初期マセマティック放浪記より

126.望外の雪景色に酔う

銀座で開かれた渡辺淳絵画展の展示作品の一部を若狭大飯町の渡辺さんのお宅まで運び、それらを無事返却して帰途についたのは夕方五時ごろだった。大切な絵を運び終え肩の荷をおろしたせいもあって、帰路はさすがに気が楽になった。小浜を過ぎ、上中町から今津方面へと抜ける国道三〇三号線に入り、熊川宿にさしかかる頃になると、急に激しい眠気に襲われた。それまでの二週間ほどがいささかハードな日々の連続だったこともあって、気が緩んだ途端にどっと疲れが出てきたものらしい。そう帰りを急ぐ必要があるわけでもなかったので、旧熊川宿の古い街並みに近い道の駅に車を駐め、しばし仮眠をとることにした。

日本海交易の要衝として古来名高い若狭小浜から、上中町を経て水坂峠に至り、現在の国道三六七号筋にあたる朽木街道を抜けて京都へと続く旧道は、かつて「鯖街道」とも呼ばれた物資運搬の主要道であった。鯖街道は日本海沿岸産の諸物資の集積地小浜と京都とをむすぶ最短ルートで、若狭一帯の海で水揚げされた大量の鯖や各種の新鮮な海産物類がこの道伝いに京都方面に送り込まれていたため、そんな風変わりな名がついた。

良港に恵まれた敦賀と小浜は、日本文化の曙の時代から朝鮮半島を中心とした大陸との交流の玄関口として、また、日本海沿い各地の文化や文物、諸生産物の中継集積地として大きな発展を遂げ、歴史にその名を留めてきた。敦賀と小浜は地理的に見ても、集積した物資を奈良や京都、難波津(大阪湾)方面に運んだり、逆に奈良、京都、難波津などから運び込まれた物資を日本海沿岸各地や遠く大陸に向けて船積みするのにきわめて有利な位置にあった。

敦賀からの場合、諸物資は陸路によって琵琶湖北岸の塩津浜や木之本周辺に運ばれ、そこから琵琶湖の水運を利用して琵琶湖最南端の瀬田付近へと運搬された。川舟による瀬田からの水運は淀川の支流である宇治川伝いに京都南部の地域へと至り、さらにその地から淀川ぞいに難波津一帯へと通じていた。いっぽうの小浜からは、すべて陸路で京都へと通じる前述の鯖街道と水坂峠付近でわかれ、そのまま坂を下って直進し琵琶湖北西岸の今津に至る若狭街道の二ルートが発達していた。若狭街道経由の場合、今津から先の物資運搬には、もちろん敦賀ルートと同様に、琵琶湖、宇治川、淀川の水運が利用されていた。

いずれにしろ、陸路による大量輸送が困難をきわめていた時代に、最小限の陸路依存で日本海側と太平洋側をつなぐこの交易路がどんなに重要であったかは想像に難くない。この南北の交易路に関西と関東を東西につなぐ交易路が交差するのが近江一帯だったわけで、この地の物資流通を一手に握っていたのが近江商人と呼ばれる一群の商人たちだった。明治以降になって日本の商工業の中心的役割を担ったのもこれら近江商人の末裔たちであったことはよく知られているとおりである。

私が車を駐めた熊川宿は、鯖街道と若狭街道が分岐する峠の少し手前に位置する旧宿場町だった。現在も繁栄をきわめた往時の街並みの一部が保存されており、歴史民俗資料館なども設けられているようだ。昔日の面影はもはやないが、かつては一日千台を超える大八車がこの宿場町を往来したものだという。鯖寿司は若狭一帯の名物の一つだが、この熊川宿の道の駅の売店で売られている鯖寿司もなかなか味がよく値段のほうも手頃である。

