初期マセマティック放浪記より

105.広見町町新規事業探訪記

<安森洞そうめん流し>

翌日も晴天だった。山奥とはいえ、そこは南国四国の日当たりのよい谷の斜面だったから気温は急速に上がり、午前九時頃にはすでに軽く三十度を超えてしまっていた。前夜は暗くて気づかなかったが、我々が泊めてもらった古い造りの無人の集会所風一軒家のすぐ脇には大型水車が一基設置されていた。比較的新しい水車で、一時的に製粉かなにかに使われたあと放置されしまったもののようだった。水路から糸のように細い筋をなして流れ落ちる水の重みに無理やり促されでもするかのように、ギギーッガガーッという音をたててときおり思い出したように回転してる。前夜床に就いたあと、どこからともなく獣の呻き声に似た妙な音が聞こえてくるとは思っていたのだが、どうやらその正体はこの水車の軋む響きであったらしい。

すぐそばには小さな沢があって、その沢を挟んだ向こう側の斜面はちょっとした竹林になっていた。軽やかなせせらぎの音に誘われて沢におりてみると、冷たく澄んだ水がふんだんに流れているではないか。すぐ近くの安森洞という鍾乳洞から湧き出している水に違いない。子供の頃から様々な湧水や沢水をさんざん飲みつけてきた身だから生水には強い。長年の経験でその水が飲めるかどうかは直観的に判断がつく。さっそくその水に直接口をつけて飲むと実にいい味がした。

ついでに洗顔をすませ、沢沿いの藪に巣を張った蜘蛛たちとしばし戯れていると、あとから三嶋さんもやってきた。前夜はあれだけ猛烈に飲みまくり、まるで正体がなかったのに一夜明けたらもうケロッとしたものである。この人の肝臓内のアルコール分解処理機能は、ちょっとした化学工場なみの能力を持っているのかもしれない。確率二分の一のトイレのウン問題が一瞬脳裏を掠めはしたが、こんな清流を前にしてするような話ではなかったのでそのことには一切触れなかった。

案内役の入舩さんと高田さんが現れるまでのあいだ車の片付けをしていた私は、フロントウィンドウ隅のタオルの上に置いてあったチューインガムの塊を捨てようとして指先をのばした。だが、その瞬間、親指と人差し指の先端に焼け火箸にでも触ったときのような猛烈な痛みが走った。慌てて振り払おうとしたが二本の指先に半ば液化して張りついたガムはどうやっても剥げ落ちてくれない。痛みをこらえながら急いで沢に駆け下り、冷水に手を突っ込んで指先を十分に冷やしてやると、ようやく凝固したガム膜を剥ぎ取ることができた。車中でフロントガラス越しに強烈な直射日光を浴びたガムが液状化し、高分子の組成のゆえもあって高温となっていたのに気づかずつまんだ結果がこれであった。幸い温度は高くてもガムの熱容量そのものが小さく、またすぐに水で冷やすことができたため指先は軽い火傷程度で終わったが、大きな塊のガムだったらタダでは済まなかったことだろう。ガムでも火傷を負うことがあると知ったのは貴重な体験でもあった。

それからほどなく姿を見せた入舩さんと高田さんに案内されて、我々は沢の上流ほどないところにある安森洞ロマン亭へと足を運んだ。御在所山の中腹にあたるこの近くには小規模ではあるが、昔から風穴として知られていた安森鍾乳洞があって、昭和三十四年に鹿間時夫横浜国大教授らによる本格的な調査が行われた。そしてそれ以降、山の中腹の風穴からは三十万年前に棲息していたニホンムカシジカのものと思われる化石をはじめとし、三十一種類、千個にものぼる動物の珍しい化石骨などが発見さた。また、数万年から十万年くらい前の第四氷期の貴重な先史遺跡なども出土し、一時期新聞紙上を賑わせもしたようだ。

いっぽう、風穴の位置より低い地点にある水穴のほうからは清冽な湧水が流れ出していて、こちらのほうは単に安森洞と呼ばれている。もちろん、上部の風穴の続きで、御在所山の地中深くに眠っているかもしれない鍾乳洞の出口にあたると推定されており、地底のロマンに賭ける地元有志らによって七十メートルほど奥まで試掘されたが、これまでのところ大規模な鍾乳洞の発見にはいたっていない。

