初期マセマティック放浪記より

114.年頭の挨拶にかえて

鹿児島県の離島の小さな中学校を卒業した日、若い女性の音楽教師は私の卒業記念サイン帖に「成親さん、二十一世紀まで生きましょうね!」という短い言葉を書き入れてくれた。大井満子というその先生がどんな思いと意図を込めてそんな言葉をサイン帖に記してくれたのかは、正直なところいまだによくはわからない。だが、一見なんでもないようにみえるこの言葉は、その後の人生において妙に私の心に残り続けたのだった。独身の真面目な先生だった記憶はあるが、とりわけ美人だったというわけでもなく、生徒の間でとくにうけがよかったというわけでもなかったから(もしもどこかで拙稿を御覧になっていたら、先生ごめんなさい)、やはりその言葉そのものに見かけ以上の呪縛力があったということなのだろう。

最後の肉親だった母方の祖父母の死期も近く、ほどなく天涯孤独の身になるであろうことを予感していた少年時代のことだから、自分では意識こそしていなかったものの、前途の生に対する不安の影が私を深々と包み込んでいたのかもしれない。だから、「この内向的な生徒が、迷いも挫折も少なくない青春期を無事乗り切り、なんとか一人前の大人になって首尾良く来世紀まで生き抜くことができますように……」とでもいったような密かな祈りを込めて、その先生は「二十一世紀まで生きましょうね!」と語りかけてくださったのかもしれない。

たいした人生ではなかったが、ともかくも私は五十代後半というこの年齢まで生きのび、二十一世紀をまずまずの状態で迎えることができた。大井先生のその後の消息はわからないのだが、きっとどこかでご存命のことだろうと思う。赤面症の気があって通信簿にはいつも内向性が強いと書かれていた「内向性の権化」みたいな少年が、二十一世紀に入ったいまでは、少なくとも外見上は「外向性の権化?」みたいな世間ずれした中年男へと変貌を遂げてしまったのだから、星霜の魔術というものはそら恐ろしい。

実際にはいまでもシャイな資質や自省過剰気味な気質が体内に息づき眠っていることに変わりはないのだが、事有るごとにそれらが表面に立ち現れることだけはなくなった。その意味ではともかくもめでたいことである。いまさら遅すぎるかなという気もしないではないが、来世紀まで共に生きましょうと煽り励ましてくださった先生には一言お礼を申し上げたい。

さて、ここまではまあよいのだが、問題なのは二十一世紀を迎えたこれからあとどうするかということである。「二十一世紀まで生きる」という当面の目標を達成したのはよいのだけれど、なにやら拍子抜けしてしまって、下手をすると緊張感を欠いたままでこれからの余生を送ることにもなりかねない。だからと言って、いくらなんでも、「二十二世紀まで生きましょうね!」などという図々しい目標を謳いあげるわけにもいかないときているから、話はなかなかに厄介なのである。

読者の皆さんには迷惑な話かもしれないが、心の緊張をほどよく保つという観点からするれば、一週間ごとに原稿更新日のめぐってくる本欄の執筆作業などはそれなりに有意義なことのかもしれない。率直に言わせてもらうと、この放浪記の原稿は仕事として(原稿料収入を目的とした仕事として)書いているわけではないから、所属を持たないフリーランスの身にしてみれば、せめてそれくらいの御利益はないと困るというものだ。こんなことを書いたりすると、「なんだ、お前はボケ防止のために書いた原稿を人様に読ませる気か?」などとお叱りをこうむる事態にもなりかねないが、実際のところは仕事として執筆する原稿などよりもはるかに精魂を傾け、それなりに時間を注ぎ込んだりもしているから、その点は大目に見ていただきたい。

それにしても、二年前の十月にこの放浪記を担当し始めてからこれまでに書いた原稿の分量は、ざっと計算しただけでも四百字詰め用紙で千五百枚にものぼる。単行本にすればゆうに三、四冊分にはなる分量なのだが、むろん、三流ライターの書いた長ったらしい文章をいまどき好んで本にしようという出版社などそうそうあろうはずもない。そのうえに、不精者のこの身には、自ら積極的に動いて単行本に纏めてくれる出版社を探そうという意欲もないときているから、眠ったままの駄文の山は、下手をするとそのうち駄文の山脈へと変貌していきかねない。不毛な山脈になる前にブルドーザで山を崩し、多少の作物くらいは穫れる畑に変えてみるのもと思わないこともないが、それでなくても耕作放棄の続くこの冬の時代、それは無理な話だろう。

それでも書き続けるのかと問われるならば、日々の生活苦に立ち向かうだけの体力と気力が続き、そして多少ともこんな駄文を読んでくださる方があるかぎりはかそうしたいと思っているとお答えしたい。幸い、いまでは大変な数の方々が国内外からAIC欄にアクセスしてくださっているようなので、そのライターの一端を担う私もできるかぎりの努力はしたいと考えている。以前にも少しばかり述べたことがあるが、インターネットの前身であるパソコン通信の草創期以来、私は、「コンピュータ通信で文章を発信するなんて、半人前のオタクどものやることさ……」という冷ややかな声を背にしながら、実験的に拙文の発信を試みてきた。その意味でもいまさら逃げ出すわけにはいかないという気もしている。

正直言うと、訳知り顔の知人たちから、「聞いた話によると、AICって朝日新聞関係の中では特異な存在なんだってねえ。どっちかというと、新聞本紙や朝日系週刊誌や月刊誌と違い、あんたをはじめとするフリーのライターも、朝日の主力筋からはちょっとはずれた人達で……(筆者注:とばっちりを受けた他のAICの優秀なフリーライターの方、ごめんなさい)」など言われたことも過去に一度や二度ではない。ところが、困ったことに、そんなことを言われるとシュンとなるどころかムラムラと闘争心が湧き起こり、そんならまあに見てろよと内心で余計な反撥したくなるのがこの身の悪いところでもある。

新聞本紙や週刊誌、月刊誌などと違ってAICには講読料が設定されているわけではないから、直接朝日新聞社の収益につながるわけでもない。近頃ではいくらか広告などが掲載されるようになったようだから多少の収益はあるのだろうがそれは全体から見たら微々たる額のものだろう。したがって、高い原稿料を払わねばならぬ当今の高名な作家などが続々登場する余地は、将来的にはともかくとしても、目下のところはほとんどないと言ってよいだろう。そんな状況なのだから、私の書く原稿などはメディアの主流に位置する識者の目からすればゴミ同然に見えるのも当然のことだろうし、そのことをこちらも否定するつもりなど毛頭ない。
ただ、「一寸の虫にも五分の魂」の諺ではないが、逆境に慣れ、失う物のない身というものは開き直りがきくだけに結構粘り強く打たれ強い。たとえ結果的には駄文になってしまおうとも、喜んで読んでくださる方々のあるかぎり、単なるボケ防止のためなどではなく、非力な身なりの精魂を込めてこの放浪記を書き続けてみたいとは思っている。今年は放浪の範囲を通常の旅の世界だけにとどめず、芸術空間や精神世界への旅にも広げていくことになるかもしれない。二十一世紀初年にあたる今年もまた旧年同様に皆さんにお付き合い願えれば幸いなことこのうえない。
2001年1月3日

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