初期マセマティック放浪記より

68.昇天狸との遭遇

明るい朝の陽射しに促されて深い眠りから目覚めてみると、眼下には青い海原がおのれの存在を誇示すかのごとくきらめき広がっていた。かつて遣唐使を乗せた船が往来していた時代から数知れぬ人命をのみこんできた海である。一見穏やかにはみえるけれども、この東シナ海は荒れると怖い。右手には鎌の刃形に曲がってのびでる野間岬が遠望された。付け根のところから突端まで四キロほどはあろうかと思われるこの岬は全体が切り立った海食崖で取り囲まれていて、海側から近づくことは容易でない。その瘠せ尾根状の背稜部には、灯台のほかに、大きな三枚羽の風車をもつ風力発電塔が二基建っていた。風力発電塔のほうは近年設けられたものなのだろう。

以前に一度岬の先端にむかって稜線伝いに歩いたことがあるが、灯台に至るかなり手前から踏み跡もほとんどない細い藪道になり、次ぎから次ぎに現れる蜘蛛の巣を掻き分けながら前進した記憶がある。岬の中ほどに建つ灯台のところまではなんとか辿り着いたが、そこから先は鉈や鎌を使って深い藪を切り開き道をつけなければならない状況だったので、それ以上進むことを断念した。岬という地形はなんとも困ったしろもので、私みたいな僻地好みの旅人はすぐにその魔力にとりつかれ、地の果てる先には海しかないとわかっていても、どうしても一度は突端まで行ってみなければ気がすまない心境になってしまう。末端地形偏愛症候群とでも名づけるべきこの病的な心理状態はいったい何に起因するものなのだろう。

展望所をあとにして坊津方面へと走りはじめてまもなく、前方の路上中央に黒っぽい動物の死体らしいものが転がっているのを発見した。最初は犬かなにかだろう思ったが、近づいてみるとその姿形や毛並みは犬のそれとはまるで違う。車を降りてつぶさに観察してみると、なんとそれは野生の大きな狸の死骸だった。体に触ってみるとまだ温かい。すこしまえに頭部を車に轢かれたらしく、即死の状態だった。狸なりに苦労してここまで大きく育ったのだろうに、車という傍若無人な新米怪獣に一撃されて瞬時に落命するなんて、さぞかし無念なことだったろう。通行する車もほとんどないこの地で車にはねられて死ぬなんて、よほど運が悪かったとしか言いようがない。

黒くて丈夫そうな手足の爪を調べてみると、鋭く硬いその先端には土や何かの繊維らしいものがこびりついていた。まだかなり温もりの残る腹側の細く柔らかな体毛に較べ、背中側の毛は粗くてざらざらとしており、特有の弾力性をそなえていた。狸の毛は毛筆の穂先の素材に格好だとは聞いていたが、なるほどと頷けるものがある。そのまま道路の中央に放っておくのも可哀想だし、二重三重に車に轢かれたりしたら狸の霊だって浮かばれまい。せめて道路脇の草むらか林の中へと運んでやろうと思って、二本の後足をぐいと掴んで持ち上げると、ずしりとした重みが両手に伝わってきた。動かしはじめた途端にジューッという音をたてて体液が吹き出したことからしても、事故に遭遇してからまだ間もないことは明らかだった。

俗謡にあるような象徴物がしかるべきところに見当たらないからこの狸は雌なのだろうかとか、昔の人は狸汁を食べたというがいったいこれをどうやって調理したのだろうかとか、妙なことをあれこれ考えながらも、その大狸の遺骸を林の脇まで運び終えた。そして、野の芝草をお花がわりに献げ、手を合わせて無事に土に還ることができるようにと祈ってやった。相手が生きた狸だったら、後日葉っぱで作った贋小判くらいは携えて狸の恩返し(?)にでもやってくるのを期待することもできたかもしれないが、昇天した狸が相手ではそれも無理というものだった。

昨夜は暗かったので気がつかなかったが、しばらく走っているうちに、道路のあちこちに「不審な船や人物を見かけたらすぐに通報を」と記された看板が立っているのが目にとまった。そして、右手前方に坊津秋目浦の一角を形成する沖秋目島(枇榔島)の島影が大きく迫ってくる頃になって、そういえば、大規模な密輸組織の絡む大量の覚醒剤取引の現場としてマスメディアなどで大き報道されたのは、たしかこのあたりの沖合い海上のことだったなあとなにげなく考えた。過疎地域だから格好のターゲットポイントにされてもおかしくない。中国や東南アジア、朝鮮半島方面からの密入国者などはなかなか跡を絶たないようであるが、地形や海流の関係からしても、彼らを乗せた船がこの一帯に近づき接岸を試みたりするだろうことは十分に予想される。

