初期マセマティック放浪記より

73.東シナ海を越えて

七五二年、遣唐使の一行が入唐し明州に着くと、その到着をひたすら待っていた普照は、すぐに正使の藤原清河らと会った。たぶん、この時に鑑真の日本渡航計画がいま一度密かに練りなおされたのであろう。翌七五三年の正月、日本使節団は唐の皇帝に拝謁し祝賀の礼を尽すため、何事もなかったかのように都へとのぼっている。朝貢のために入唐する各国の使節団は、正月に都に入り朝廷に拝賀するのが慣わしになっていた。

鑑真に最終的な渡航の決断を願うべく準備を進めていた藤原清河らは、その年の十月十五日に揚州延光寺に着くと、ただちに鑑真に対し日本への同行を要請した。その申し出を受諾した鑑真は、その四日後の十九日に揚州を旅立って遣唐使の一行に合流し、十一月十六日、折からの大潮に乗って蘇州黄泗浦から季節風の吹き荒れる東シナ海へと出帆した。

黄泗浦の「泗」という文字は「涙」を意味しているから、それは何とも暗示に満ちた船出であったと言えるかもしれない。鑑真は、出航間際になってから、人目を避けるようにして四隻編成の帰国船団の第二船に乗り込んだという。当然、密出国だったわけだから、後日の唐との関係を心配する日本使節団の間には、鑑真が乗船する直前まで計画の決行にためらいがあったとも伝えられている。

この船団の第一船には正使の藤原清河のほかに、あの有名な阿倍仲麻呂が乗っていた。

七一七年の第八次遣唐使船で留学生として唐に渡った仲麻呂は、藤原清河と遇うまでに三十余年の時を異国の地で過ごしていた。その間、唐の朝廷に重用されていたこともあって、当時の大詩人李白や王維とも交遊があったと言われている。このときすでに五十一歳になっていた仲麻呂は、その船に乗って懐かしい故国へ帰ろうとしたのであった。

鑑真が、要人の占める割合が多かったと思われる第一船にではなく、第二船のほうに乗り込むことになったのは、きりぎりまで役人の監視の目を忍ぶ意図その他の事情があったためだろう。だが、結果的にはそのことが幸いした。この四隻の船団のうち、なんとか無事に坊津に辿り着いたのは鑑真の乗った第二船だけだったからである。

真偽のほどを確かめるすべはないが、阿倍仲麻呂が、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」というあの有名な歌を詠んだのは、この出船の直前、蘇州の浜辺で催された別れの宴の席においてであったという。歌の中の「天の原」は、もともとは「青海原」あるいは「大海原」だったという説もあるようだ。記録によれば、遣唐使船が蘇州を発ったのは旧暦(太陰暦)の十二月十六日だから、その一日前の十五日には東の海から昇る満月が見られたはずで、話のつじつまは合っている。母国への帰還を目前にした仲麻呂が、東の水平線から昇る美しい月影を眺めながら、胸に早鳴る望郷の念を歌に詠み込んだというその伝説が事実だったとすれば、その後に彼を待ちうけていた運命はあまりにも皮肉であったとしか言いようがない。

藤原清河や阿倍仲麻呂の乗った第一船は出航後に東シナ海で遭難し、かつて鑑真が流れ着いたのと同じ海南島方面に辛うじて漂着した。二人ともに命こそ助かったものの、ついに故国への帰還を果たすことができないままにその生涯を終えたことは、誰もが知る歴史に名高い話である。仲麻呂はこの遭難のあと再び長安に戻って唐の朝廷に二十年ほど仕え、七十一歳で没している。まるで鑑真と入れ替わりでもしたようなその晩年の有様は、天のいたずらとでも言うほかないであろう。ちなみに述べておくと、第三船は太平洋に流されて、紀伊半島南部の田辺付近の浜辺に無惨な姿で漂着し、また第四船は薩摩半島の南端にある現在の頴娃町の荒磯に難破船となって打ち上げられたと言われている。

