初期マセマティック放浪記より

97.カヤノ平混牧林事業

昭和初期、カヤノ平周辺の村々の住民はほとんどが農業で生計を立てていたが、当時の農村のどこもがそうであったように、農耕作業には牛や馬などの畜力が用いられていた。春から夏にかけて過酷な農耕作業に従事し体力を消耗した牛馬をのんびりと静養させるために、木島平村が国からカヤノ平の一部を借り受けたのが、このあたりの放牧事業の始まりであるという。その頃は、十キロメートルもの坂道を牛馬とともに一日かけて歩き、このカヤノ平の静養地までやってきていたらしい。

カヤノ平での農耕用牛馬の放牧状況に着目した営林署は、ブナの大量伐採によって笹山と化したカヤノ平地域のブナ林再生をはかるために肉用和牛を放牧することを思いつき、ほどなく先導的試行を開始した。牛を野草混じりの深い笹薮に放牧すると、牛が一帯を自由に歩きまわるうちに笹地の地面が踏まれて徐々に耕されるし、その糞尿も肥しとなって地力を高める。また牛たちが笹そのものを踏みつけながら移動し、どんどん笹の葉を食べてくれれば笹の成長が抑えられる。ブナの生育を阻害する笹の成長があるていど抑えられれば、数年に一度しか大量には実らならないというブナの種の根付きも容易になるし、芽を出したブナの幼木にも陽光が十分届くようになる。そうすれば、将来的にはブナ林の再生も夢ではないというわけだった。

植物学の権威、故牧野富太郎博士の分類によると、一口に笹とはいってもその種類は六七〇種にも及ぶという。山中に生えている笹は「熊の出るような奥山に茂る笹」といったような意味を込めて「熊笹」などと呼ばれているが、本来のクマザサとは「隈笹」と書き、葉のふちが白く隈どられた笹のことをいうのだそうだ。もともとは京都あたりの一部の地域に自生する種類の笹であるらしい。

それはともかく、我々がひとからげにしてクマザサと呼ぶ笹類は意外なことに牛の飼料としてすぐれた存在であるらしい。笹の葉の含む水分の割合は五〇パーセントほどなので、九〇パーセントが水分からなる青草に較べて栄養価はずっと高く、その繊維質は牛の胃袋に納まり十分に消化されることによって高級蛋白に生まれ変わるのだという。

通常、牧場といえば青々とした広い牧草地でのんびりと草を食む牛たちの姿を想像するのだが、水分含有率の高い青草を主食とする場合、体重五〇〇キロの成牛は生命維持のため一日に五〇キロ近い草を食べなければならない。それは牛にとっても相当な重労働なのだという。その点、笹の葉は水分が少なく栄養価が高いため食べる量が少なくてすむから、牛たちが食物の摂取に費やす労力もそのぶん減るというわけだ。

通常肉牛として飼育される黒毛和牛の肉質を一定品位に保つためには、食肉として一定の品質を維持するためには飼料を青草のみに頼っていては十分でないので(乳牛の場合はむろん話は別のようである)いきおい穀物飼料が中心となるが、その場合一キロの肉を生産するのに七キロの穀物が必要になるという。どうやら笹はそんな問題点をカバーするのにも適した理想的な飼料であるようなのだ。もっとも、青草に較べ笹の味のほうはどうかということになると、それだけは牛に聞いてみないとわからない。グルメの牛などは、「モーウッ、ササにはイササカ飽きたぞおーっ、青草が食いてよモーウッ!」って心の中で思ったりするかもしれない。

ともかくもそのような背景と狙いのもとに営林署は混牧林事業に着手することになり、その大胆な試みは以後十年間ほどにわたって続けられた。その際に生まれたこの「混牧林事業」という耳慣れない用語は、要するに「肉牛とブナ林との育成を同時に行う事業」といったような意味の込められた造語なのである。事業開始当時の畜産関係者のほとんどは人の背丈を超える笹藪の中で牛を放牧するという無謀さに驚き呆れ、失敗は間違いないと噂したという。牛を除草剤や林業用の刈り払い機がわりに使って飼料の節約をはかるいっぽうで、あわよくば放牧中に子牛を生ませて畜産振興にも寄与させようといういささか欲張った事業計画だったから、畜産関係者がその将来を危ぶんだのも無理はない。