我々が案内されたロマン亭はこの水穴、すなわち安森洞の入口のすぐそばに建っていた。ロマン亭の「ロマン」という三文字には地底のロマンに賭けた地元の人々のひとかたならぬ思いが込められているのだろう。安森洞から絶え間なく湧き出る冷水を利用した風流な「そうめん流し」はこのロマン亭の売り物である。いや、「そうめん流し」のためのロマン亭だと言っても差し支えないだろう。安森洞保存会、安森洞そうめん流しの会々長、岡本知幸さんにいろいろと詳しい説明をしてもらいながら、我々は冷ぞうめんに舌鼓を打つことになった。

大きなU字形循環式の流路がしつらえられていて、その中を冷たく澄んだ湧きたての清水が流れている。奥の配麺室からその清水に乗って次々と流れ出てくる真っ白で腰の強い麺を箸ですくい、つけ汁につけて食べるのだが、つけ汁の味と薬味がまた絶品ときていた。ユズ、ショウガ、ミョウガ、ネギ、タマネギオロシ、ワサビ、アオジソなどの薬味がふんだんに並べられていて、好きなだけ取って自由に使えるようになっている。この地の特産品でもあるユズの香りと味はとくに素晴らしかった。まだ青いとりたてのユズをまるごと手にし、必要なだけ自分ですりおろして使うのだが、つけ汁にこのユズを入れ、他の薬味を多少加味してそのまま飲むだけでも満足できそうな感じだった。

四万十川源流のそのまた源流の清水に浸した上質の麺を、地元でとれたての薬味を使って食べるのだから贅沢なことこのうえない。一人前五百円で食べ放題と料金も安い。営業期間は六月二十七日から八月三十一日まで、営業時間は午前十時から午後五時までであるという。詳細については、営業期間中はロマン亭(0895-48-0820)に、またそれ以外は広見町役場企画調整課に問い合わせてみるとよいそうだ。

<独創的な農産物加工品>

食後、安森洞を見学し終えた我々は、次に広見川の支流、大宿川の中流にある清水という集落に案内された。「もぎたて加工つぼみグループ」という、農産物加工研究および生産販売推進組織の会長、岡本高志さんや、同組織の中心メンバーの山下猛さんらに会って話を聞くためである。広見町では町との協力態勢のもと有志グループの手によって独創的な農産物加工製品がいくつも研究開発され、市販もされているようだ。八十歳を超えてなおかくしゃくとして研究心旺盛な岡本さんは、鬼北山芋研究会々長なども兼務しておられるとのことだった。

車が清水集落に近づくと、オレンジと黄の中間色の地色の上に「うこん加工所」と大書された特徴のある看板が眼にとまった。無意識のうちに「こ」の字と「ん」の字を入れ換えて読んでしまった私は、一瞬、いくらなんでもあのシロモノを加工するところじゃないよなと、妙な連想をしてしまった。大型の蘭に似た植物の根を粉末化してできるウコンは黄色系染料として知られ、ビルマ僧らが着ている法衣や美術工芸品などを包む時に用いる黄色のウコン布などを染めるのにも用いられる。ただ、色が色だけに話はなんともややこしい。

ガソリンスタンドに隣接するその「うこん加工所」で、岡本さんやスタンドの経営者でもある山下さん、さらにはあとから現れた愛冶地区ウコン組合の組合長さんなどから農産物加工の苦労話を伺ったのだが、その談話のなかで岡本さんも「あの字を読み間違えて首を傾げる人がよくあるんですよ」と笑っておられた。もしかしたらあの看板には岡本さんたちの遊び心が秘められているのかもしてないと思ったりもした。

この農産物加工所では地元産のウコン、山芋、トマトなどを原料にした様々な加工食品の研究開発が進められていた。なかでも、高温多湿で日当りのよいところを好むウコンの栽培は広見町の気候や地形に適しており、この地域の特産物の一つになっている。ウコンの薬効は品種や肥料の成分によってかなり異なるとのことで、岡本さんのお薦め品は紫春ウコン粉末だとのことだった。とても八十代には見えない岡本さんの健康の秘密はやはりウコンと四万十川源流の清水なのであろうか。

