初期マセマティック放浪記より

128.手の込んだ蔵荒し対策

広い屋敷の一角に建つているその古い土蔵は、見るからに頑丈そうな本格的な造りのものであった。外壁と同色の白塗りの扉は伝統的な土壁とおなじ工法で造られており、厚く重たく、しかもご丁寧なことに二重構造になっていた。昔ながらの落とし鍵をはずして扉を開くと、その内側にさらにもうひとつ頑丈な扉が現れるというわけだった。

蔵の中は一階と二階部分とに分けられていて、一階の床と内壁はがっしりとした厚板張りになっていた。厚板の下に赤土や漆喰を固めてつくった堅牢な土壁が隠されていたことは言うまでもない。床の隅々や四方の壁の接合部分までしげしげと眺めまわしてみたが、ほとんど隙間らしいものは見つからない。ネズミはむろん、ゴキブリ一匹でさえも侵入するは難しそうだった。外部からネズミやゴキブリが侵入するとすれば、扉を開けて資材の出し入れをしている時か、それらが資材と一緒に紛れ込んだ場合にかぎられたことだろう。

二階にあがるには、梯子段の上部に設けられたネズミ返しというスライド式開閉扉を下側から開き、そこを通り抜けて中に入る。まんいちネズミが一階に侵入した場合でも、このネズミ返しで二階への侵入は防ごうというわけである。懐中電灯を手に二階にあがって中を覗いてみると、一階と同様に頑丈な造りになっていて開閉式の明かり窓が二、三個ほどついていた。試しにこの明かり窓を開き懐中電灯を消してみると、薄暗いながらも昼間なら中でなんとか作業はできそうな感じであった。

ところで、この蔵の中には前の持ち主が不要品としてそのまま置き残していった様々な古い道具類や箱類が収納されていた。なかには、都会の骨董屋に持ち込めばいくらかの値段はつきそうなものなどもあった。また、それにくわえて、新しい蔵主となった小野さんの手で、相模原の自宅から不要にはなったが捨てるには忍びない古家具なども運び込まれていた。だから、まったくの空き蔵というわけではなく、内部も一応それらしい風体にはなっていた。

当時は国内あちこちで蔵荒しが横行していた。この辰野町一帯には古い蔵をそなえもつ旧家がずいぶんと残っていたため、当然のように蔵荒しによる被害が絶えなかった。そんなわけだったから、極めて貴重な品物はなにも収められていなかったにしても、酔狂な蔵荒しどもに小野さん所有のこの蔵が狙われる可能性は十分にあった。そこで、半ば遊び心を交えてそれなりの自衛策を考えようということになったのである。しかも、蔵荒しの侵入をあらかじめ防ごうというのではなく、彼らの侵入を前提とした少々意地悪な自衛策を講じようということになったのだった。

蔵の二階には前の所有者が残した古い木の空き箱があった。昔は高価な置物か貴重な什器類がはいっていたのではないかと思われる飾り紐つきの立派な箱で、全体的に黒光りがしていて見るからにいわくありげな感じだった。私はたまたまこの古箱に目をつけたのである。この箱の中に蔵荒しが開けて中を見たらあっと驚くようなものを入れて封じ、先祖伝来の貴重な品物が収まっているかのような、なんとも思わせぶりな一文を箱の外に記すか、古紙に墨書して貼っておく。そしてそれを目立ちやすいところに、いかにも大事そうに並べておくというのが策略の基本だった。

箱の中に何を入れるかはすぐにきまった。もちろん、言わずと知れたシロモノである。当初はどこかで既製品のオモチャか模型でも探してきてと話し合っていたが、結局、そのシロモノ二個の制作は小野さん自らが引き受けることになった。歯科医の小野さんはもともと大変に手先の器用な方でちょっとした彫刻の心得などもある。時間の許すかぎり歯科技工なども自分でこなしてきた人なので、仕事場には工具も加工用材料もいっさい揃っているし、職業柄、作ろうとしているシロモノの形状にも詳しい。当然その関係の図版資料などにも事欠かないというわけだった。

悪ふざけとも悪趣味ともつかないその策略の相談をしてから三ヶ月ほどたったある日のこと、小野宅を訪ねた私は完成した問題のシロモノ二個を見せられた。そして、それらのあまりの出来栄えのよさというか、一瞬身を引きたくなるような実物顔負け凄みに思わず唸り声をあげてしまった。明るい光のもとでしげしげと見つめ撫でまわしてみてもそれは本物そっくりだったからである。さすがに実物を手にしたことはないので実際のところはわからなかったが、あえて違いをさがすとすれば、多少軽めかなという思いがするくらいのものであった。

