初期マセマティック放浪記より

99.水没する奥三面の自然と遺跡

三面川(みおもてがわ)は新潟県北部の朝日村から村上市を経て日本海に注ぐ美しい川である。新潟県から山形県にまたがる広大な朝日山系に源を発するこの川とその流域には、いまなお手つかずの豊かな自然がふんだんに残っている。昔に較べれば取るに足らない数ではあるがいまでも鮭鱒などの遡上が見られるという。この三面川の源流域にある大きな谷の奥で、二万五千年もの時を超えて伝承されてきた歴史と文化、さらにはそれらのルーツとなった貴重な先史時代の遺跡群がほどなく水底に沈み、消え去っていこうとしている。そんな事態の急迫を知ってやむにやまれぬ思いに駆られた私は、水没するその一帯の最後の姿をこの目で見届けたいと考え、問題の場所である朝日村奥三面を訪ねてみることにした。

新潟から山形方面に向かって国道七号線を北上、村上市街を過ぎたあたりで右折し三面川伝いに三面ダム方面を目指して走ると、やがて朝日スーパー林道の起点に到達する。左手に三面ダムを見ながらスーパー林道を奥のほうへと進んでいくと、三面川が大きく二手に分岐する地点に到る。上流に向かって右手に分かれる川のほうは、鷲ケ巣山と宇連萩山という屹立する二つの岩山に挟まれた文字通りの峻険なV字谷の奥へと続いているが、この深く鋭く切り立った三面渓谷のさらに向こう側には秘境と呼ぶにふさわしい奥三面の広大な谷間が隠されている。人をまったく寄せつけない厳しさをたたえて見る者を圧倒していたかつての三面渓谷は、その奥に隠された奥三面の集落と動植物の宝庫ともいうべき美しい緑の谷々を守るゲートの役割をしていたのだった。

この奥三面渓谷の上流側に県営の大型ダムを建設しようという計画が持ち上がったのは一九六〇年代末のことである。洪水調整や治水といった当初のダム建設の目的が農業用水用、さらには発電用と目的変更を繰り返しながら今日まで三十年近い年月をかけて建設が進められてきたのは、このダムがほかならぬ日本の高度成長期の落し子の一つだったからだろう。

現在も問題になっている岐阜県の徳山ダムや熊本県の川辺川ダムなどの大型ダム建設計画の場合もそうだが、経済成長期のダム計画は、そのダムが国民生活にとって真に必要だったからというより、むしろ、どこかにダムを造ることによって大量の資金を動かし経済の活性化を図ることがその主たるを狙いであった。より端的な言い方をすれば、国や都道府県の役人や技術者が建設業界や電力業界の技術者らとともに、まず机上で全国の地図を眺めて地形的に都合の良い候補地を探し出し、そのあとでその地におけるダム建設の目的をあれこれと考え出すという本末転倒したプロジェクトが大手を振って行われてきたわけだ。

建設予定地に住む人々の生活環境の悪化や動植物などの分布や生態などについては、ほとんど考えられていなかったし、考える必要もないとされていたのが偽りない当時の実状ではあった。この種の問題に関しては、経済の高度成長にうかれ、自然保護など二の次にして多少なりともそのおこぼれに預かってきた我々大多数の一般国民にも責任があると言ってよい。

奥三面の広くそして奥深い谷は、西朝日岳、寒江山、相模山、以東岳、毛穴山といった朝日連峰主稜の山々の奥懐に位置している。奥三面の最奥にある峻険な谷筋は、その北に位置する以東岳と毛穴山を繋ぐ稜線をはさんで有名な大鳥池と南北に対峙するかたちになっており、大鳥池周辺と並んでこの一帯は朝日山系の最深部を形成しているのだ。

かつてこの奥三面の谷の河岸段丘上には四十二戸、人口百五十人ほどの美しく静かな、そして自然の幸豊かな集落があった。しかしながら、ダム建設の計画が進むにつれてその集落の住民は他地域への移住を余儀なくされ、いまから十五年ほど前の一九八五年に長い歴史を刻んできた奥三面集落は事実上消滅した。この大型ダムが完成すると広範囲にわたる谷筋が水没するため、ブナ、トチ、ナラ、ホウ、クヌギ、クリなどの大木の密生する自然林とそこに棲む各種の動物の生命が失われることは当初から指摘されていたことだが、工事がらみの発掘調査が進むうちに、この地にはいまひとつ掛け替えのない文化財が隠されていることが明かになってきたのだった。

驚くべきことに、これまで三面集落のあった場所やその上下流域の斜面や河岸段丘上から、学術的にもきわめて価値の高い膨大な量の先史時代の遺跡群が突如出現したのである。それは、いまから二万五千年前の旧石器時代の遺跡にはじまり、縄文草創期から後期、晩期にいたる大遺跡群だったのだ。遠く津軽や出羽、糸魚川などから運ばれたと推定される石器素材、 大規模なストーンサークル(環状列石)、竪穴住居跡、土器類、砂利敷きの舗装路、多数の配石墓、日本では初めてといわれる縄文期の河道付け替え工事跡など、それらは信じがたいような質と量の遺跡群であった。

奥三面遺跡群の発掘調査報告書に目を通した考古学者たちは異口同音に遺跡の素晴らしさに驚くとともに、現在でも近づくことが必ずしも容易ではない朝日山系の谷奥にそんな昔から人々が住み着き、他地域と交易や往来を繰り返してきたことを大変不思議に思ったという。むろん、奥三面遺跡を知る研究者たちはもう少し時間をかけてその謎に挑みたいとは考えていたようだが、既に高さ百十六メートルの放物線型アーチ式ダムが三面渓谷を塞ぐかたちで完成し、 十月二日から試験湛水(たんすい)が開始されるいまとなっては、もう手の打ちようがないというのが実情のようである。

