初期マセマティック放浪記より

83.アトリエ・ボワヤジュールへ

久々に訪ねた鉢伏山の山頂周辺は、すっかり歩道が整備され以前とは様相が一変していた。貴重な高山植物などもある一帯の草地を踏み荒らされないようにするには、あらかじめ探索路を設けておき、それ以外のところは立ち入り禁止にせざるを得ないのだろう。鉢伏山頂が一面若緑に覆われるのは五月下旬以降のこととあって、連休中とはいってもあたりに人影はほとんどない。明るい陽射しに抗(あらが)うかのごとく吹きぬける冷風に髪の毛を逆立てながら頂きに立つと、高ボッチ山のそれと甲乙つけがたい白銀の山岳風景が目に飛び込んできた。鉢伏山の頂きからは、王ヶ頭や王ヶ鼻をはじめとする美ヶ原方面の景観を一望することができる。ただ、鉢伏山北東面と美ヶ原南西面との間は深い谷になっているから、鳥にでもならないかぎり眼前の美ヶ原へと直行するのは無理である。

山頂の展望を満喫し終えると、いたん鉢伏山と高ボッチ山との間の鞍部まで戻り、そこから崖の湯を経て松本方面へと下る道に入った。もうずいぶん昔のことだが、崖の湯温泉を目指して初めてこの道を下った時には、まだ路面は岩だらけの狭いダートで、いたるところで小規模な崖崩れや土砂崩れが起こっていた。崖の湯に出るすこし手前のあたりは、ワゴンの車輪がずぶずぶとぬかり沈み、車軸や車底が絶え間なく路面を削るほどのひどい悪路で、ドロドロした赤土の急坂を車ごとスケーティングするようにして下った記憶がある。もっとも、いまでは道幅も広くなり完全に舗装もされているから、初心者でも運転に苦労することなく快適なドライブを楽しむことができる。

本道からすこし脇道に入ったところにタラの芽を採取できるポイントがあるので、ちょっと立ち寄ってはみたが、まだごく小さな新芽が顔を出しはじめたばかりで、採るにはちょっと早過ぎた。常々私は、山地を旅する折などに山菜採取ポイントや茸採取ポイントを探し出して旅ノートに記録しておき、後日その付近を通りかかることがあると、必要に応じてそれらのポイントをチェックしてみることにしている。磯辺や渓流のさまざまな獲物についても同様のチェックをしていることは言うまでもない。

途中で散々道草を食ったので、松本市南部の村井という駅近くにある岩井澄夫さんのアトリエ、「ボワヤジュール」に着いたのはもう夕刻近くだった。センスのいい茶白色のレンガ造りの外壁と四角い煙突のあるモダンな三角屋根をもつそのアトリエの前では、岩井御夫妻とその息子さんの三人が、何時やってくるかわからない私をじっと待っていてくださった。

奥様とは以前から面識があったが、アトリエの主である岩井澄夫さんとお会いするのはこれが初めてのことだっだ。実を言うと、現在、岩井さんは東京府中市の私宅のすぐ近くにお住まいである。岩井さんには広乃さんという女子大生のお嬢さんがおありなのだが、何年か前の夏休みのこと、ふとした縁で私はこのお嬢さんの英語の勉強をみてあげることになった。指導を依頼された教科が「数学」ではなく「英語」であったことが広乃さんにとっては運の尽きで、もともとは大学受験のための英文講読であったはずの講義は、雑学全般に及ぶという異常事態に発展した。「雑学」という受験教科があれば言うことはなかったのだが、世の中そうそう都合よくはいかないから、私の講義が役立ったのかどうかはいまだ謎のままといったところである。

大学生になってからも、広乃さんは時々我が家に雑学のネタを仕入れにやってくる。そんな折の彼女との会話を通じて、東京農工大学で文部事務官をなさっているお父さんが彫刻をやっておられるらしいということは耳にしていたのだが、これまで直接にお会いする機会はなかったし、その作品を拝見するチャンスもないままであった。そんなところへ、折りよく、岩井さんの個展が荻窪の画廊で開催されるという案内状が送られてきたのである。去る四月に開かれたこの個展は、朝日や読売をはじめとする各新聞の都内版でも大きく紹介されていたから、目にとめられたかたもあるかもしれない。とりあえず私も時間の都合をつけ、荻窪駅から少し離れたところにあるその画廊に足を運んでみたのだった。

当日個展の会場に一歩足を踏み込んだ私を待っていたのは、床一面にところ狭しと立ち並ぶなんとも不思議な彫像群だった。大小の木彫が中心だが、彫像の一体一体がその体内いっぱいにそれぞれの物語を孕(はら)んでいて、見る者に向かって、忘れかけた世界の想い出話や懐かしい言葉の数々をそっと囁きかけてくるのである。私はたちまちそれら彫像群の虜になってしまった。

