初期マセマティック放浪記より

124.盛況だった渡辺淳絵画展

銀座四丁目角そばの大黒屋画廊で催された渡辺淳絵画展は、スタッフ一同の予想をはるかに超える盛況のもと、六日間にわたる会期を無事終えた。本欄のコピーを片手に会場訪ねてくださった読者の方々も少なくなかったようである。なかには当日渡辺さんをサポートしながら諸々の雑事のお手伝いをしていた私の姿を目にとめ、プロフィールの写真と見くらべながら近づいてきて声をかけてくださる方もあったりし、なんとも気恥ずかしいかぎりではあった。

画廊主催の個展ではなく、貸画廊を借り、素人が何人か寄り集まって運営にあたるという型破りの個展だったため、内心どうなることかとハラハラもしたが、結果的には望外の成功を収めることができた。成功に至った最大の理由は、なんといっても、渡辺淳さんの作品群の有無を言わさぬ迫力と類稀なる存在感、さらにはそれぞれの作品の秘めもつ譬えようのない温かさにあったと言ってよい。

「ほんとうに来てよかったです」とか、「想像していた以上の素晴らしさで、心が温まり涙が出てくる思いでした」とか、「久しぶりで心のふるさとに戻ったような気分です」とかいったような言葉を残して帰られる方がほとんどだったことが、そのことをなによりもよく物語っている。

いっぽうで、渡辺さんの人柄と作品の素晴らしさに共感した主要新聞各紙が個展開催を詳しく報じてくれたこと、さらには一部のラジオ局が個展の情報を流してくれたことなども成功への大きな足掛かりとなった。渡辺さんの場合、大都市での本格的な個展は今回が初めてということもあって客足の伸び具合が心配されもしたが、初日から銀座周辺の画廊での個展としては異例なまでの盛況ぶりとなり、我々スタッフは喜びの悲鳴をあげつづける有様だった。

作品搬入当日の騒動はたいへんなものであった。午前十時頃、大小の作品群を満載した車二台を天下の銀座四丁目角の路上に強引に駐車し、五、六人のスタッフ総出であたふたと毛布で巻いた積荷を降ろし、大急ぎで大黒屋ビル七階のギャラリーに運び上げた。物が物なのにくわえて、駐車違反で捕まらないよう目の前の交番の動きを気にしながらの作業だったから、神経をつかうことこのうえなかった。

次なる問題は百号前後の大型作品十点を含む主要作品十七点をどう展示するかだった。おそろしいことに、私をはじめその場に居合わせた数人のスタッフは、そういった作業に関してはほとんど経験の無い者ばかりだった。そんな連中が寄ってたかって、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返し、おぼつかない手つきで絵を壁面に配していくのだから、絵のほうだってたまったものではなかったに違いない。もしも絵に口がきけたら、「誰か助けてくれーっ」と絶叫していたことだろう。

そもそも、水平方向に紐を張りそれを基準にして絵の位置を定めるという知恵もはたらかなかったし、大きさの異なる絵を並べる場合どんな高さでどこを揃えるのが適切かというような知識も持ち合わせていなかった。そればかりか、絵を支え吊るす器具類のまともな扱い方すらよくは知らない有様だった。たまに私が講義に出向くことのある芸大などにはその道のプロがいくらでもいるから、その気になれば彼らに助けを求めることもできたのだが、発起人の住田、鈴木両女史の顔を立て、素人の手だけで万事をまかなおうという初心をとことん貫徹するため、敢えて外部に助力を仰ぐことはしなかった。

おかげで、うまくバランスがとれずに絵が傾いたり、壁面から離れて浮き上がったり、横方向に眺めたときの中心線が揃っていなかったり、平均的な視線の高さからすると全体的に絵の位置が上にあがり過ぎていたりと、プロ筋の人が見たら目を白黒させて絶句してしまいそうな有様だった。絵と絵の間のスペースの加減や絵の配列順も問題だったし、照明の調整も想像していた以上に難しかった。自分たちのやっていることの無謀さに気がつき一時はエライことになったと困惑しかけたが、もはや引っ込みがつこうはずもなく、蛮勇をふるって突進するほかない状況だった。

だが、火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、必死になってあれこれやっているうちに問題点が少しづつ解消され、なんとかそれなりの様にはなってきた。絵そのものの迫力が並外れたものであったおかげで、多少の展示技術の不備はカモフラージュされてしまったのも我々にとっては幸いだった。

