初期マセマティック放浪記より

98.カヤノ平の四季

混牧林事業組合長の東城さんが初夏から秋にかけて常駐なっさている番小屋前から、小雨の中を二十分ほど歩くと、牛たちが三々五々たむろしている場所にでた。牧場というと通常はなだらかで広々とした草地を想像するのだが、むろんカヤノ平の場合はそうではない。ブナや雑木がまばらに生えてはいるものの、大部分は背丈をこえる深い笹藪に覆われた急斜面が放牧地で、そこに牛たちは放たれているからだ。

牛たちの行動範囲を一定の地域内に抑えるため針金の囲いは設けられているようだが、いったん牛が笹藪の中に入ってしまうとその行動の様子や存在位置地をはっきりと知ることは難しい。放牧地内のあちこちに渓流があってそれらが自然の水場になっているようだから、牛たちはときおりその近くに集まってきはするのだろうが、笹薮や木立の中のあちこちに好き勝手に牛がいるという感じで、およそ牧場というイメージからは程遠い。だから、既成の牧場のイメージを抱いてカヤノ平を訪れた人は、少なからず拍子抜けしてしまうかもしれない。

しばらく牛たちの姿を遠望しながらあたりのブナ林や澄んだ渓流を眺めているうちに、東城さんと米沢さんがあとから車でやってきた。どうやら番小屋脇の渓流での米沢さんと岩魚との勝負は水入りの引き分けに終わったらしい。「このあたり一帯の沢のほうが岩魚は多いですよ」という東城さんの言葉に、米沢さんは再び釣り竿をふるいはじめた。

なにげなく沢に架る橋のたもとを眺めやると、「岩魚釣禁止」と記された一枚の立札があるのが目にとまった。「あれっ、このあたりは岩魚釣りの禁止区域ですか?」と尋ねると、東城さんはいたずらっぽい笑みを浮かべて「実はこれ、私が立てたものなんです」と答えてくれた。一般の車は入ってこられないが、岩魚を狙う釣り人たちは徒歩でこのあたりまでやってきて釣り場を荒らす。東城さんらは番小屋での食材はなるべく自給自足するように努めており、その意味でも岩魚は山奥での貴重な蛋白源であるようなのだ。

もっとも、東城さんが「岩魚釣禁止」の札を立てたのは、付近の岩魚を一人占めにしようという欲張った思いにとり憑かれたからではなく、他にそれなりの理由があってのことだった。最近の無法で自分勝手な釣り人たちは、持参したペンチで放牧地のワイヤー製囲いのあちこちを手当たり次第に切断して通り抜け、そのまま放置しておくのだという。苦労して牛を飼う側にすれば大変に迷惑な話で、どうしてもそれなりの自己防衛が必要であるらしい。有刺鉄線ではないのだから多少面倒ではあってもその気になれば針金を切断しなくても潜り抜けできるのだが、そうしないでペンチで切り進むところがなんとも現代風の自己中心的な発想ではある。

東城さんは事業組合長のほかに、混牧林組合所属の各農家から預かった大切な牛たちの生育の様子や事業地の状況をチェックする現地管理人も兼ねておられるから、当然、切断されたワイヤー囲いの補修もその仕事のうちにふくまれる。深い笹や林で覆われた広大な事業地内を歩き回りって囲いの点検をおこなうほか、万一の事態に備え個々の牛たちの健康状態を調べるのは東城さんの日課というわけなのだ。もちろん、混牧林事業の最終目的は豊かなブナ林を復活させることであるから、ブナの発芽や幼木の生育の様子、年々のブナの結実状況、事業地およびその周辺全体にわたる植生相の調査なども重要な仕事の一つになっている。

つい二、三日前も深く広大な藪地の奥で親牛にはぐれ動けなくなった子牛を探し出し、三十キロ以上もあるその子牛を背負って親のいるところまで運びおろしたばかりだと東城さんは笑っておられた。親牛が人目につきにくい深い藪の中で自然分娩による出産をしたり、まだ生まれて日の経っていない子牛を連れて山の奥のほうへと分け入ったりしたようなときにそんなことがよく起こるらしい。もちろん、まだ乳離れしていない子牛に笹の葉など食べられるはずもないから、そのまま放っておくと生死にかかわることになる。親牛は親牛でおろおろするばかりで、自分ではどうすることもできないらしい。

むろん、そんなときは東城さんの出番となる。常々時間をかけて広大な事業地内を隅々まで歩き回り、詳細な地形はいうにおよばず、一帯の藪地の状態や樹木の一本一本さえも熟知している東城さんには、子牛が動けなくなっている場所がどこであるかおおよその推測がつくらしい。迷子になった子牛を探し出し背中を出すと、子牛のほうはおとなしく前足二本を東城さんの左右の肩にゆだね、安堵したようにおぶわれるのだという。一昔前にはよく見かけた赤子を背負う母親のように、子牛を背負う東城さんのユーモラスな姿を想像し、私はなんだかほのぼのとした気持ちになった。

のんびりと寝そべったり笹を食んだりしている牛たちの姿を遠望したあと、我々は番小屋へと戻った。米沢さんと岩魚との決闘は以前膠着状態のままで、番小屋に戻ったあとも睨み合いが続いていた。意地と意地との張り合い(?)だからこれはもうどちらかが引き下がるまで放っておくしかない有様だった。そこで、私のほうは番小屋の中に入り、お茶を頂戴しながら、東城さんからカヤノ平の四季についての話を伺うことにした。

