初期マセマティック放浪記より

85.事態は想わぬ方向へ

今日も安曇野は晴天に恵まれている。午前中にはここをおいとまするつもりでいたのだが、アトリエのテーブルを拝借していくつかの原稿の整理をしているうちにどんどんと時間が経ってしまい、気がついたときにはもう午後二時くらいになってしまった。そして、結局、「よかったら遠慮なくもっと泊っていってください」という岩井さん御夫妻のお言葉に甘え、もう一晩だけアトリエでお世話になることにした。

原稿の処理を終え庭に出てみると、岩井さんが粘土をこねて数躰の陶像の原型を作っておられるところだった。今晩またそれらの像は薪ストーブで焼かれることになるのだろう。昨晩焼きあがった女性の裸像は、すでに棚の上にずらりと並ぶ縄文酒盛陶像群の仲間入りをしていた。焼く前に胸や腰のあたりに銀紙を巻きつけておくとどのような仕上がりになるのか実験してみたのだとのことだったが、ちょうどブラジャー部や腰巻部にあたるところの肌の色が日焼けせずにそのまま残った感じになっており、なかなかに妙味があった。縄文期の女性がブラジャーなどをしていたのかどうかともかくとして、少なくとも「情悶期(?)」の現代の男どもには大うけしそうな作品であることは間違いなかった。

庭の一角にはリンゴ農家で不用になり伐採されたものだというリンゴの樹が大量に積み重ねられていた。もちろん、乾燥させて彫刻の材料にしたり、冬場に薪ストーブの燃料にしたりするためである。生木のせいでもあったのだろうが、リンゴの樹はずっしりとしていて想像以上に重たかった。木目もずいぶんと詰まっていて、叩いてみると相当に硬い感触がする。寒冷地に育つ樹木は必然的にこのような木質をそなえもつことになるのだろう。

午後、皆が一段落したところでお茶の時間になったので、私は久々に車のボックスからハーモニカを取り出し、お礼の意味を込めて何曲か懐かしのメロディーを演奏させてもらうことにした。若い時代とは違って近頃はよほど気分がのらないかぎりハーモニカを吹くことはないが、一応腕前のほうはそこそこ人様に聴いてもらえるレベルには達している。曲目は「荒城の月」や「青い山脈」にはじまり、「異国の丘」などという最早化石的存在ともなっている古い曲にまで及んだが、岩井さんはうっすら目に涙さえ浮かべながら私のつたない演奏に聴き入ってくださった。

ついでだから述べておくと、「異国の丘」という曲については懐かしい想い出が一つある。もう一昔前の話ではあるが、東北の山間部のあるひなびた温泉宿に一人で泊まったときのこと、夕方、たまたま私はハーモニカを手にしてこの曲を吹いていた。すると、突然、同宿の二十人ほどの老齢の団体客からお声がかかり、有無をいわさず座敷に連れ出されて、「異国の丘」をはじめとする戦時中の名歌数曲を繰り返し繰り返し独演させられる羽目になった。その老人たちは皆かつて旧陸軍の同じ部隊に属していたのだそうで、ちょうどその晩その宿で戦友会を開いているところだったらしい。ところが、そこへ思いがけなくもお誂(あつらえ)むきの曲が響いてきたので、見ず知らずの私を呼んで演奏をしてもらおうということになったのだそうだ。

その人々は皆感涙に咽びながら演奏に耳を傾けてくれたばかりでなく、直接的な戦争体験などない若い私の奏でるメロディーに合わせて、大合唱の声が湧きあがったりもしたのだった。私は軍歌をはじめとする戦時中の歌曲がとくに好なわけでもなんでもなかったが、幸いそれらの曲をなんとか吹きこなせはしたので、どうにかその場をとりもつことはできた。

ハーモニカ演奏を終え、安曇野周辺のことについてあれこれと話に花を咲かせているうちに、ふとしたことから穂高の石田達夫老(過日の拙稿「人生模様ジクソーパズル」で紹介した人物)のことが話題にのぼった。そして、それを契機に事態は想わぬ方向へと展開していきはじめた。この日は石田ドラキュラ老がお気に入りの「十三日の金曜日」ではなかったのだが、せっかくの機会だから岩井さん御夫妻と一緒に石田宅を訪ねるのも悪くないと考え、私はとりあえず先方に電話をかけてみた。すると、運よくと言うべきか運悪くと言うべきかはわからないが、ともかく、「ぜひどうぞ」との快諾を得ることができたのである。

まあそのような経緯で、夕刻、岩井御夫妻と私の三人は穂高町有明にある石田宅を訪問することになった。あえて人食い老人(?)の餌食になる危険を犯してみようというわけである。八十余歳という年齢のゆえにかつての鋭さは失われてきたとはいえ、ドラキュラ老人は瘠せても枯れてもドラキュラ老人には変わりない。急なことゆえ十字架やニンニクで身を固めるひまはなかったので、我々は、かわりに石田宅への途上にあるスーパーマーケットで買い込んだ寿司と果物を持参し、相手の食欲をそちらのほうへとそらす作戦に出たることにした。その効果のほどには甚だ疑問もあったが、他に方法もなかったのでこの際やむをえないことではあった。どう考えても、寿司や果物のほうが我々よりも美味いにきまっているのだが、相当に気まぐれな相手だけに一筋縄ではいかないところがなんとも厄介なところではあった。

高齢な身の独り住まいだということもあって、石田宅にはセコムが開発したとかいう特殊な監視装置が設置されている。玄関周辺の映像と音声を常時リアルタイムで収集できるこの装置のおかげで、もしも誰かが家に近づくと、自室にいながらにして現代のドラキュラ庵主はその様子をいちはやく察知することができる。訪問客同士が玄関先でうっかり陰口を囁き合ったりしようものなら、それらがみな筒抜けになってしまい、あとになってから素知らぬ顔でじわじわと皮肉たっぷりに逆襲されたりもするわけだ。ただ、すでにその裏仕掛けを知っている私には、少なくともその手口だけは通用しなかった。

案の定、こちらが近づくのをいち早く感知した石田老は、庭先に止めた車から我々が降り終えるまえに勝手口のほうからヌーッと姿を現し、車のそばに近づいてきた。そのタイミングがなんとも絶妙なものだから、裏事情を知らない人などは驚いてしまうことも少なくないらしい。ともかくも我々三人はこうして石田宅の玄関に立っことになった。
2000年6月7日

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