貯水量約一億二千五百万トン、一応は治水、流水調整、発電の役割をもつとされるこの県営ダムの建設には総工費八百二十億円が投入された。さらにまた今後も道路その他の周辺環境の整備や維持のために多額の経費がかかるものと思われる。それだけの費用をかけたダム本体が既に完成した現在、湛水をしないままそれを放っておくということは社会通念上も行政機構上も許されないことではあるのだろう。例えは悪いが、かつての戦艦大和のような巨艦を造ってしまったいま、それが意味を持とうが持つまいが、またそれがどんな運命を辿ろうが、海に浮かべてひたすら走らせてみるしかないというわけである。

公共の福祉と繁栄のためだと目の前に大金を積んで説得され、先史時代から二万五千年以上も受け継がれてきた先祖の地を泣く泣く放棄した奥三面の元住民の心境も、いっぽうでまた大変複雑なようである。既にかつての住居あとはススキの生える荒地と化し、また谷底や谷の側面を工事用トラックや大型機械類が縦横無尽に走りまわった結果、昔の静かで美しかった集落を偲ばせるものなどもうほとんど残ってはいない。そんな故郷の無惨な姿を目にするに耐えない元住民たちのなかから、早くダムに水を入れてほしい、そうでないと我々は御先祖様に対して申し訳が立たないという声が上がっているのも一面でやむを得ないことなのだろう。

十月二日にダムの湛水が開始されるため、遺跡発掘以来十年余も続けられてきた奥三面遺跡群の現場公開も九月二十四日をもって終わる。最後の公開となる二十三、二十四日には、現地にテント泊しながらほどなく水没する同遺跡群の魅力に触れる見学会が開かれる。新潟県立博物館長で国学院大学教授の小川達雄氏による講演や遺跡のライトアップなども予定されているという。

ダムの湖底に沈む奥三面の谷を見学できるのも十月の一日までで、以後は関係者以外の同地への立ち入りは禁止となり、一年間は同ダム方面へと続く車道の一般車の通行も規制されるらしい。試験湛水開始から五ヶ月後の二〇〇一年三月にはダムは満水になるという。

洪水調整と発電が主目的とされるこのダムについて、土木史や河川工学を専門とする新潟大学工学部の大熊孝教授は、新潟日報の文化欄で独自の見解を述べている。大熊教授によれば、かりに発電を無視し洪水調整だけに話を絞って考えると、普段はダムを空にしておくことも可能だし、そうでなくても設計上のダムの最低水位に貯水面を抑えることができれば、それより十メートルほど高い位置にある元屋敷遺跡などは、以上増水時以外は冠水を免れうるとのことである。

下流にはやはり発電と洪水調整を兼ねた三面ダムがすでに存在し、またいま一つの三面川支流、猿田川の上流域にはやはり大きな猿田ダムが設けられている。それら既成のダムと連係して下流域の水量を調整し、そのうえで遺跡群の水没を最小限に留めることもできないことではないのだろうが、関係行政当局にそういった配慮を求めることはこの国ではやはり難しいことなのだろう。

大熊教授は発電についても興味深い試算をしているようだ。奥三面ダムによって新たに生み出される電力は年間約一億三千万キロワット時とのことで、これを金額に換算するとおよそ十七億円になるという。もしダムの耐用年数を百年とすると、約千七百億円の経済価値を有することになり、かりに発電を中止して遺跡を保存するということになると、そのためにそれだけの費用をかけたと同じ計算になる。二万五千年もの時間が蓄積された奥三面の文化的価値はいったん喪失したら再生不可能なものであり、前述の金額相応の価値は十分にあるのではないかというのが大熊教授の意見である。将来的に見てどちらの選択が正しいかどうか一度県議会などで徹底討論されることを同教授は期待もしているようだ。

新潟県立博物館長の小川達雄氏などからは、十月から貯水を開始すると冬ごもりに入った生物たちが水位の上昇のために溺死してしまうので、せめて増水から身を守ることができるように湛水開始を暖かい時期にずらしたらどうかという提案などもなされているようだ。

「これまで土木技術者は生物たちのことなど考えてこなかったが、多自然型川づくりが標榜される今日、せめてもの償いとして生物たちを無駄死にさせない方策を検討すべきではないかと思う。一考されることを期待したい」という大熊教授の言葉には、土木史や河川工学の専門化のものであるだけにいっそうの重みが感じられてならない。

奥三面探訪の背景説明が長くなってしまったが、ともかくもそのような事情で急遽私はこのダムの建設現場を訪ねてみることにしたわけだった。奥三面の谷に向かう前に私は三面渓谷の下流側にまわって渓谷を眺め上げてみた。渓谷の奥には既に巨大なコンクリートの壁面が高々と聳え立ち、私の心を嘲笑うかのごとくに圧倒した。この三面渓谷の奥に向かって左手の岩山には、かつて金壷トンネルという岩肌剥き出しの細く暗い手掘り風のトンネルが通じていた。天井も低く幅も狭く、車一台がやっと通行できる程度の迫力満点なその長いトンネルが昔は朝日村の中心部側から奥三面集落への唯一の通行路だったのだが、いまではもう完全に封鎖されてしまっている。

現在ではそのかわりに、金壷トンネルの入口のあった場所から少しスーパー林道を戻った地点に、本道から三面川を越えて右手に分岐するかたちで円吾橋という新しい橋が架り、そこから奥三面方面へと新設の舗装道路がのびている。その円吾橋を渡り、手書きの標識に従って新道をしばらく走ると、ほどなくこれまた新設の近代的なトンネルが現れた。その長いトンネルを抜けるといきなり問題の奥三面ダムの右端に近い地点に出た。
2000年9月20日

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