初期マセマティック放浪記より

112.黄昏に想う(Ⅲ)

(ニジマスの孵化育成研究)

摩周湖から二、三十分ほどで車は弟子屈の町のはずれにあるSさんのお宅に着いた。敷地内には渓流をはさむ静かな唐松林があって、その林の中を奥に進むと、チロリアン風の山小屋を思わせる洒落た造りのログハウスが現れた。Sさん自らが設計したというその建物の入口には、呼び鈴のかわりに手ごろな大きさの鐘が一個吊るされていた。夜のことだったのでよくはわからなかったが、屋敷内を流れる渓流は単にそこを流れているというのではなく、何か特別な目的のために用いられている感じだった。
あとで詳しく話を伺ってわかったのだが、Sさんは一般の人々にはほとんど知られていないある水産関係の技術開発に携わる地元の民間研究者だった。それはニジマスの人工孵化と稚魚の人工飼育に関する研究で、自らの資産を投入しての個人的な仕事であったにもかかわらず、当時Sさんはその分野の日本屈指のスペシャリストだったのだ。
現在の状況についてはよくわからないが、その頃まではニジマスの人工孵化と稚魚の人工飼育技術はまだ確立されていなかった。厳冬期における魚卵の管理が大変困であったうえに、魚卵を人工孵化し、孵化した稚魚を大量死させずに一定の大きさの稚魚になるまで人工飼育する技術の完成は容易でなく、実用化にはなお程遠い状態だった。特殊な条件をもつ清流のみに棲息するニジマスの人工孵化と孵化直後の人工飼育には、微妙な水温と水質管理、溶在酸素量のコントロール、餌の質と量の調整、病死予防に必要な薬物投与量の算定や投与法の策定など、解決しなければならない問題が山積していた。だから、当時のニジマス人工養殖業者らは、一定の大きさまで成長した稚魚を河川や湖沼などから採取して持ち帰り、それを人工養殖池などで成魚になるまで飼育していたのである。
徹底したフィールドワークを自らはすることなく、現場ではまったく役に立たない非現実的な研究データのみを発表する国内の水産学者について、Sさんは、やんわりとした語調の中にも批判と皮肉のこもった響きでこんな話をしてくれたものだった。
「たとえば、溶在酸素の適量はこれこれで水温はこのくらいだというデータはあるのですが、それらは研究しやすい特別な実験施設での試験結果をもとに割り出したものです。現実に人工孵化施設や人工稚魚育成施設を造った場合、どういう方法で溶在酸素量や水温を適度にコントロールするかといったようなことはどんな資料を調べても書いてありません。ですから、自費で自然のものに近い渓流モデルを造り、天然の水を引いて、試行錯誤の実験を繰り返し、適度の溶在酸素量や水温を維持管理する方法から開発しなければならなかったのです」
「じゃ、ご自身で造られた実験設備をおもちなんですね?」
「ええ、もちろんです。明日御覧になればわかりますが、近くで水の流れる音がしているでしょう?……屋敷の中に研究のために自分で苦労して造った研究設備がありましてね。もともと、そのためにこの場所に移り住んだようなわけなんですが……」
「そうだったんですか……水音がするので屋敷の中を渓流が流れていることはすぐわかりました。それに、流路が自然の渓流とはなんとなく違った感じかしたので不思議には思ったんですが、まさかそれがニジマスの研究のためだったとは……」
「水流や水質の管理ばかりでなく、孵化直後の稚魚に与える餌の質や量の調整も大変難しいんですよ。また稚魚の病死予防のためには適量の薬物を投与しなければならないのですが、こちらのほうはさらに厄介でしてね……」
「どうしてですか?」
「学者の研究論文には、稚魚一尾あたりの餌や薬物の投与適量が一応記載されてはいます。でもそれらは、成魚の魚体をもとにして計算で割り出しただけの数値ですから、現実にはまったく役に立ちません。だって相手は生まれたばかりで小さなからだのうえに、そんな無数の稚魚が群をなして流れのある水中を好き勝手に泳ぎ回ってるんですよ。まさか一尾ずつ捕まえて適量の餌や薬物を投与してやるわけにもいきませんからね」
「そうだったんですか、なんだか耳の痛い話ですねえ……」
「たとえば、机上の計算では十キログラムの餌に一ミリグラムの割合で薬物を混入してやればよいとわかったとします。それはいいんですが、いったいどうやって十キログラムの餌の中にわずか一ミリグラムの薬物を均等に混入しろっていうんでしょう?。しかもその薬物は水中に入ったら溶けて流れてしまいますから、もし稚魚全部に適量の予防薬を与えようとしたら、量も投与条件も、さらには投与法も一から考え直さなければならないんですよ」
「じゃ、それをご自分でやってらっしゃるわけですか?」
「ええ、まだまだ未解決の問題だらけですけれどもね。こんな研究、誰もあとを継いではくれないでしょうから、体力的に研究を続けるができなくなったら、これまで地道に積み上げた研究データだけは、北大の研究室あたりにすべて寄託しようと思っています」

