初期マセマティック放浪記より

84.岩井澄夫自然流彫刻

アトリエ・ボワヤジュールの中に入った途端に私が息を呑んだのは、フローリングの広い床一面と側壁に設けられた何段もの棚を埋め尽くすようにして、彫像群がびっしりと立ち並んでいたからだった。少なく見積もっても三、四千躰はあろうと思われる表情豊かな彫像群が、それぞれに固有のポーズをとりながら自己主張をしているのである。その有様は、なんとも壮観なものだった。

高い天井と天窓をもつアトリエの一隅には懐かしい薪ストーブがあって、その前にテーブルと椅子が置かれていた。案内されたテーブルに着きながら薪ストーブのほうに目をやると、見るからに暖かそうなオレンジ色の炎が燃え盛っている。私にはその炎のゆらめきが、このアトリエの主の優しく温かい心の象徴そのものであるかのように思われた。

初めてお会いする岩井澄夫さんは、実に柔和でもの静かな方だった。全身にこのうえなく自由な雰囲気の漂う岩井さんの姿は、国立大学の文部事務官という現在のお仕事から想像される「金属製のサイコロ」のような人物像にはまるで無縁のものだったのだ。穏やかな顔にちょっとはにかみがちな笑みを湛えながら、遠慮気味に一語一語を胸の奥底から湧き上がらせるようにしてお話になるその姿を拝見したとき、私はこの方の内に秘められた鋭い感性と精神えの強さを想った。岩井さんのとてつもない創造力の秘密は、たぶんそのあたりにもあるのだろ。

私のささやかな経験によれば、肩に力のはいらないしなやかな自然体をそなえた人というもは、そのソフトな見かけとは違って、どのような孤独にも逆境にも耐えられる強靭な意志力と忍耐力を秘め持っていることがおおい。反対に、しばしばマスコミ人の中などにも見かけられるような、表面的にはコワモテで自信たっぷりな言動を売り物にしている人物というものは、孤独や逆境には案外脆く、いったん厳しい状況に立たされたりすると、内面の弱さを露呈することが少なくない。舞台裏では奥さんやそれに近い存在にべったりと依存しきっているといったケースなどもよくある話のようだ。

謙虚さの奥に確たる世界をお持ちの岩井さんの場合も、奥様は彫刻家としての御主人のこのうえなき理解者であり、協力者であり、面倒な対外的折衝の担い手でもある。竹久夢二の美人画の女性にどこか面影の似たところのある奥様の内助の功を称える岩井さんの言葉などは、本心からのものに違いない。その言葉が偽りでないことは、女性の彫像群の中に明かに奥様のイメージと重なる雰囲気を湛えた作品が数多くあることからも頷ける。だが、詰まるところ、見える者にしか見えない難攻不落の心の城を築き、その城主として君臨なさっているのは、どう考えてみても御主人の澄夫さんのほうだろう。おそらく、苦境時などにおけるこの方のたくましい生活力と柔軟な環境適応能力は大変なものに違いない。

室内に置かれている膨大な作品の正確な数は岩井さんご本人にもわからないらしかった。東京府中のご自宅や松本の実家などにあるものを合わせると、数千躰はくだらないだろうとのことだった。古代の神々や伝説上の人物を想わせる彫像からモダンな女性像まで、老若男女様々なかたちの裸像が自由奔放に己の存在を誇示しながら立ち並んでいるのだが、全体的には、何かを語りだしたげな顔の表情とユーモラスにも見える腹部の形とが岩井さんの作品の特徴であるように思われた。

お酒が人一倍大好きだという岩井さんの作品らしく、酒瓶を片手にラッパ飲みのポーズをとる像や、すっかり酔っぱらって手振り身振りよろしく大声で歌でもうたっているらしい彫像などもあった。そういえば、過日の個展会場では、縄文時代の酒宴をイメージして作られたという陶像群中のとりわけ大酒飲み風の一躰に「岩井」と名を記した紙の小片がさりげなく貼られていたが、遊び心もここまでくると粋なことこのうえない。

彫像群の間を押し分けるようにして設けられた床の通路を歩きながら、自分の姿に似た作品が一個くらいはあるのではないかと探したりしてみたが、うっかりして手や足で彫像を倒しでもしてしまったら、ほかの彫像がつきつぎに将棋倒しになって、アトリエ内は一大パニックになってしまいそうでもあった。一階フロアの奥には台所があったが、驚いたことに、作品群の数々はその台所の床や壁の棚までも占領し尽し、我が世の春を謳歌していた。奥のほうに洒落た造りの中二階があったが、その中二階のフロアにもずいぶんたくさんの彫像が並んでいたし、中二階の手摺りの下やそこに通じる階段の脇にも、信濃路の道祖神や修那羅の石仏群を連想させる浮き彫りの木彫作品が置かれていた。

ふと階段脇の柱のところに目をやると、中二階から一階フロアに向かって、短い木の棒様のものを多数糸でつないだオブジェが垂れ下がっている。なんだろうと思って近づいてみると、短い木の棒に見えたものはそれぞれ宿業から逃れようと必死になっている感じの男女の木彫作品で、それらに水糸を通しつないで吊るしたものだった。芥川龍之介の作品「蜘蛛の糸」をイメージしたものなのだそうで、まだ制作途中とのことだったが、なるほどと私はそのアイディアにひたすら感心するばかりだった。