そこまで考えたとき、待てよと急にあることに思い当たった。今朝方目覚めたとき、私の車がある展望所から四、五十メートル離れた路肩に中年の男が乗った地元の車らしい乗用車が一台駐まっていた。よくよく思い返してみると、車中の男はさりげなくこひらの様子を窺っている感じだった。休憩でもしているのかなと思った程度で、こちらは何の気にもかけていなかったのだが、私の車が動き出すのと前後してその車も動きはじめ、反対方向へと走り去っていった。もうおわかりだろうが、この時に至ってようやく、私は、もしかしたら、挙動不審者として監視されていたのかもしれないと気づいたのである。

考えてみれば、多摩ナンバーをつけたワゴン車が季節はずれの深夜にこんな辺鄙な場所にやってきて夜を明かしているなんて、地元の人々の感覚からすればなんとも不自然なことに違いない。たとえ観光のために東京からやってき車だとしても、普通はどこかに宿をとって泊まるのが自然である。しかも、昨夜眠りにつく前の自分の行動を思い起こしてみると、懐中電灯を振り回して周辺を照らし出したり、海に向かって光を送ってみたりもしていた。あまり見かけないナンバーの車に乗った得体の知れない人物が何か怪しげな行動をしている、と誤解されても仕方のない状況だったのだ。もしそうだとすれば、車のナンバーをチェックしたうえ、あとで身元の確認をするくらいのことはなされたかも知れない。

街中か僻地かを問わず、変な時間に変なところに現れて車中泊したり周辺を散策したりする悪い癖がもとで、警察官に免許証の提示を求められたり職務質問を受けたりしたのは一度や二度のことではない。そんなとき、「なぜこんな時間にこんなところにいるのですか?」などと訊問されると、説明に困ってしまうことが少なくない。未知の場所を訪ねてみたいという衝動に駆られ、必然的な理由などまるでないままに旅することが多いから、相手を納得させることが難しいのだ。人間というものはどうしても自分の内的規範にそって思考し行動するものだから、警察官のそんな対応そのものを責めるわけにはいかない。面倒だからたいていは「旅の取材です」と答えることにしているが、時と場合によっては、訊問にやってきた警官と私の間で禅問答顔負けの珍問答が繰り広げられることにもなる。

もちろん、そんな時でも極力鄭重に応対することにはしている。だが、若者ならともかく、それなりの歳の人間がオートキャンプ場でもないところで車中泊などをしていると、どうしても気になるものらしい。そのような場合、免許証の提示を求められれば提示義務があるから当然それに応じるが、たまには、こちらの了解もなく警察用携帯無線で免許証番号を手掛かりにしてこちらの身元の詳細を確認されそうになることがある。多分そんな情報検索システムがあるのだろう。

こちらには別段やましいことなどないのだが、不法行為をしているわけでもないのにそこまで調べられるのは不愉快だし、越権行為でもあると考えられるから、そんなときは毅然として抗議し、すぐに免許証を返してもらうことにしている。また、後日のために相手の名前と所属署、所属部門を逆に質問することもしている。私の逆の問いかけに何も答えず、途中で訊問をやめてそそくさと立ち去って行った警察官なども少なくはない。なかには、そんな必要はないと開き直った警察官もあった。

もちろん、そんな場合でも、私の車のナンバーくらいはチェックされているに違いない。どうせあとになって所有者の確認などがなされているのだろうから、不審車のナンバー照会回数がカウントされるシステムになっているようだったら、間違いなく私などは照会回数過多人物(?)のリストに含まれていることだろう。もっとも、なかにはこちらの状況を即座に理解し、懇切に付近の旅の情報などを教えてくれる人情味豊かな警察官もあったりするから、一概に云々するわけにはいかないことだけは確かである。

不審船に注意を促す立看板がきっかけで、そんなことをあれこれと考えながら走るうちに車はやがて坊津町秋目の集落に差しかかった。天平年間の冬のある日、想像を絶する苦難の末に唐の高僧鑑真が蘇州黄泗浦から東シナ海を越えてはるばる来邦、その第一歩を印した地点である。秋目の集落をすこし過ぎたところにある鑑真記念館の小広い駐車場で車から降りた私は、青潮を満々と湛えて輝き静まる眼下の入江にしばし憑かれたように見入っていた。
2000年2月9日

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