初期マセマティック放浪記より

69.坊 津

いまは往時の繁栄など信じられないくらいに静かな地方漁港に変わっているが、かつて薩摩の坊津は、筑前博多津、伊勢安濃津とともに日本三津と並び称されるほどに栄えた港であった。飛鳥時代から奈良時代にかけて、中国大陸を西方はるかに睨む坊津は、東シナ海を介しての中国各地や琉球諸島との交易の表玄関になっていたからである。時代が移って一時期の隆盛が終わったあとも、坊津一帯は倭寇の基地となり、またずっとのちの江戸時代にあっては、薩摩藩の密貿易の中継地および補給基地にもなっていた。坊津が良港とされたのは、中国大陸に直接面する地理的位置や琉球諸島沖で黒潮本流から分岐して北上する対馬海流がその沖合いを流れていたことなどのほかに、坊津のそなえもつ特殊な地形的構造があったからである。

一口に坊津というが、北側から順に、秋目浦、久志浦、泊浦、坊浦と、それぞれ複雑な形をした四つの入江がほぼ西に向かって並んでおり、それら全体を含めたものがいわゆる坊津なのである。極端な比喩を用いると、五本の指を広げたような地形の四つの指間に相当する部分がそれぞれ入江になっているようなものなのだ。しかも各々の入江の奥には船の停泊に適した二重、三重の小さな入江が形成されていて、外海の風浪から停泊船がしっかりと守られる地形になっている。満足な海図や羅針盤などない時代の、しかも現代の船に較べて極端に航行能力の劣る風まかせ浪まかせの木造小型船にとって、四つの浦のどれかに辿り着きさえすれば安全が保証される坊津は願ってもない良港であった。なかでも激しい風浪に翻弄され難破寸前になっている船などの漂着地としては、これほどに条件のよい場所はなかったことであろう。

坊津の中心地は四つの浦のなかでは小さめの泊浦や坊浦周辺にあるが、形状的には一番北側にある秋目浦がもっとも大きい。その秋目浦を形づくる大きな入江の奥まったところ にさらに小さな入江があって、いまではちょっとした船溜まりになっている。天平勝宝五年(753年)12月20日、現在の暦でいえば1月の中旬も終わりの頃、唐の高僧鑑真を乗せた一隻の遣唐使船が半ば漂着するようにして入港したのは、当時、薩摩国阿多郡秋妻屋浦と呼ばれた、現在の坊津町秋目のこの小さな船溜まりであった。そして、いま私が秋目浦一帯を眺めおろしている鑑真記念館前の駐車場は、鑑真一行が着岸した地点のすぐ上に位置していた。

記念館の右脇には「鑒真大和上○滄海遥来之地」(○部は「サンズイ」の右に「麦」をつけた特殊な字で、字源で調べてもみつからないが、「凌」という字と似たような意味をもつと推測される)という十二文字の彫り刻まれた大きな花崗岩の記念碑が建っていた。その文意は、たぶん、「鑑真大和上が大海を辛うじて乗り切り、はるばる到来した地点」というようなことなのだろう。

しばらくその記念碑を眺めたあとで、唐招提寺をイメージしたものらしい近代的なコンクリート造りの記念館にはいってみた。建立されてまだ間もないと思われる館内には、鑑真の生涯の足跡を伝える解説資料が年代順に展示されているほか、鑑真が来日するまでの経緯をビジュアルに伝えるジオラマや当時の遣唐使船の復原模型、付近の海中から引き上げられたという錨石などが並べられていた。

ちなみに述べておくと、錨石とは、現代の錨の先に似た木製の掛かりと組み合わせ、重りとして用いた大石のことである。鉄鉱石から大量に鉄を生産する技術のなかった当時は、砂鉄を原料にした鉄は入手困難な貴重品で、船舶用に鉄の錨をつくるなど考えられないことだった。たまたま館内には来客がなかったこともあって、短い時間ではあったが、記念館を管理しておられる野口寿子さんから展示資料についていろいろと補足説明を拝聴することもできた。