記録によると、鑑真の乗った第二船は十一月二十一日には沖縄に着き、そこで船の修理や補給を終えたあと、翌月の十二月六日には沖縄を発ったという。意外なのはそのあとの行程で、途中奄美大島に寄港したにもかかわらず、翌日の十二月七日にはもう屋久島に着いたと記録されているのである。地図を見てみればわかるように沖縄から奄美諸島を経て屋久島に至る海路は四百キロ以上もあるから、その記録に誤りがなかったとすれば、奇跡的なまでに天候と風に恵まれ、よほどうまく黒潮や対馬海流に乗ることができたのだろう。たった一日で沖縄から奄美経由で屋久島まで航行したとすれば、毎時二十キロを超える速度で船は休むことなく走りつづけた計算になるからだ。地理的にみても一日くらいは奄美に停泊したはずだと考えるのが自然だから、もしかしたら記録のほうが間違っているのかもしれないが、いまとなっては確かめるすべもない。

屋久島に十日ほど滞在して風待ちをした船は、十二月十八日に屋久島を発ったが、出帆してほどなく四方がまったくわからぬほどに海が荒れ狂い、方向を失って遭難の危機にさらされる。だが、幸いなことに、十九日の日中になって山のような大波の間から本土の山の頂きらしいものを望むことができたらしい。たぶん、薩摩富士の異名をもつ開門岳か、そうでなければ同じく秀麗な山容をもつ野間岳の頂だったのだろう。なんとか現在位置を確認することができた船は、それからまる一日風浪に翻弄されたすえに、十二月二十日の昼頃、薩摩国阿多郡秋妻屋浦(坊津秋目浦)に遭難寸前の状態で着岸した。屋久島から坊津秋目までは直線距離で九十キロほどにすぎないから、それまでの順調な航海に較べ、この間の船旅はよほど厳しいものであったのだろう。

五十五歳のときに日本への渡航を要請されてから実に苦節十余年、坊津秋目に着いたときには鑑真はもう六十六歳になっていた。日本の土を踏んだときすでに失明していた鑑真は、「山川異域」の地である坊津の景観をその目でじかに見ることはできなかったに違いない。しかし、鑑真にはそれを補って余りある並外れた心眼が備わっていた。その心眼をもって、彼は坊津の情景やそこに住む人々の心の内をじっと見すえ、異国の地の大気のうごめきを鋭く読みとっていたことだろう。

旧暦の十二月二十日というと現在の一月中旬くらいであろうか。南国薩摩といえども、シベリア気団が張りだし北西のモンスーンが吹き荒れるこの季節は相当に寒い。中国大陸北部から東シナ海を越えて吹き込んでくる季節風の中に、不帰の決意で旅立った遠い故国の大地の息吹を鑑真は嗅ぎとっていたかもしれない。だが、そのいっぽうで、異郷の地に降り立った六十六歳の彼は、その同じ風の中に、真の仏法者のみの知覚しうる釈迦の慈眼と自らに課せられた使命の重さとを強く感じ取っていたに違いない。

阿倍仲麻呂があの歌を詠んだという満月の日からちょうど一月後の旧暦十二月十五日前後の頃、鑑真は屋久島に滞在していたわけだから、夜空には満月かそれに近い月が昇っていたことになる。また、坊津を発ち海路九州西岸を北上する頃にはいわゆる有明の月が未明の空高くに輝いていたはずである。たとえ北西の季節風は強くても、その間一度か二度くらいは鑑真の姿が異国の冬の月に照らし出されることもあったろう。まさにそれは、「風月同天」の語句そのままの世界であったと言ってよい。

鑑真が坊津にどのくらいの間滞在したかは不明であるが、船の修理や補給が終わるとすぐに大宰府に向けて出立したようである。この時代は、天候さえ安定しておれば陸路より海路のほうがはるかに安全かつ迅速だったから、当然海路が選ばれた。坊津を出た船は野間岬を回って薩摩半島沖を北上、甑島と本土との間を通って天草島西岸に達し、そこから天草島北端と島原半島南端の間の早崎瀬戸を抜け、島原半島東岸に沿って有明海に入った。

そして有明海の最奥にある現在の佐賀県久保田町付近の浜辺に着岸した。そのあとは陸路をとって十二月二十六日に大宰府に到着したようだから、鑑真一行は坊津秋目に入港してから六日ほどで大宰府に到ったことになる。

大宰府からは、博多津に出て再び船に乗り、海路瀬戸内海を抜けて難波津に着き、明くる年の二月四日に平城京に入ったということだから、大宰府に着いてから奈良まで一月余の行程であった。故国の揚州を発ってから平城京に到達するまでに三ヶ月半もの期間を要したわけである。
2000年3月15日

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