芸術にはまったくの素人の私だが、大学院生相手に雑学の講義をするため、たまに東京芸術大学に出向くことなどもあって、芸大の先生方の作品をはじめとする優れた現代彫刻の作品はそれなりの数見てきている。だが、それらのものとはまるで趣を異にする岩井さんの彫刻群には、自由闊達な独特の作風を備えていて、大地への深い祈りと感謝、さらには、まだこの世のどこかに隠れ棲むらしい精霊たちとの不可思議な交感の物語さえもを想像させる独特の作風がそなわっていた。一見素朴で土の匂いに満ちみちてはいるが、その奥には、見る者の心をやすらわせずにはおかない優しさと、人間への深い共感と鋭い洞察とが秘められている感じだった。

どこかあの独特の存在感を湛える円空仏にも似た、また信濃路のあちこにたたずむ道祖神にも通じる、素材を無理なく生かした自然な彫像の彫り跡を眺めているうちに、私には少年期に岩井さんの感性を育て上げた原風景が見えるような思いがしてならなかった。憤怒の相を浮かべる僧形の裸像には、穂高の碌山美術館に収められている荻原碌山作のブロンズの「文覚」や古い寺々に立ち並ぶ羅漢像から岩井さんが受けたと思われる影響の大きさが偲ばれもした。この人の心の奥に「みすずかる信濃の国の安曇野」がどっかりと根をおろしているのは疑う余地もないことだった。

二、三百体にも及ぶ高さ数センチほどの素焼きの小像群が織りなす光景も斬新で面白かった。縄文時代の人々が酒盛りをしている情景をイメージしたものなのだそうだが、実にユーモラスな格好をした裸形の男女が床一面に並んでいて、それぞれが思いおもいに飲んだり、歌ったり、踊ったり、自慢話をしたりしている。なるほど縄文時代の酒宴はこんな風だったのかと思わず納得してしまいそうなほどに、素焼きの像の一体一体が声を上げ全身を振り乱して、ひとときの夢の世界に興じ狂っているのだった。「千年後、古代人にいつか僕もなるわけですが、その時、今日の物語が話せたらいいですね」というさりげない添え書きもなかなか洒落ていて好感がもてた。

武蔵野の昔の路 それは僕の思い出である
切株に座って 林から見える薄明かりの中で
僕は林の中へ 溶け込んでいくように思えた
それは太古の出来事に 思いを馳せていた時でもあり
また果てしない未来に向かって 何かをしでかしていく
ささやかな願いだったのかもしれない
時は流れていく

静かな想いのこもる岩井さんのそんな詩を読んでいると、この人の不思議な造形の世界の奥に確固として存在するものがそれなりに見えてくるような気がしないでもないが、それにしても、こんな独創的な作品群を生み出すなんて、なんという豊かな遊び心の持ち主なのだろう。そう思うと、私は岩井澄夫さんにどうしてもお会いしてみたくなった。しかし、残念なことにその日はたまたま平日だったので、個展会場ではその願いは叶わなかった。農工大で事務官を務めておられる岩井さんは、当然その日はお仕事だったからである。

そもそも、国立大学の文部事務官を務めておられる方ということになると、世間では金属製のサイコロみたいな人物だとその相場がきまっている。その金属サイコロみたいなはずの人物が、円や球というよりむしろ無定形に近い、これほどに自由な曲線や曲面をもつ作品群を生み出すなんていったいどういうことなのだろう。岩井さんは美大など出ておられず、彫刻の技術はすべて独学なのだと伺ってはいるが、明らかにその作品の質と量は趣味の域を超え、本職の彫刻家の域に達している。

さらにまた、国家公務員としての本務をこなすかたわらでこれほどに膨大な数の作品群を創造できる秘密はどこにあるのだろう。農工大の事務室が芸術工房に変わったというなら話はわかるが、そんなことはありえないし、それにくわえて岩井さんのアトリエは御夫妻の出身地の松本市にあると伺っている。そのアトリエに通えるのは休みの日に限られるだろうから、状況ははますますもって容易でない。それにもかかわらず、府中のご自宅や松本のアトリエにはもっともっと膨大な数の作品が眠っているというのである。いったいどうなっているんだろうという率直な疑問と、その創作力の背景を探ってみたいという思いが、野次馬根性の塊みたいな私の胸中にむらむらと湧き上がってきたのは当然のことではあった。

個展に出向いた翌日、お嬢さんの広乃さんに電話をし、作品を拝見した感想などを報告かたがたゴールデンウィークに北安曇野の穂高方面に行くかもしれないと伝えると、それからしばらくして、岩井澄夫さんから直接にお手紙を賜った。「先日はありがとうございました。私の前に娘がデンと座って先生のことを話しております。GW中に先生、もしかしたら穂高方面にお出掛けになる由……」という一文ではじまる自由闊達な墨書のその手紙には、連休中は松本に滞在しているので、ぜひアトリエを訪ねてもらいたいという主旨のお誘いの言葉が記されていた。

渡りに舟とはこのことだと思った私は、高ボッチ山頂から岩井さんのアトリエに電話をかけ、作品制作のお邪魔になるだろうことを百も承知で押しかけてきたようなわけである。車を庭先に駐め、案内されるままにアトリエの玄関をくぐって室内に入った私は、次の瞬間目にした光景に思わず息を呑んだのだった。
2000年5月24日

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