栽培されたウコンは、漢方薬としても名高いウコン粉末にするほか、ウコン飴、ウコン入りカレー粉、ウコン入りラーメンなどと、将来の需要を狙って様々な加工活用の試行研究がなされているらしい。変わったところではウコンをスライスし砂糖でじっくりと煮詰め乾燥させたウコン華という加工品などもあった。ウコンの葉や茎のほうは細かく切り刻んで堆肥に混入したり、やはり細かく裁断して乾燥させ入浴剤にするといった利用法も考えられている。

ウコン飴とウコン華は我々も試食させてもらったが、なかなかの味だった。地元の特産品展示販売所「森の三角ぼうし」では既にそれらは販売されているそうだが、味もよく健康にももってこいとなれば、もうなにもいうことはない。私も地元で売られている紫春ウコン粉末を購入して帰り試用してみたが、他所のウコンに比べよく精製されていて品質も高く、飲みやすい感じだった。ウコンに関心のある方は愛治地区ウコン組合(0895-46-0011)か「森の三角ぼうし(0895-45-3751)」に問い合わせてみるとよいだろう。

鬼北自然薯として地元で人気のある山芋の加工研究もいろいろと進められているようだった。カルカン饅頭やお好み焼き、各種麺類などの素材としての活用などは従来から試みられてきたものだが、面白かったのは自然薯をすりおろしてそのままの状態で長期保存し、必要量を必要に応じて使えるようにする商品の開発研究の話だった。

最初はすりおろした自然薯を乾燥粉末化し水を加えて復元を試みてみたが、パサパサしていてとても使い物にならなかったという。そこで、水を加えて復元する際に適量の糖分を加えてみるなどの試行がなされ、それなりにねばりけを復元することはできたのだそうだ。だが、砂糖を入れ過ぎるとこんどは逆にひどくねばってどうにもならない状態になってしまう有様で、その調整が難しく味のほうもいまひとつだったらしい。

そこで考えられたのが、すりおろした自然薯を真空パックにして液体凍結法という特殊な技術で冷凍保存しそれを解凍する方法だった。実際に実験してみると、ねばりけも味もすりおろした直後の状態とそう大きな変わりはないことがわかったらしい。付属技術や必要設備の問題などもあって完全な商品化までにはまだ時間がかかるというが、おおよその目途はついてきているらしい。実をいうと、この液体凍結法の技術を指導提供しているのがほかならぬ三嶋洋さんである。三嶋さんが研究している冷凍技術は広見町独自の他の重要プロジェクトにも活かされることになっており、それが本来の三嶋さんの役割でもあるのだが、それについては後述する。

農産物加工商品の一つトマト飴も試食させてもらったが、十分甘くてトマトの酸味などもほとんど感じられず、それがトマトを原料にしたものだとはとても信じられないくらいだった。それにしても、この「もぎたて加工つぼみグループ」の創造力と実践力は実に見上げたものである。進取の精神と独創的気質に満ちみちていたかつての宇和島藩の精神文化の伝統が、いまもこの地には脈々と生き続けているのかもしれない。

農産物加工品の話が一段落したあと、岡本さんは、清水の集落からまだずっと奥まったところにある自然薯やウコンの栽培地に我々を案内してくれた。はじめに立寄った自然薯畑には栽培種の自然薯が見事になまでに繁り育っていた。野生の自然薯掘りをずいぶんとやったことのある私はその大変さを知っていたので、これだけ茎の太い芋だと完全に掘り出すのは容易なことではないのではないかと岡村さんに尋ねてみた。すると、畑栽培の場合には根を垂直に伸ばさせず、細長いパイプ状の容器を土中に斜めに埋めてその中で成長させるから、掘り出すのは容易だという返事が戻ってきた。うーん、そうか、するとこういう自然薯は「自」の字を「他」の字に置き換えて「他然薯」とでも呼ぶべきなのかななあなどと、妙なことを考えたりもした。

