初期マセマティック放浪記より

110.黄昏に想う(Ⅰ)

(幻夢の摩周岳山頂)

一日の責務を終えた真紅の太陽が、黒いぎざぎざのシルエットとなって浮かぶ丹沢山塊の向うへと落ちていく。夜の安息を求めて日輪が姿を隠そうとしている方角からわずかばかり離れたところに、鋭利な刃先で切り抜かれた黒い台形の型紙みたいな輪郭を浮かばせているのは、言わずと知れた富士の山だ。

大気の澄む晩秋から初冬の頃になると、東京郊外の多摩周辺のあちこちでは、黄昏どきの西空にこのような情景が見かけられるようになってくる。散策の折など、息を呑むほどに美しいそんな影絵にめぐり逢うと、すぐさま想い出すことがある。それは、この時節オホーツクの浜辺にひそやかに咲くという、白く小さな菊科の花の話と、その花が大好きだと語ってくれたSさんの遠い日の姿である。

まだ二十代後半だった頃の話だが、夏も終りに近いある日の夕暮のこと、私は、あらゆる気配の絶え静まった摩周岳(カムイヌプリ)の頂にあって、独り万感の想いにひたりながら、夕陽に映えて山吹色に輝き染まる摩周湖の湖面に憑かれたように見入っていた。湖面のむこうの外輪山上に位置する展望台の賑わいが別世界のことに思えるほどにその切り立った山頂は寂然としていて、ほかに人影らしいものはまったく見あたらなかった。頂上に立ってすぐ、アイヌ語で「神の山」を意味するカムイヌプリの山霊を相手にコーラで乾杯をしたあと、もうかれこれ二、三時間ばかりというもの、私はその佳境を独り占めにしたままだった。

摩周岳は海抜八六三米と標高こそたいしたことはなかったが、その鋭く尖った頂からの眺望は佳絶の一語に尽きた。南面から東面にかけての眼下には人跡を拒むようにして雄大な根釧原野が広がり、その遥かかなた、天と地とが低く寄り添うあたりには、悠久の時間を湛えまどろむ太平洋が望まれた。また、北東に視線を転ずると、八ケ岳連峰を小振りにしたようなかたちの斜里岳が視界いっぱいに迫り、その右手後方には知床半島の背骨をなす海別岳、遠音別岳、羅臼岳などの山々が、黙然として連なっていた。

たまたま大気が澄みわたっていたこともあって、それら知床の山々の東側には国後島のものらしい島影もうっすらと浮かんで見えた。さらに、斜里岳左手後方の北面にあっては緑に息吹く北見平野がその存在をこれ見よがしに誇示し、またそのむこうには、寂寥の泉とも言うべきオホーツク海が深い青みを帯びて平にのび広がっていた。

だが、それらの景観にもまして素晴らしかったのは、西側一帯の展望であった。いにしえのアイヌ娘の悲恋とその情念のかぎりを移り行く星霜の力で浄化し溶かし込んだような摩周湖の青い水の色、カムイの威厳の前にひたすら震え鎮まる湖面、そしてその向こうに連なる屈斜路湖、美幌峠、雄阿寒岳、雌阿寒岳などの遠景……刻々とうつろう陽光のもとでそれらの風物が重なり織り成す一大パノラマは圧巻としか言いようがなかった。そして、その大パノラマの西奥はるかなところに荘厳なたたずまいを見せて鎮座するのは、北の盟主、大雪山連峰だった。

そんな頂にただ独りあって迎えたその日の夕映えは、なんとも感動的なものであった。あの青い摩周湖が山吹色から赤紫色に照り映え、見おろす大地は一面黄金色の霊気を発して燃え立ち、擂鉢を伏せたような形でくっきりと浮び上がる雄阿寒岳の稜線は、いまにも焔を吹き上げんばかりに赤く輝き揺らめいていた。

大自然が絶唱し命が熔ける――天地の荘厳な歌声につつまれて、この世で最も貴重な何ものかが惜し気もなく炎上し、久遠の彼方へと熔け込んでゆく――そんな厳粛さを湛えた、それは凄絶なまでの空の色であった。

感動の極みに達した私は、微動だにせぬ大気に身の動きを封じられでもしたかのように、太陽が沈んだあともその場にじっと立ち尽くしたままだった。やがて西の空は深い黄の色調を主体にしたいわゆる黄昏色になり、藤色から紫を経てしだいに濃紺の宵の色へと変わっていった。八月の末とはいえそこは北国のこと、さすがに肌寒さを覚えて下山の身支度を始めたが、その頃にはもう夜空の舞台いっぱいに諸星の宴が繰広げられ、その華やいだ星明りのもとで眼下の摩周湖は深い眠りにつこうとしていた。

摩周湖とは、周壁が削られ険しく切り立った湖といったような意味だが、実際その名の通りの形状をしていて、一般の人が湖面近づくことは容易でない。だが、意外なことに、湖の東部には、まるで摩周岳の懐に隠し抱かれでもするかようなかたちで、ゆるやかな斜面に連なる美しい汀とそれに続く小さな入江が存在している。そして、当時、その入江の汀には水産庁の調査船らしい小舟が人目を忍ぶように配されていた。既に宵闇の中に沈んで見えなくなったその美しい入江に心の中で別れを告げ、悠然と北の夜空をめぐる北斗を仰ぎながら私は静かに山頂を辞した。素人ならではのこのうえなく拙ない短歌一首を摩周湖の湖面に向かってそっと呟き献げながら……。
いにしへのアイヌの恋を青く秘め摩周眠れや星移るとも

(もしかして熊が?)