それからほどなく我々はそのシロモノを辰野町の蔵まで運び、くだんの古箱の中に収めて薄明かりの中で眺めてみた。真っ暗にしておいて懐中電灯の光で照らし出してもみた。それが偽物だと知っている我々自身でさえも、その不気味さにしばし圧倒される有様であった。脅し効果のほどを確認したあと、箱に蓋をし、飾り紐をしっかりと締めた。そして、揮毫の名手でもある小野さんが「南無大師遍照金剛・家伝秘具秘軸」と墨書したいかにも古そうな和紙を貼りつけた。「南無大師遍照金剛」の文言を用いたことには別段意図があったわけではなく、かつて四国でお遍路さんを体験したことのある小野さんが突然その八文字を思い出して書きつけただけのことだった。お大師様の空海もえらいところに引っ張り出されたもので、こんな不届きな手合いに利用されたことを、さぞかしクウカイいやコウカイなさっていることだろう。「家伝秘具秘軸」六文字のほうはほかならぬこの身の発案によるものだった。

ところで、問題のシロモノとはいったい何だったのか……そう、もちろん、それはお察しの通りである。小野さんはまず二個のほどよい椰子の実を入手した。そして、解剖学の図版を参考にしながら丹念にそれらの椰子を削り刳りぬいて原型を仕上げ、十分に乾燥させた。そしてその表面を入念に石膏で塗り固め、さらにそのうえから水分が抜けて硬化すると象牙質そっくりになる歯科材料の補填材を大量に用意して隈なく塗布したのである。眼窩や鼻骨にあたるところは特に丁寧に細工し、グラインダーを用いて全体的にしっかりと磨きをかけた。

画竜点睛という言葉があるが、この小野冨男作品の場合は、双眼に眸を描き入れて最後の仕上げとしたのではなく、いかにも歯科医らしく、髑髏に歯を入れて最後の仕上げとしたのである。髑髏の不気味さは歯の感じてきまるといってもよいが、なんと小野さんが最後の仕上げに入れた歯には、よりリアルに見せるために人工歯のほかに本物の歯がかなりの数混ぜられていたのだった。歯科医の小野さんは、仕事柄ひどい虫歯や重度の歯周病にかかった患者の抜歯をおこなう。抜かれた自分の歯を持ち帰る患者はほとんどいないから、歯は残る。通常それらは廃棄処理されてしまうのだが、その一部を転用したというわけだった。かくして、夫婦か親子のそれを想像させる大小二個の完璧な髑髏のセットが完成をみたのであった。

悪趣味と言われてしまえばそれまでなのだが、ともかくも我々が講じた蔵荒し対策はそのようなものであった。その後本職の蔵荒しがその蔵に侵入したことがあったのかどうかは定かでない。ただ、小野さんから聞いたところによると、少なくとも一度は我々の知らぬ誰かが無断で蔵に入って問題の古木箱をいじった形跡があるという。小野さんの言葉通りに、その箱を開け中身を目にした人物があったとすれば、腰を抜かさんばかりに驚いたことだろう。

奥さんはすでに他界なさっているが、私より一回り年上の小野さんには、小児科医の長男とコンピュータ技術者の次男のお子さん二人がある。しかし、そのお子さんがたにさえもこの裏話はまだ伝わってはいないようなのだ。我々二人が固く口を閉じたまま、すっかりそのことが忘れ去られてしまったら、先々になって一騒動起こることは間違いない。そうなったら罪つくりもいいところだろう。

東京に戻ってから小野さんに電話し、久々に辰野町の家屋敷の後日談や土蔵のその後の様子などを訊ねてみたが、人手不足で手入れが困難なためいまではかなり荒れた状態になっているとのことだった。もちろん、蔵の中の奇怪なシロモノもそのままになっているらしかった。そこで小野さんに「例の悪ふざけの件を僕の執筆欄でバラしちゃいますよ!」と告げたら、受話器の向こうで、「この時代じゃ、我々もいつなんどきあのような状態になってしまわないともかぎらないからねぇ……ハハハハ」と笑いながら快く了解してくれた。そんなわけで、少々度が過ぎた感じがしないでもない悪戯話の公開と相成った次第である。
2001年4月11日

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