大きな作品の配置が終わると、百点ほど運んできた小作品のうちのどれとどれとを展示するかの選別作業にとりかかった。持ち込んだ作品全部を飾るスペースはないから、とりあえずそれらの中から適当なもの二、三十点ほどを選んで展示するしかない。なんとか展示作品が決まると、こんどは号数が異なるうえに縦長横長のものの入り混じったそれらの作品を横二段に見栄えよく配列する作業に移った。

小作品のほうは壁面に専用ピンを打ち込みそれに額裏の紐をかけて固定するのだが、脚立にのりトンカチをふるって正確で手際のよいピン打ち作業をするのは、経験のない者にとっては思いのほか難しい。他に適当な人材が居合わせなかったので、結局、その作業はすべて私がやることになった。子供の頃、九州の片田舎で日々手仕事をして育った私にとっては、高いところで金槌をふるって釘類を打つなど朝飯前のことである。すっかり忘れかけていた昔ながらの技術が思わぬところで役立つことになり、いささかおもばゆい気分ではあった。

なんとか作品本体の展示作業終え、作品名を記した竹紙の小片を個々の絵の下にピンで留め終えたときにはすっかり日も暮れていた。ちなみに述べておくと、今回の個展でとても好評だったこの絵画名カードは、若州一滴文庫で西村雅子さんという方が漉いた竹紙を手で名刺大にちぎり、それに渡辺さんが画名を筆書きしたものだった。そのあと、寄贈された生花類を飾りつけ、受付のテーブルを設え、会場中央の来客用テーブルの配置や諸々の必要備品の準備などを終えたときには、大黒屋ビル全体が閉まる午後八時ぎりぎりになっていた。文字通り滑り込みセーフだったわけである。何かが少しでも狂っていたらどういう展開になっていたかわからない。

翌日からの個展開催期間中、我々スタッフは各々の本来の仕事を休んで全面的にサポート態勢を敷くことにした。もちろん、渡辺淳さんも持病の腰の痛みをおして会場に日参し来客の相手をしてくださることになっていた。こうして迎えた個展開催の初日、開場時刻の午前十一時ぴったりにまず姿を見せてくださったのは、なんと女形で知られる歌舞伎役者の尾上梅之助さんだった。尾上さんの名前が芳名帳の第一番目に記入されたことはいうまでもない。

初日にはこのアサヒ・インターネット・キャスターの責任者、穴吹史士キャスターなどの姿も見えた。渡辺淳さんの経歴を紹介するために我々が手作りしたリーフレットの一文は穴吹さんが書いたものである。会場入口付近には、「この谷のこの土を喰い、この風に吹かれて生きたい」という墨書の脇に野仏を添えたハガキ大の小作品三、四点が掛かっていた。実をいうと、この作品の落款に用いられた印章は、穴吹さん自らが刻字し渡辺さんに贈ったものだった。たまたま実印をなくしたところだった渡辺さんは、その時以降、贈られた印章の一つを実印に使っておられる。前日、渡辺さんから直接にその話を聞いていた我々は、あんまり落款、いや楽観できる話じゃないなあと冗談を言い合っていたものだった。もっとも、まさか落款のせいではなかったとは思うのだが、それらの小作品は皆売れてしまったから、穴吹さんの手になる刻印はそれなりに縁起がいいのかも知れない。

穴吹さんの話によると、渡辺さんに贈った刻印は、心技ともにもっとも充実した時期に彫ったものなのだそうである。なるほどそうだったのかといったんは納得しかけたのだが、そのあとすぐ、私は、自分の手元にある二個の印章のことを想いおこした。やはり穴吹史士さんが贈ってくれたものなのだが、私の印章のほうはご当人がもっともスランプ状態にあったときに彫られたものであるらしい。穴吹さんの口から直にそう聞いているからそれは事実に違いない。

話は脇道にそれるが、現在私は、「成親」と篆刻された刻印のほうをもっぱら愛用させてもらっている。もっとも、この印章、いま述べたように穴吹さんのスランプ時の怨念がすべて乗り移ったシロモノだから、この先我が身には何が起こるかはわからない。ただ、幸いというかなんというか、私は平穏無事の日々よりは波乱万丈を好むタイプの人間なので、その点この印章とは妙に相性がいいらしく、これまでのところはうまくそれを使いこなしてきてはいる。いま一個の印章のほうは、たまに隠れて使う私のペンネームを刻んだもので、一見したところ出来はこちらのほうがずっとよい感じである。だが、そのぶん込められた怨念の度も一段と強そうなので、もう少し先になってペンネームを多用する時がきたら使おうと思い、目下のところは机の引出しの奥に結界を張って(?)封じ込めてある。