645年に大化の改新が行われ、701年に唐の律令制度を手本とする大宝律令が発布されるに至ると、急速に我が国の国家体制は整い、唐の都長安を模範にした新都平城京の造営に一段とが拍車がかかることになった。時の為政者たちが仏教に基づく治国を理想としたこともあって、ほどなく仏教は律令国家体制の維持に不可欠のものとなり、時代の流れに乗って空前絶後の発展を遂げていくことになる。

平城京のあちこちに大小の伽藍が建立され、東大寺大仏の造立も進んで、表面的には仏教の興隆がゆるぎなきものになったように見えはじめたものの、当時の我が国の仏教体系には一つだけ大きな難点があった。正規の仏教の厳格な戒律にのっとり授戒を行うことができる高僧が一人も存在していなかったのである。わかりやすく言えば、新たに仏僧になろうと志し修行を積む者に、仏僧として欠かせない学識や守るべき規律作法を正しく伝授し、最終的にその者を僧侶として認め任じることができるだけの資格をもつ高僧がいなかったのである。

そのため、我が国では自誓受戒による出家、すなわち、自分で誓願して仏僧になる方法がとられていたが、当然の結果として、本来なら僧侶になるだけの学識も人徳も資格もないものが勝手に僧侶となり、巷に横行するという有様であった。僧侶という身分が様々な課役逃れに利用されるようになったこともあって、朝廷は再三再四取締りを強化しようとしたようである。しかし、中国に渡り正規の授戒を受けて帰国、僧侶になった者はきわめて少なく、高位の僧を含め自誓受戒による出家をした者がほとんどの状況では、取締りに実効性を求めるのは無理であった。

「仏造って魂入れず」の諺を国家レベルで実践しているような異常事態を収拾するためには、唐から授戒の師としてふさわしい高僧を迎え、国内における正しい授戒の励行と戒律知識の普及を早急に行うことが必要であった。そのようなわけで、天平五年(七三三年)の遣唐使船には、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という二十代はじめの二人の青年僧が特別に乗り込むことになった。もちろん、入唐後の彼らの任務は、伝戒の師として仰げる高徳の僧を探し出し、朝廷にかわって日本への渡航を懇願することであった。

記録によると、唐に入った栄叡と普照は九年もの歳月をかけて師となるべき人物を求め東奔西走したらしい。経費とてばかにならないことだろうに、そのために九年もの年月をかけることが許されたということ自体、唯もう驚きだと言うほかない。現代の尺度では計り知れない時間感覚や価値観の存在が偲ばれてなんとも興味深い。派遣されたのが二十歳そこそこの青年僧であったというのも、艱難に耐えうる基礎体力や異国の環境に対する適応能力を考慮したうえでのことだったのだろう。安全マークで埋め尽くされた経路を伝って世界を旅する今日の我々とは大違いなのだ。現代においては、たとえどんなに知徳に長けていたとしても、二十歳そこそこの青年が国家の最高機関の特命を帯び、当代一、二の学識者を探しに他国に出向くなどということはとても考えられないことである。

入唐後九年が過ぎた天平十四年(七四二年)の十月、揚子江の下流域に位置する唐の大都市の一つ揚州において、彼らはついに理想の師となるべき人物を探し当てた。それこそが唐の大徳として世に名高い高僧の鑑真であった。いくらなんでも、ある日突然に鑑真の前に現れ、いきなり日本に渡来してほしいと願い出たとは思われないから、鑑真の門下に入って修行を積むかたわらあれこれと根回しを行い、渡航の依頼を懇願をする機会を窺っていたのであろう。現代風に言えば、これは国家レベルの極秘ヘッドハンティングだから、日本からの遣唐使たちをも交えた相当に周到なハンティング作戦が練られていたに相違ない。

「唐鑑真過海大師東征伝」などに残されされている彼らの嘆願の言を現代会話体になおすと、栄叡らはどうやら次ぎのような弁舌をもって鑑真を口説いたらしい。

「仏教の教えは遠の昔に日本に伝わってまいりましたが、その教えが好き勝手に解釈されて国中に広まるだけで、仏教本来の教えを正しく伝えることのできる人物が我が国には一人もいない有様です。昔、聖徳太子は、いまから二百年後に仏教は我が国で興隆をみるであろうと予言なさったのでありますが、いよいよその時が到来したようでございます。どうかお願いでございますから、この際ぜひとも我が国にお渡りくださり、真の仏教を説いてその一大興隆をはかるとともに、跡を継ぐべきすぐれた仏僧の育成と指導にお力をお貸しいただけませんでしょうか。ぜひとも私どもの心の師となってくださいませ!」