岩井さんが一念を発起し、見よう見真似の手探り状態で彫刻をはじめてから今年で十五年ほどになるらしい。二人のお子さんが小学生くらいになった頃、親としての存在の証を何らかのかたちで子供たちに残したいと考えたのが、一念発起のきかっけであったという。なんの迷いもなく、はっきりとそうおっしゃるところが、またこの方の凄いところでもある。これから先もまともな作品ひとつ子供たちのために残せそうにない私などには、ちょっと耳の痛い話ではあった。

もっとも、我が家の場合などは、下手に作品まがいのものを残したところでゴミ箱に捨てられるのが落ちだろうから、はなからこちらは戦意喪失である。どうせ残すなら家や土地などの資産のほうがよいなどと注文もつけられそうだが、そんなものを残せる能力があるくらいなら、こんなしがない原稿なんか書いているはずがない。

ひとわたり作品群を拝見したあとまた薪ストーブの前に座り、奥様の手料理に舌鼓を打ちながら岩井さんや息子さんとよもやま話に花を咲かせはじめたのだが、いま一つだけ気になることがあった。隅のほうに着色用顔料などがすこしばかり置かれてはいるが、事実上このアトリエは彫刻作品の収納倉庫みないな状態になっている。アトリエとはもともと工房のことなのだから、岩井さんが木を切ったり彫ったり削ったりする場所がすくなくともこのアトリエ内のどこかになくてはならない。ところが、それらしい場所が室内のどこにも見当たらないのだ。

陶像制作のほうはすぐに謎が解けた。岩井さんが目の前で燃え盛る薪ストーブの口を開き、出来上がったばかりの素焼きの像二、三躰を取り出すところをすぐそばで拝見したからである。庭で土を練って形を造り、それをこの薪ストーブの中に入れて焼き上げるという、いたってシンプルな方法で、あの三百躰を超えるユニークな「縄文酒盛軍団」は出来上がったらしいのだ。いろいろと試行錯誤しながら我流で土をこね、火加減もよくわからぬままに少しずつ実験的に焼いてみているのだそうだが、出来上がった陶像の不思議な魅力といい、その数の多さといい、唯々舌を巻くばかりである。焼き物などというと、どうしても大掛かりな設備を想像してしまうのだが、工夫次第では、こんな簡単な方法で陶像のような作品を生み出すことだってできるのだ。

肝心の木彫用作業場が見当たらないのもどおりであった。なんと岩井さんの木彫工房、すなわち正真正銘のアトリエのほうは、アトリエ風作品収納庫(?)の裏に建てられた一坪か二坪ほどのごく小さなプレハブ小屋だったのだ。ちょっと覗かせてもらうと、簡素な造りのその小屋の中には、大きな木製台座やまだ彫りはじめたばかりの原木類、各種工具などが所狭しと並べられていて、あとは大人ひとりがやっと腰を下せるくらいのスペースがあるだけだった。

弘法は筆を選ばずの譬ではないが、ほんとうに精魂込めて創作に打ち込む人の仕事場とは大体こんなものだろう。これまでにも何度かその道の大家と呼ばれる工芸家や画家の工房を見せてもらう機会があったが、共通しているのは、意外なほどに簡素でしかもひどく雑然としていることだった。もともと工房とは、作家が心身ともに裸になり、汗みどろ血みどろのなかで精魂の限りを尽して孤独な戦いを続けるリングなのだから、綺麗で立派なわけがない。だから狭くて足の踏み場もないようなその工房を目にして、私は妙に納得のいく気分になった。

岩井さんは、とくに彫刻用の素材を選ぶことはせず、たまたま野山で拾ったりした木片や木材などでもすべて彫刻の材料にしてしまう。どんなにみすぼらしく不恰好な原木にだってそれなりの生命が宿っているから、それを自然に引き出し生かすようにしてやれば、無理なく面白い作品が出来上がるのだという。たとえば、虫食いのひどい穴だらけの素材であっても、その虫食い穴をそのまま巧く活用してしまえば、なんとも味のある独創的な作品に化けてしまうのだ。実際、虫食い穴を見事に生かした彫像が何躰か並んでもいた。

あらかじめ想い描いている通りの作品を完成させるために良質の素材を選ぶという方法を岩井さんはあまり好まない。その折々に手にする素材と心の対話を何度も繰り返しながら、その素材の秘める命と作者の命との自然な融合体を創り出していくというのが岩井さんの彫刻家としての信条である。この基本理念こそが飽くなき創造力の源泉なのだろう。またもしそうであるとすれば、小ぶりの作品みたいなものならどんな場所にあっても制作が可能となる。必ずしも工房にこもって仕事をする必要がなくなるわけだ。十五年ほどの間に何千躰にも及ぶ魅力的な彫像や塑像が生まれたのは、どうやら岩井さんのそんな創作理念と創作姿勢の賜物であったらしい。

夕食を御馳走になったあとすっかり話し込んでしまったために、この晩は結局アトリエに泊めてもらうことになった。迷惑な飛び入り客のお蔭で岩井さん御夫妻と息子さんの三人は一階の彫像群のただなかに寝具を敷いてお休みになる羽目になり、私ひとりだけが中二階の畳の間に敷かれた布団で休ませてもらうことになった。私の布団のすぐ近くにもかなりの数の彫像が立ち並んでいて、それらを横目で眺めながら眠りにつくことはなんとも不思議な体験だった。このアトリエを訪ねてみてほんとうによかったと思いながら、瞑目するうちに、いつしか私は深い眠りに落ちていた。
2000年5月31日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.