穴吹さんと前後して、いま週刊朝日の編集委員を務めている山本朋史さんも会場に現れた。八年ほど前、私が週刊朝日で怪奇十三面章という連載コラムを執筆していたとき、私の直接の担当記者だったのが当時同誌の副編集長を務めておられたこの山本さんだった。ちなみに述べておくと、当時の週刊朝日編集長が穴吹史士さんである。そのときの連載コラムの挿絵を私を介して渡辺淳さんに担当してもらうようにした関係で、お二人が直接顔を合わせるのは今回が初めてだったけれども、書簡などによる交流はもうずいぶんと長期にわたっている。

初日の開場直後から途切れることなく次々に来場者があったため、その夕刻までには用意した芳名帳のスペースが残り少なくなり、渡辺さんを紹介したリーフレットも底をつきそうな状況になった。そればかりか、渡辺さんのエッセイ集「山椒庵日記」もたちまち品切れ寸前という予想しない展開になってしまった。翌日までになんとかそれらの補充をしようとスタッフ一同があたふたと駈けずり回ったことはいうまでもない。

二日目には渡辺さんとの交流の長い女優の浜美枝さんの姿も見られたりした。この日の来訪者リストの中には、ニュースステーションやアサヒ・インターネット・キャスター欄でもお馴染みの朝日新聞編集委員の清水建宇さん、同じく朝日新聞の論説委員の高橋真理子さんなどの名前も見受けられた。おふたりともに私の個人的な知人ではあるが、超多忙な仕事の合間を縫っての来場だったことを思うと、はやり渡辺作品のもつ不可思議な魅力のなせる業だったに違いない。渡辺さんとの長期にわたる絵手紙交換のことが新聞でも紹介され評判になった都内中野区在住の小学生、森岡みのりちゃんが可愛らしい姿を見せてくれたのもこの日のことだった。次々に現れる来訪者の応対にきりきり舞いしていた渡辺さんの頬がしばし緩んだのはむろんのことである。

三日目から最終日にかけての四日間は人が人を呼ぶ感じとなり、その対応で渡辺さんも我々スタッフ一同も、食事をすることはおろか、お茶一杯満足には飲んでおられない状況になった。噂を聞きつけたプロの画家や各方面の要人などの来場もずいぶんとあったようだし、北海道や東北、関西方面などからはるばる訪ねてきてくださる方々も相当数にのぼった。二度も三度と会場に足を運んでくださった方も少なくなかったようである。

最終日の日曜日は午後五時半頃にクローズしたあと、直ちに会場の整理と作品の搬出作業に取りかかった。かつての教え子たちを数人手伝いに呼んであったので労働力には事欠かなかったが、そのあと二時間ほどですべての関連資材を片付けなければならないとあって、慌しいことこのうえなかった。展示作品は若狭の渡辺宅から運び出した時と同様に毛布やクッション材でその表面をしっかりと覆い込み、スタッフの一員椿さんのシボレーと私のライトエースとに分けて丁寧かつ慎重に積み込んだ。

会場に飾られた大小数々の高価な献花や、奥の控え室に所狭しと積み上げられたお菓子その他の贈呈品の山をどうするかも難しい問題だった。結局、生花類のほうはその場にいた皆で適当に分担し持ち帰ってもらうことにしたが、物がものだけに、一口に持ち帰ってもらうとはいっても、運搬用の車や包装用具のない状況下はなかなか大変なことだった。お菓子や食品類は保存の利くものとそうでないものに仕分け、保存の利くものはまとめて後日車で若狭まで運ぶことにし、保存の利きそうにないものは、渡辺さんの意向にそってやはりその場において皆で分配し、それぞれの家庭で役立ててもらうことにした。

大騒動のすえに、なんとかすべての撤収作業を完了したのは大黒屋ビルが閉まる午後八時ぎりぎりだった。大成功のもと会期が無事終わったという安堵感と、緊張の連続の裏返しとでもいうべき虚脱感とが交錯し、渡辺さんもそして我々スタッフ一同も、しばしなんとも形容し難い奇妙な気分に襲われる有様だった。
2001年3月14日

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