標に至る本道だったようで、私がハラハラしながら辿ったほうの林道は裏道であるらしかった。

しばらく下っていくと、右手に句碑らしいものが現れた。それは「江ほむら」という、いままで耳にしたことのない俳人の句碑であったが、そこに刻まれていたのは私のような素人の目にさえも素晴らしいと思われる一句であった。

古里のどの山からも雪がくる

これ以上何の説明もいらない明快さ、それでいて信濃の冬のすべてを語り尽くしているその見事さ――この絶妙な十三文字の句に出逢えただけでもわざわざこの地を訪ねた甲斐があるというものだった。

江ほむらという俳人は、本名を吉江今朝人と言い、大正九年に辰野町で生まれた人物であるらしい。句碑裏に記された経歴の語るところによると、電通大を卒業後、長年気象庁に勤務、退職後は地元岡谷に在住し、秋元不死男、鷹羽狩行、上田五千石らに師事して句作を学んだとのことであった。句碑の建立は平成5年9月25日となっているから、まだそう古いものではないようだった。

それにしても、それが立つ場所が場所だから、地元の俳句関係者以外の人がこの句碑を目にすることはめったにないだろう。いや、もしかしたら碑の建立者たちはそれを承知で敢えてこのような場所を選んだのかもしれない。標高千メートルを越えるこんな山上のことだから、冬には句碑ごと深い雪に埋もれてしまうに違いない。ひょっとすると、それこそがこの碑をこの場所に立てた人々の狙いでもあったのかもしれないという思いさえした。

そんな他愛もないことなどを考えながら、私はおもむろにその場をあとにした。七蔵寺林道と呼ばれているらしいその林道は、下るにつれて道幅が徐々に広くなり、途中からはしかりした舗装道路に変わった。林道を下りきったところは辰野町の中心街のすぐ近くだった。悪運が強いというかなんというか、エンジンを一度も切らずになんとか林道を走破できたので、再度スターター始動不能の事態に再度陥り、山中で立ち往生してしまうことなどもなくてすんだ。

もしもこれから日本中心の標を訪ねてみたいという方があるようなら、辰野町中心街の側からアプローチすることをすすめたい。林道入口付近にはしっかりした案内標識も立っているし、道路状況もそちらのほうが格段によいからだ。
2001年5月16日

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