小浜港そばの海産物販売所、フィッシャーマンズ・ワーフなどでも鯖寿司が売られているが、味も抜群とは言い難いし、一本三千円という値段のほうもちょっと高い気がしてならない。地元で定評のある鯖寿司が売られているのは朽木街道(鯖街道)沿いにあるお店なのだが、ついででもないかぎりそこまで出向くのがなかなか面倒なうえに、予約していないと買えないこともあるらしいから、そちらのほうは、どうしてもとこだわる食通の方々向きのようである。

道の駅で二、三時間ほどぐっすり眠って目を覚ますと、あたりの様相が一変していた。街灯に浮かぶ車外の景色が一面真っ白に変わっている。眠っている間に天候が急変し、外は大雪になっていたのだ。全国的には結構寒さの厳しい冬だったことから、滋賀県北部から若狭一帯にかけての道路にまったく雪がないのを意外には思っていたのだが、やはり降る時には降るものだ。春を間近にした時期ということもあって少々湿っぽい感じではあるが、まさに牡丹雪という言葉がぴったりの大粒の雪が激しく舞い落ちている。フロントガラスもすっかり雪で覆い尽くされ、いったんワイパーを立てて雪を手で払い落とさなければならない有様だった。

しばらく車外に出て主動輪の後輪にチェーンをかけ、前輪をロックして四輪駆動走行に入る準備をしている間に、頭や首筋はたちまち雪だらけになってしまった。熊川宿をあとにして福井と滋賀の県境に向かって峠道をのぼっていくうちに雪はますますひどくなり、とうとうワイパーの動きを最速にしても視界を確保するのが困難なほどの吹雪になった。カーブが多く、しかも待避所もない峠路の中央で立ち往生するわけにもいかないので、ヘッドライトをビームにし、黄色灯をつけ、速度を二十キロ前後に落として走行を続けたのだが、前面から叩きつけるように降る雪のため、ついに視界はゼロメートル状態になってしまった。

ぐんぐん外気温もさがり、ワイパーに付着した雪が凍結してガリガリと音をたてはじめ、しばらくするとワイパーとしての機能を果たせなくなった。幸い近くに後続車はないようだったので、いったん車を停め、フロントとリヤの雪と氷を払い落とし、ウオッシャー液を噴射して一時的にわずかな視界を確保し、脱輪したりセンターラインをオーバーしたりしないように神経をつかいながら、またのろのろと走りだした。そして、そんな一連の作業を何度か繰り返しながら、なんとか峠を越え今津へと辿り着いた。

こころもち吹雪の勢いはおさまった感じだったが、今津からマキノ町、西浅井町、余呉町と琵琶湖最北岸の一帯を抜けて木之本に至る間にも雪は激しく降り続いた。はっと思いなおして燃料計に目をやると、軽油が残り少なくなってきているではないか。大飯町を出た時点ではこんな状況になるなどとは予想もしていなかったので、燃料補給をしてこなかったのだ。もともとガソリンスタンドがそう多くない場所柄にくわえて、あいにく日曜の夜十一時近くのことときていたから、ほとんどのお店は閉まっていた。なかには突然の大雪のためはやばやと店仕舞いしたところもあるようだった。

燃料切れを示すオレンジ色の警告灯がついてからもうずいぶんと走行しているので、いよいよもってやばいかなと思いながら、動けなくなったときの善後策を真剣に検討さえしはじめた。しかし、幸いなことには、それからほどなく、折からの大雪に埋もれるようにして営業を続けているスタンドに辿り着き、辛うじて最悪の事態を回避することはできた。

いったんは木之本インターチェンジから北陸道に上がり、名神高速と中央道経由で東京へ戻ろうかと考えたが、せっかくの夜の雪景色を楽しまない手はないとすぐに思いなおし、往路とは逆のルートをとって一般国道をそのまま関が原方面へと向かって走ることにした。渡岸寺のある高月町、小谷城址のある浅井町を過ぎ、伊吹山麓を越えて関が原町に入る頃には、さしもの激しかった雪もやんで天空におぼろな月影さえも見えはじめた。雪景色とおぼろ月の組み合わせというのもなかなかに風情があっていいものだった。