最後に案内されたウコン畑には、大きな葉を茂らせて多数のウコンが育っていた。ウコンの栽培現場を目にするのは初めてだったが、密生度は思いのほか高く、これだと作付面積がそう広くなくても相当量の生産が可能な感じである。そのためもあってか、一面ウコン畑というような状況ではなかった。愛治地区ウコン組合長さんによると、現在の需要状況では、ちょっと作付を多くするとたちまち過剰生産になってしまいかねないから、ほどほどに生産を控えているのだとのことではあった。

帰り際、岡本さんに促され、ステビアという小さく細長い植物の葉っぱの先をほんのちょっとだけ噛んでみると、突然口いっぱいに甘味が広がった。砂糖の三百倍の甘さの成分を含む植物なのだそうで、砂糖のかわりにこの植物の葉の粉末を用いた製品をなにか考えたいということでもあった。

岡本さんがたと別れたあと、我々は広見町の特産品展示販売所「森の三角ぼうし」へと案内された。なかなかに機能的で洒落た造りの販売所で、地場産の各種野菜類をふんだんに置いた生産組合運営の市場なども同じ敷地に設けられている。値段のほうも見るからに安い。観光旅行者のみを目当てにした単なる土産物屋ではなく、町民の日常的な生活とも密接な関係をもてるように店の造りや商品の置き方を配慮してあるところなどはなんとも心憎いというほかない。

特産品販売展示コーナーのほうもめぐってはみたが、土産物と安価で良質な日用品とがおりまぜられており、販売商品の種類も量も想像以上に多かった。商品の多くに生産者の名前やメッセージが付記されているのも大きな特徴で、どの筋から出されたアイディアなのかは知らないがなかなかに好感がもてた。もちろん、各種のウコン加工品なども販売されており、小瓶入りの紫春ウコン粉末には、さきほどお会いしたばかりの岡村高志さんの名前の記されたものなどもあった。また、木材の産地だけあって各種の木工品なども都会では考えられないような安価で売られており、腰掛けにも物置き台にも調度品にも使えそうな三千円前後の大木の切り株などは、置く場所さえあれば車に積んでもって帰りたいくらいであった。

店長の松本周作さんによると、この森の三角ぼうしは資本金を森林組合が三分の一、広見町が三分の二出資してできた第三セクター運営の特産品販売店で客筋は町内者と町外者が半々くらいであるという。松本さんに評判のよい特産品は何かと尋ねたところ、ユズと蜂蜜とを主成分にした飲料原液「ゆずの里ロイヤル」、ポン酢醤油「ゆずの里」、四国ならではの原料を用いた「ほんぶし醤油」、チリメンジャコ入りの「いりこ味噌」、鮎入りの「鮎味噌」、小瓶入りウコン粉末などの名があげられた。ゆずの里ロイヤルは私も購入して東京に戻り試飲してみたが、他に類のない味と風味をそなえた珍しい飲み物だった。

最後に我々が見学したのは広見町のユニークな町おこしプロジェクトの一つ、雉の養殖施設だった。広見町はその地域性を活かし、平成二年頃から全国的にも珍しい雉の養殖事業に取り組んできている。国内の鳥獣保護法などの規制もあって日本産の野生の雉をもとに養殖事業を行うことはできなかったので、広見町は中国産の高麗雉の一種を輸入しそれをもとに養殖事業を展開してきた。一般には入手が難しく高級なイメージのある雉をうまく養殖し大量に出荷できるようになれば、将来的には町の主産業の一つになりうると広見町の事業推進担当者たちは考えたようである。

<高麗雉の養殖販売プロジェクト>

入舩さんに伺ったところによると、高麗雉が産卵するのは四月から六月にかけての頃で、雌はその時期に平均七十個程度卵を生むという。町ではすぐにそれらの卵を町営の雛育場に運び特種な構造の大型孵卵器に入れて三十七度の定温で二十日から二十三日くらいのあいだ温める。すると雉の雛が誕生するのだという。雛が孵ったら徐々に温度をさげてやり常温に適応させていく。雛育場の孵卵器も見学させてもらったが、なるほど世の中にはうまく工夫された機器があるものだと妙に関心させられる有様だった。