Sさんに伺ったところによると、その種の研究は物心両面で多くの負担を要するうえに、厳冬期の過酷なフィールドワークが絶対に欠かせないとあって、当時は大学の魚類専門の研究者たちも避けるのが常であったらしい。たまたま私と出逢ったその日も、関係当局から特別に許可を得たSさんは、摩周湖におりて研究資料用のニジマスの採取とその生態調査をしていたのだという。摩周湖には明治期にザリガニと雑食性のニジマスが放流され、それらが長年のうちに繁殖し、その棲息数は現在ではかなりの数に達しているらしい。もちろん、ザリガニはニジマスの餌のひとつとなるという理由で放たれたものだとSさんは説明してくれた。かつては世界一を誇っていた摩周湖の透明度が近年になって落ちてきたのは、生物の繁殖に伴い水中に含まれる有機質の量が増えたせいだろうとも、その時Sさんは語っていた。
「経済性を度外視した貧乏研究生活にくわえて、冬場には零下三十度を越える厳寒の中、凍傷覚悟で毎晩夜を徹して氷の下の魚卵の状態を調べたりするんですから、まあ気違いのやることですね。事実、気違いだと言われていますけどね。気候のよいときなどに、どこかで噂を聞きつけた各方面のお偉方などがわざわざ見学に見えることもあるんですが、面白いことにそういった方々の漏らす感想は二つのパターンのうちのどちらかなんですよ」
 「とおしゃいますと?」
「ひとつは、こんな面白い研究をこれほどに自然の豊かなところでやれるなんて最高ですねっていうもの……、いまひとつは、わざわざ苦労してこんな研究なんかやって一体何になるんですかっていうもですね。ほんとうは、どちらでもないんですけどね……」
最後にSさんが自嘲気味の覚めた口調でそう呟いたのが私には妙に印象的だった。話を伺いながら応接間の壁面を覆い尽くしている書架に目をやると、様々なジャンルの専門書や思想書、文学書、動植物関係の図鑑や書籍類などが溢れ出さんばかりに立ち並んでいるのが見えた。そしてそれら数々の書物の奥に、私はSさんの隠された人生の軌跡を垣間見る思いだった。屋内のあちこちには周辺の風物を描いた水彩画や油絵が掛かっていた。明かに同じタッチの絵であったが不思議なほどに透明感の漂う素人離れした作品だったので、「どなたの絵ですか?」と尋ねると、Sさんははにかみ気味にしばし沈黙を守ったあと、「私がつれづれに描いたものです」と答えてくれた。
その晩遅くになって天空に月が昇った。下弦の月にほど近い右側がかなり欠けた月ではあったが、大気が澄んでいたこともあって降り注ぐ光は意外なほどに明るかった。どこからともなく一本のフルートを取り出し、おもむろにそれを手にしたSさんは、誰に聞かせるとでもなくバッハの小曲を奏ではじめた。あえてそのフルートの音色の向けられている先を探すとすれば、それは客の私でも主人のSさん自身でもなく、夜空を渡る月影か、微かに唐松の林を揺らしながら吹きぬける夜風か、さもなければ、息をひそめて周辺の山野に蠢く大小の生き物たちであるかのように思われた。
翌日Sさんのお宅を辞す前に、私はニジマスの研究設備を一通り見学させてもらった。なるほど、渓流の流路は研究目的にかなうように整備され、流れのあちこちには大小の複雑な段差が人工的に設けられいた。しかもその段差部はその高さと傾斜度が任意に変えられるように工夫もされていた。もちろん、水勢や水量、溶在酸素量などを適宜調整できるようにするためだった。餌を調合したり、それらの餌に病死予防の薬品をうまく攪拌混合するための実験装置や水質試験装置をはじめ、各種の必要設備なども渓流沿いに配されていた。
驚いたことに、それらの実験設備はすべてSさんの手造りで、しかも、必要な動力のほとんどは渓流の水力を利用して供給される仕組みになっていた。この研究を遂行するために、Sさんが損得抜きですべての個人資産を投入なさっていたことはいまさら言うまでもない。渓流の下流側ではニジマスの成魚がかなりの数飼われてもいた。Sさんの格別な配慮によって、私はそれらのニジマスの一尾を刺身にしてもらい、こころゆくまでその味のほどを堪能することができたのだが、なんだか申し訳ないような気分になってしまったことをいまもはっきりと憶えている。

晩秋から初冬の美しい黄昏時、きまって私が遠い日のSさんとの出逢いやオホーツクの浜辺に咲くという白い小さな菊科の花の話を想い出すのは、そんな訳があってのことなのだ。私には、Sさんそのものがその「白い花」と同じ存在であったように思われてならない。のちになってたまたま知るところとなったのだが、釧路出身のSさんは、もともとは東京のある国立大学の新進建築学者だったのだという。そうだったとすれば、あの洒落たログハウスがSさん自らの設計だったというのも別段驚くにはあたらないことだったと言える。Sさんは、様々な紆余曲折を経たのち、最終的には故郷の釧路に近い北の大地の片隅に移り住んでニジマスの生態研究に転じ、厳寒と戦いながら未知の研究に打ち込んでおられたのだった。
自らを含めた人間の頽廃の避けがたさを知り尽くしながらも、研究の合間に動植物との触れ合いを求めて山野を駆け巡り、静寂の中で思想書をひもとき、そして、時には澄み輝く心の奥の湖がそのままキャンパスに凝結したような絵を描くことを趣味としておられたSさんの姿が、昨日のことのように懐かしく想い起こされる。再び聞くことは叶わないけれども、北の夜空に軽やかに弾け響き、あるいはまた月下に漂う霧氷の如くに淡くきらめき揺れていたあのフルートの音がいまも耳元から離れない。
Sさんに教えられた菊科の小さな白い花を残念ながら私はいまだ目にしたことがない。あの黒っぽい色の砂地の広がるオホーツクの浜辺を晩秋に訪ねてみれば、Sさんのこよなく愛したその白い花に出逢うことはできるに違いない。むろん、いますぐにもそうしてみたいという想いもある。だがそのいっぽうで、その花を幻想の世界の中に留めておいたほうがよいのではないかという想いが私の心の中にあることも確かである。そんな迷いの理由は、この私が、いまなおその花を愛でるには相応しくない俗塵にまみれ尽した人間であるからにほかならない。この歳になってもなお愚かなこの身には、その花に対面したとき、心底その生命力に感動できるという自信も確信もないからである。
2000年12月20日

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