カヤノ平は豪雪地帯だから、人里の牛舎から牛たちが山上に運ばれ笹山やブナの疎林に放たれるのは、雪溶けが終わり一帯が新緑に覆われる六月半ばの頃になる。そして初雪が舞い気温が氷点下にさがる十月下旬には再び集落の牛舎に戻してやらなけでばならない。この夏山冬里方式の育牛においては、夏場と冬場における環境の差異は相当なものだから、牛たちがその環境変化についていけるかどうかも問題であった。

実際、冬場に穀物や保存乾燥した草類の飼料などを与えた牛を夏場いきなり山中の笹山に放ち笹を食べさせたりすると消化不良を起こすことがあるらしい。先進国の美食家が未開の地に赴き、やむなくその土地の食物を口にしてお腹をこわすようなものだから、それはある程度やむをえないことである。そこで、夏場に牛を山中に放つ場合には前もって一定期間その下準備をさせる必要もあった。

ともかくもそうやって試験的にスタートした混牧林事業は十年間にわたって続けられ、大々的とは言えないまでも試行としてはそれなりの成功を収めることはできたのだが、林野庁全体の赤字経営とそれにともなう財政難のためにそれ以降の事業の続行は容易ではなくなった。一時は事業の存続も危ぶまれる状況だったようであるが、さいわい昭和五十三年以降は東城厚さんを組合長とする民間の混牧林事業組合に引き継がれることになり、現在に至っているという。数世帯の牛飼い農家を中心にしたこの事業組合そのものはけっして大規模なものではないが、着実にその事業を継続展開してきているようである。

暑い夏の季節に牛舎から解放され、栄養豊富な笹の葉と合わせてカヤノ平の天然の清水をも摂取できることは牛の生理にとってもよいらしく、毎年、放牧される牛たちのうちの何頭かは子牛を出産するという。もちろん山中での自然分娩でほとんど人手はかからない。お腹がだんだん大きくなって、そろそろ出産かなと思われるころになると突然に姿が見えなくなり、再び姿を現すときには子牛を連れていて、乳をやりながら笹を食んでいるのだという。生来の動物的本能によって探し出した秘密の場所において、牛たちは人目を避けるようにして出産しているらしい。こうして生まれ育った子牛は肉質もたいへんすぐれているので、いまでは市場においても「カヤノ平」という銘柄で知られ、その人気はとても高いのだそうである。

もっとも、混牧林事業における肉牛生産の全体的な収支となると、まだまだ手放しで喜べるような状態ではないらしい。外国からの安い牛肉の輸入にくわえて国内各地産出の銘柄牛との販売競争も激しいから、たとえ特別に育てた良質の肉牛だからといっても思ったように収益をあげられるとはかぎらない。さらに、いくら放牧とはいえ山中に放たれた個々の牛たちの日々の状態を把握しその健康管理を行う常駐番人などは必要だから、そのために要する人件費もばかにならないようである。むろん、冬場の牛舎での飼育には相応の経費もかかる。だから十分に採算が合うなどとはとても言えない状況なのだ。

またいっぽう、数年で数十センチ程度しか成長しないブナの木の育成にはなにぶんにも長い時間が必要なので、ブナ林再生という最終的な課題における混牧林事業の成果について現段階ではっきりした評価をくだすことは難しい。少なくとも親子二世代、百年の時を経たあとでなければその意義について的確に論じることはできないだろう。

もちろん、混牧林事業地域にはブナの幼木が多いとか、他の地域に較べて既存のブナの成長速度はやいとかいったようなことを成果の一環として指摘することはできるかもしれない。だが、大局的に考えるなら、いまの時点ではそんな小さな評価にこだわるより、この事業の理念と可能性を信じ、ひたすら未来のブナ林に夢を托すつもりで協力を惜しまぬようにすることのほうが、我々にとっても重要かつ有意義なのだと言えるだろう。

目先の自己利益や短期での目的達成にしか関心のない者が大半の今日の日本にも、最短でも百年から二百年先でなければ確たる成果の見られない事業に夢を賭けようとする奇特な人々がいるのを知って、私は深く心をうたれる思いであった。
2000年9月6日

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