四月のカヤノ平はまだ一面深い残雪に覆われていて、握りこぶしの太さほどまでの樹木などは固く凍結した雪層に圧し拉(ひし)がれたままであるという。たまたま伐採を免れたブナの大木だけが、気の遠くなるような歳月を内に秘めまばらに立っているだけであるらしい。折々吹き荒れる春嵐によって吹き落とされた苔や小枝が雪上に散らばり、ところどころにアカゲラが突つき落とした木屑が積もっているのが見られるという。春が深まるにつれて、厚い雪で覆われていた沢のあちこちにポッカリと穴が開いて微かな水音が聞こえはじめる。そして、ブナの大木の周りの雪面は数学的に計算されでもしたかのような漏斗状の曲面を描いて落ち込み、その底のほうには笹が顔をのぞかせるようになるのだそうだ。

五月になると沢が開き、岩魚を狙って訪れる釣り師の足跡が沢沿いの雪の上に点々とつづくようになる。そしてほどなく山の斜面の雪は消え、ブナの若芽が一斉にやわらかな葉を開きはじめるという。いっぽうではオオヤマザクラの花が山々のあちこちを鮮やかなピンクに染め変え、潅木のタムシバは自らの枝では支え切れないほど多くの真っ白な花をつける。地表では雪融けを待ちきれないかのようにフキノトウが次々に芽吹き、それに呼応するかのように諸々の草花が一斉に美しい緑の若葉を吹き出し始める。

六月から七月になると牛の放牧がはじまり、カヤノ平のあちこちではのどかな牛の鳴き声が聞かれるようになる。いうまでもなく、数々の動植物の命の躍動がカヤノ平に満ちわたる時節である。フキノトウ、コゴミ、ワラビ、イラクサ、タラノメ、タケノコ、ヒラタケなどの山菜を求めて一帯が賑わうのもこの頃のようだ。

奥志賀高原一帯がハイカーやキャンパー、ドライブ客などの観光客であふれかえる七月から八月の夏山シーズンが過ぎると、カヤノ平周辺には再び静寂が戻ってくる。九月に入ると急速に秋は深まり、笹は翌春のタケノコの発芽に備え表土の養分を一気に地下茎に蓄えはじめる。散在するトチノキなどはたわわになった重い実を次々に地上にふりまく。山の頂き付近では紅葉がはじまり、やがてその紅葉は山々の麓に向かって広がり進む。そしてほどなく、カヤノ平は一面、赤、紅、橙、黄、黄緑と色とりどりの紅葉に染め尽くされることになるのだそうだ。

夏から晩秋にかけてカヤノ平に棲むツキノワグマたちも活発に活動するという。東城さんの話だと、北海道のヒグマなどとは違ってツキノワグマが放牧中の牛を襲ったりすることはまずないらしい。東城さんの番小屋からは餌を漁りに近づくツキノワグマの姿が目撃されることもしばしばであるという。ツキノワグマの雌は雄と交尾し受精したあと冬眠に入るが、受精卵はその間成長を保留した状態のまま母胎の中で保たれるらしい。夏から秋にかけて餌に恵まれ栄養分を十分蓄えることのできた雌クマの受精卵は、春になって冬眠が終わるとともにどんどん母胎内で成長し、コグマとなって誕生する。しかし、栄養の蓄えが十分でない雌クマの受精卵は冬眠中に母体に吸収され消滅してしまうという。自然の仕組みとはよくできたものである。

十月になるとカヤノ平の紅葉はもうまばらとなる。キノコ採りに訪れる人々で一時的に賑わいはするものの、ほどなく霜柱が地面を覆い、木枯らしが落ち葉を吹上げるようになる。むろん、この頃になると放牧されていた牛たちも人里におろされ、翌年の雪融け時まで暖かい牛舎の中で日々を過ごすことになる。昔は、「山止め」といって、十月二十八日(たぶん旧暦にもとづいての話だろうが)を過ぎたら絶対に入山しないようにするというのが、カヤノ平周辺の山麓に住む人々の暗黙のルールでもあったようだ。豪雪地帯山岳部の降雪は想像を絶するほどに凄まじく、一瞬にして一帯を白銀の地獄へと変えてしまう。当時の装備や技術ではそんな状況下で遭難した人を救助することはほとんど不可能だったので、人々はこの山止めの決まりを固く守っていたという。

十一月も半ばを過ぎるとカヤノ平は雪に閉ざされ、翌年の五月頃までほぼ半年間にわたって深い眠りにつくことになるというわけだ。

私が東城さんの話に耳を傾けている間も、米沢さんと岩魚との静かなる決闘は続いていた。岩魚のほうが水中でどう思っていたのかは知るよしもなかったが、いっぽうは餌でだまして釣りあげようと辛抱を重ね、もういっぽうは餌の誘惑に乗らないようにぐっと欲望を抑えるという、いつ果てるとも知れない我慢較べを見ていると、さすがに両者の間に分けてはいりたくなってきた。夕刻までには秋山郷方面に抜けなければならない予定などもあったので、米沢さんにもとりあえずは矛先ならぬ竿先を収めてもらうことにし、東城さんのにこやかな笑顔に見送られながら、我々はカヤノ平をあとにしたのだった。
2000年9月13日

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