懐中電燈を手にして、私は摩周岳頂上真下の急な道を快調に駈け下った。万一のことを想い、中に小石を入れてザックに吊しておいた数個の空かんが、歩を進めるごとにカランカランと快い響きをたてた。言うまでもないが、熊よけのおまじないである。下山道は細々とした藪道だったが、星闇を山路の友とするのはいつものことゆえ特に不安はなかった。ただ、うわさに聞くヒグマの存在だけは、時節柄もあっていささか気にはなっていた。急ぎ足で歩を進めたこともあって、ほどなく、摩周岳と、知る人ぞ知る高山植物の宝庫西別岳との間に位置する鞍部に出た。

その時である。くだんの小さな入江側へとくだる斜面の密生したクマザサの藪が突然ガサゴソと大きく揺れなびき、何者かがうごめく気配がした。背筋を冷たいものが走るとはよく言ったものである。ほんとうに背骨が凍りついてしまいそうな鋭い悪寒が体内を貫いたとみるや、見えない大地の手が瞬時に両足にのびてこの身を金縛りにしてしまった。笹藪から黒い影が現われるまでの時間が何と長く感じられたことだろう。

半ば顔をひきつらせながら、必死の思いで向けた懐中電燈の光の輪の中に浮び上ったのは、幸いなことに熊ならぬ、しかし実に異様な風体の人影であった。相手も不意を喰って一瞬驚いたように立止まり、懐中電燈を私のほうに照し返した。そして無言で対峙すること三、四秒――そのあと吐いた言葉がいま思うとなんとも滑稽きわまりないものだった。

たしか、「まさか熊じゃありませんよね?」と口走ったように記憶しているが、相手が実際に熊だったら、「俺は熊だぞ!」と答えてくれたものかどうか……。その珍妙な問いかけに、その人影は、「そうかもしれませんよ!」とおかしそうに笑いながら近づいてきたが、そのなんとも不可思議な風体からは想像できぬほどに、瞳だけが、刺すように鋭く、しかし美しく光の輪の中で輝いていた。そして、これがSさんと私との文字通りの劇的な出逢いであった。

闇を背にして懐中電燈の光の中に静かにたたずむSさんの姿を私は今も忘れることができない。歩を運ぶごとにフケの舞い落ちかねないそのもじゃもじゃ頭に、無頓着の限りを極めたような髭面、頑として洗濯されることを拒み続けてきたらしい見事なまでのボロ着の上下、そして、摩周湖の神秘そのものを中に詰め込んだみたいな薄汚れた頭陀袋……どう見てもそのいでたちは異様としか言いようがなかった。だが、そこにはある種の安らぎの息づきこそすれ、しばしば目にするようなやりきれなさなどというものは微塵だに感じられなかった。内面の奥底から湧き上がるなにものかが、外見のもつ異様さを不思議なまでに制御し尽していたからである。無言のうちに漂いくるその存在の重みから察するに、年の頃五十代半ばと思われる眼前のこの人物が、一徹このうえない何ごとかの探究者であることは疑う余地のないところだった。

どちらからともなく明りを消し、星空のもとでここに至るまでの経緯をお互い述べ交わしたあと、わたしたちは、また、摩周湖外壁上を細々と縫う藪道を辿りはじめた。そして、一キロと進まぬうちにすっかり意気投合してしまった。あらためて伺ったところでは、Sさんはちょうど摩周湖のあの入江である仕事をしての帰りだということだった。先刻まで独りで歩いていたときには万が一のヒグマの出現が気になっていささか無気味に思えたその夜道が、話が弾むにつれてこのうえなく楽しいものになっていったのだから、不思議なものである。

Sさんは道東一帯の山々の地質や地形、動植物の生態に精通しているらしく、その話はどれをとっても興味の尽きないものばかりだった。私はひたすら心を啓き洗われる思いでその話に聞き入っていたのだが、そのいっぽうで、一体この人物は何者なのだろうかという思いが心の奥で激しく渦巻く有様だった。その雰囲気からして世にいう学者には見えなかったが、さりげない言葉の端々にあってときおりキラリと光る秘められた学識の影や、舌を巻くような洞察力の深さからおしはかると、とても尋常な存在には思われなかったからである。

「なにか植物の御研究でも?」と一度は単刀直入切り込んでみたのだが、それも、かすかに自嘲の翳を帯びた笑い声によって見事に受けかわされてしまう始末であった。
2000年12月6日

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