状況的にみて、どうにもできすぎた話だから、とてもそのまま信じるわけにはいかないが、渡唐の真意を懸命に訴えかける彼らの言葉を聞いていた鑑真は、

「伝え聞いているところによりますと、私たちの宗派天台宗の祖師であられる南岳恵思禅師は、お亡くなりになられたあと、日本の王子に生まれ変わって仏法を興隆し、衆生を救われたとのことです。また、日本の長屋王は、千着もの袈裟をつくって私たちに贈ってくださったのですが、それらの袈裟の一端には、山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁、という四句が刺繍されてもありました。私は、日本こそは真に仏教の興隆を願っている国だと思います。いま私の話を聴いていてくれるあなたがたのなかで、誰か日本に渡って真の仏法を伝えてくれるような人はありませんか」と並みいる弟子たちに問いかけたのだという。

漢文の先生などにはいい加減なことを書くなと叱られそうだが、山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁、の四句を私なりに創意訳してみると、およそ次ぎのようなことになると思われる。

たとえ山川の景観の異なる別々の世界であろうとも、それぞれの地を吹き渡る風や、それぞれの世界を照らす月影は、同じ天をめぐる共通の存在ではないか。仏の道を信じる者は、国やその立場を超えて一堂に会し、心を一つにして協力し合い、お互い同じこの世に生まれた縁を大切にしながら、共に手を結んで未来に向かって歩もうではないか。

もしも鑑真が語ったというこの話が事実だったとすれば、当時の日本人の国際感覚はどうしてなかなかのものである。もちろん、その頃の日本は後進国だったから、大陸文化に対する強い憧れが形を変えてあらわれただけのことかもしれないが、車座を組んで外に尻を向けて坐り、お互いの顔の見える輪の内側だけで話を進めるのが得意な現代の我々には、いささか学ぶべきところがなくもないようだ。

鑑真の問いかけに並みいる僧は皆黙り込んだままだったというが、ついに、祥彦という一人の修行僧が進み出て言った。

「日本は大変に遠いため、生きてその地に行き着くのは至難の業だと聞いております。果てしない大海原を渡らなければならないため、百人に一人さえも無事にその地に到着するのが難しいと申すではありませんか。ひとたび落命すれば、人として再びこの世に生を得ることは難しく、ましてや、この中国に生まれることなどもはや望むべくもないことでしょう。しかも、私どもはまだ修行中の身なのですから、ここにいる誰もがいまの師のお言葉に即応することができないのでございます」

すると、鑑真はその言葉を待っていたかのように、弟子の一同に向かって毅然としてこう言い放ったらしい。

「これはひとえに仏法を伝えるためなのです。お経のなかの教えにもあることですが、仏法を広めるには、自らの身命を惜しんではなりません。誰も私のかわりに行かないというのなら、私自身が行くことにしましょう」

こうして、唐においても並ぶ者がないといわれた戒律の大徳、鑑真の日本渡航が実現に向かって動き出したのだった。

実際の招聘にあたっては、こんな表向きの美談とは違って、当の鑑真を含めた周到な裏工作や秘密の渡航準備がなされたに違いない。この時代、唐の玄宗皇帝は高僧の国外流出を極力抑えようとして、厳しい規制を敷いていた。当時の高僧といえば学芸百般に通じた学者、たとえて言えば学際研究をもこなす現代のノーベル賞クラスの最先端研究者にも相当している。しかも高僧は行政上のバックボーンとしても不可欠の存在であったから、当然、出国は容易でなかった。鑑真クラスの頭脳流出は、繁栄の絶頂にあった大国の唐にとっても国家的損失だったとのである。

日本への渡航を密かに決意したものの、そんな鑑真を待ちうけていた苦難の数々は想像を絶するものであったようだ。しかし、鑑真は、失明しながらもそれらの艱難を克服し、ついに大和入国を実現した。その驚くべき意志力と不屈の執念は、やはり超人的なものだと思わざるをえない。
2000年2月16日

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