そのままいっきに、大垣、岐阜、各務ヶ原、美濃加茂、御嵩町と走り抜け、瑞浪で国道十九号に入り、中津川付近でいったん休憩をとった。そのあと中津川からは中央道に上がりノンストップで東京方面へと向かうつもりだったのだが、なんと、中央道も雪のため事故が発生、走行規制中との警告表示がでているではないか。深夜の高速道をノロノロ運転しても仕方がないし、どうせ深夜の雪中行をするなら、変化に富み好き勝手に寄り道もできる一般道のほうがずっとましだ。すぐに私は中津川からそのまま国道十九号の木曾街道伝いに南木曽、上松、木曾福島、薮原、奈良井と抜け、塩尻に出ようと決断した。

南木曽町に入る頃から再び雪が激しく降りだした。気温のほうもぐんぐん下がり、またワイパーの働きが悪くなってきた。路面もガチガチに凍結し、そのうえにどんどん新雪が降り積もっていく。急坂のカーブの連続するところなどで下手にフットブレーキを踏もうものなら、チェーンを巻き四輪駆動の状態で走行していても横滑りしてしまいそうな感じである。極力エンジンブレーキに頼り、注意深くギヤチェンジを繰り返しながら、時速三、四十キロほどの低速で走り続けた。いつもなら深夜のこの時間帯には貨物を満載した大型トラックが結構走っているのだが、この夜にかぎっては他に通行車はほとんど見当たらなかった。そして、木曾福島を過ぎる頃には完全に雪中の単独走行となった。

たまたま雪が小降りになったり一時的にやんだりすると、ビームアップしたライトの中に、木曽川の岸辺一帯の雪景色がまるで昔の画仙の描いた水墨画のように浮かび上がった。深夜のそんな時刻、そんな状況の中で独り風景にみとれているなんてどういう神経をしているのかと叱られそうだが、美しいものはどんな場合であってもやはり美しい。そもそも、このような状況下だからこそ、普通とは違う景観も見られるというものだ。

フロントウインドウやサイドミラーの表面に張りついた氷を削ぎ落とすため時々道路脇に車を停め、そのついでにその周辺を気の向くままに歩き回ったりもしながら、日義村を経て木祖村の薮原付近に至った時にはもう午前五時を過ぎていた。南北の分水嶺の一角をなす鳥居峠直下のトンネルを抜け、楢井村の奈良井宿近くに差しかかると、困ったことにまたいつもの脇道癖がムラムラと頭を持ち上げ、立ち騒ぎはじめた。旧宿場町の面影をいまもしっかりと留める奈良井宿の雪景色を是非一目この眼で眺めてみたいと思いだしたのである。

車を奈良井宿入口の駐車場に置き、降りしきる雪の中を歩み進んで旧街道筋の古い家並みにはさまれた通りに立つと、一瞬にして現在から江戸時代へとワープしたかのような錯覚に襲われた。夜明け前の時間帯ではあったが、点々と灯る淡い街灯の光とほのやかな雪明りの中に、安藤広重か誰かが描く冬の宿場町の浮世絵図をそのまま持ち込んだような光景がぽっかりと浮かび上がっていたのである。昔から何度となく奈良井宿を訪ねてはいるが、このような情景に出遭ったのは初めてのことだった。

しんしんと雪の降る寒い早朝のこととあって人影はまったくなかったが、雪ですっぽりと覆われた昔ながらの家々を一軒一軒眺めながら路面に深々と二筋の足跡を刻んでいくのは、このうえなく贅沢なこのとのように思われてならなかった。鍵の辻を折れ、越後屋や相模屋といった老舗の屋号を示す古看板の一枚いちまいを見上げながら歩むうちに、私は、自らがいにしえの旅人そのものであるかのような幻覚にとらわれはじめたのだった。いや、実際、そのとき私は時を超えて旅をしていたのかもしれない。

足跡も曲がり曲がって雪に酔う  (成親)
2001年3月28日

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