孵化した雛は一ヶ月間ほど雛育場で育てられ、そのあと一羽五百円で地元の各農家へと引き渡される。個々の農家はその雛を半年くらいかけて成鳥に育て上げ、町はそれを一羽二千五百円くらいで買い戻す。そして、適切な加工処理をほどこして販売ルートに乗せる。農家が雉を成鳥にするのに要する飼料費その他は一羽につき千円どまりだというから、その差益が農家の収入になるわけだ。雉は雑食性で草や葉なども食べるから、「広見町特産のウコンと安森洞の清水で育てた美味な雉」といったようなイメージで売り出す戦略もあるかもしれないですねと、入舩さんは笑っていた。

雉がもっともおいしいのは一月から二月頃なのだそうで、その時期になると繁殖用の成鳥以外はすべて処理し、最低でも一年間は味が変わらないように冷凍保存するのだという。わずか一年の命の雉のことを思うとちょっと可哀想な気もしないではないが、食材となっているこの世の中の動物の大半がみな似たような運命をたどっているわけだから、それは仕方のないことだろう。

生育中の雉の幼鳥や、この時期まで特別に飼われている生後一年以上の成鳥などを見せてもらったが、精悍な顔をした雉たちは金網の張られたゲージ内を所狭しと走り回っていた。足ががっしりしていて、まるでダチョウを極度に小型化しすこしスリムにしたような感じである。顔つきからして相当に気性の激しそうな鳥だから仲間同士の喧嘩も絶えないようで、突つかれて胸や背中の羽根があちこち抜け落ちてしまっているものもある。畑地などに育成用ゲージを設けるような場合には、イタチが土を掘って侵入し雉を襲うのを防ぐため、ゲージの基底部をしっかりと固める必要があるという。

たまたま見学した大きな飼育用ゲージの周辺は深々と雑草の繁る草地になっていたが、相当な広さのあるゲージ内にはまったく草が生えておらず、乾燥した地肌がそのまま剥き出しになっている。どうやら雉どもが雑草を一本残らず食べ尽くしてしまったためらしい。試しに足元の雑草を一掴みだけ抜き取って金網の隙間から放り込んでみると、大急ぎで駆けよってきた雉の何羽かがそれらをすぐに食べてしまった。

現在はまだ雉の大量生産および冷凍加工処理プロジェクトが本格的に稼働していないので年間二、三千羽の販売実績にとどまっているようだが、近いうちに販売ルートを拡大し、何万羽もの雉の生産出荷をおこなう計画なのだという。どうやら、「雉の町」として広見町を全国的に売り出す戦略を入舩さんらは立ててもいるらしいのだ。そのため、雉の解体から冷凍処理までを一貫して効率よくおこなう工場をいま町内に建設中で、その設計にも今回同行の三嶋さんは関わっているというわけだ。高松にある地元のシンクタンク、四国総合研究所と協力し、いま三嶋さんがとくに力を注いでいるのは雉の冷凍保存工程を完全なものにすることであるらしい。雉肉を最高の味の状態で長期間冷凍保存するためには、その肉質の特殊性に付随する高度な技術的問題の解決が必要であったようなのだが、液体凍結法という特殊技術の導入し実験を繰り返した結果、無事問題をクリアする目途が立ったのだという。

試験的に冷凍処理された雉肉はレシピ付きですでに広見町で販売されており、同町のグリンファーム安森(0895-48-0136)などに注文すれば郵便小包で送ってもらえる。私も三嶋さんを通じて東京で広見町産の雉を入手し、雉鍋にして食べてみたことがあるが、大変に美味であった。皇室などには昔から特別な雉料理が伝わっているのだそうであるが、これまで我々一般庶民にとっては雉料理はあまり縁のないものであった。鶏などに比べてまだ単価が高いとはいっても、雉料理が一般家庭の食卓を賑わすことになるとすれば、それは喜ぶべきことである。

一通り町内の観光スポットや産業施設を見学し終え、入舩さんと高田さんに別れを告げて広見町をあとにする頃には、あれほど強烈だった太陽も光を弱め、大きく西の空へと傾いていた。短い滞在ではあったが、広見町に住む人々との出逢いの一つひとつはどれも大変心に残るものであった。豊かな自然と人情に包まれ、それでいて時代を忘れぬ独創と進取の精神をそなえもった愛媛県広見町の発展を祈り再訪を約しながら、私は宇和島方面へむかっておもむろに車のハンドルを切ったのだった。
2000年11月1日

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