初期マセマティック放浪記より

66.金の延べ棒を掴んだ話

かつては黄金の国として世界中に名を馳せた日本だが、最近ではその金もほとんど採れなくなった。いまでもなお金鉱を採掘中の金鉱山をもつ都道府県がいったい幾つくらいあるかご存知だろうか。新潟県の佐渡、静岡県の土肥、さらには東北各地や北海道など、かつての金の産地を思い浮かべる人も多かろうが、残念ながらそれらの地方で金が採れたのはもうずいぶんと昔の話である。

意外に思われるかもしれないが、国内で現在も金を産出している鉱山があるのは鹿児島県だけである。なんと、いま国内で生産されている金は百パーセント鹿児島県産なのだ。金含有率の高い良質の金鉱の採れる菱刈金山をはじめとして、鹿児島県には現役の金鉱山がまだ数カ所も残っている。

県内のいたるところに温泉が涌き出ていることからもわかるように、全域が火山地形の標本のような鹿児島県には、金銀などの稀少鉱物の採れる熱水鉱床が少なくない。火山地域特有のシラス土壌に覆われて土地がやせ、風水害も多く、米作に不向きだった薩摩藩の財政を支えたのは、密貿易と領内から産する金銀であったといわれている。ただ、幕府の直轄鉱山だった佐渡や土肥などの金山と違い、外様大名島津の領する薩摩の金山は、藩の存亡に深く関わることなどもあって、その情報が厳しく管理されていた。そのため、一般の人々にはそれらの存在すらほとんど知られていなかったのである。明治以降になってもそういった鉱山の存在を知る人がきわめて少なかったのは、多かれ少なかれそんな藩政時代の情報管理の影響があってのことだったのかもしれない。

私が育った甑島と九州本土との間を結ぶフェリーの母港は串木野市にあるが、この串木野市街の北側山地にも三井系の鉱山会社が経営する金山があって、かつては良質の金鉱を相当量産出していた。いまも鉱山の一部では金鉱の採掘が行われているというが、近年採掘量は大幅に減少し、活況を呈した昔の金鉱山の面影はもうなくなってしまっているようだ。

往時の繁栄こそ終わったが、この串木野金山の地底深くには、広範囲にわたって旧坑道が網の目のように延び広がり、その名残を留めている。そして、現在ではその一部が「ゴールドパーク串木野」という鉱山博物館を兼ねた見学施設となり、一般に公開もされている。串木野の市街を通りかかったとき、たまたま時間があったので、野次馬根性の赴くままに私はそのゴールドパークを訪ねてみることにした。古来、人の心を魅了し幻惑し続けてきたという黄金族の故郷を、話しのタネにちょっくら覗いてやろうという魂胆である。これから先も黄金一族と縁を結ぶことなど到底考えられないその日暮らしの身にとっては、まあそれなりによい機会ではあったのかもしれない。

入場料を払ってパーク内に入るとすぐに、地下坑道の奥へと向かう数両編成のマインシャトル号というトロッコ列車に乗せられた。もちろん、以前、実際にこの構内で事業用に使用されていたものを見学者用に整備したものである。鉱山労働者たちがトロッコに揺られながら、岩のごつごつした暗い坑道を通って地底の作業現場へと向かう雰囲気を疑似体験してもらおうというわけなのだ。貸し切り状態のトロッコ列車は、轟々という音を坑道いっぱいに響かせながら、斜坑の奥にある地下のステーションに向かって1キロほどの距離を下っていった。

地下ステーションでトロッコ列車を降りると、あとは案内標識にしたがって旧坑道内を徒歩で一巡りできるようになっていた。しばらく坑道を進むとまず大型の掘進機が置かれているところに出た。発破によって砕かれた鉱石を積み込みながら、それと同時に奥へと鉱石層を掘り進むというなんとも器用な掘削運搬機械で、ロッカーショベル車、グランビー鉱車、バッテリー電車の三つの特殊車両が結合してできている。一昔前の漫画などに登場する巨大ロボットをも連想させるどこかユーモラスなその動きに、しばし私は見惚れてしまった。また、掘進機からそう離れていないところには、百馬力の高圧モーターと鋼鉄ワイヤーによって大斜坑ぞいに人車や鉱石運搬車を巻き上げる巨大なウインチなどもあった。大斜坑とは、深い地下の坑内からさらに地底に向かう金鉱脈ぞいに、傾斜角35度、長さ250mにわたって掘られた大坑道で、採掘作業員を運ぶ22人乗りの人車やスキップと呼ばれる鉱石運搬車が、かつてはその坑道斜面伝いにいそがしく上下していたらしい。
  坑道をさらに奥に進んでいくと、天井や左右の石英質の壁面全体がまるで金の粒子を埋め込まれているかのようにきらきらと輝いているところに出た。これがみな金鉱石か……こりゃ凄いやと初めは思ったのだが、しばらくするうちにどうもおかしいと気がついた。それにしては黄金色の粒子がちょっと大きすぎるようだし、それら粒子の散在密度も高すぎる感じなのだ。どうやら一帯の坑道壁面に含まれるそれら無数の金色の粒子は、特殊な雲母系の鉱物であるらしかった。

それで想い出したのだが、秩父山系あたりの源流地帯の沢奥に入ると、川床の砂が一面きらきらと黄金色に輝いているところがある。素人が見たら無数の砂金粒子が川砂に混ざっているように見えるしろものだから、空き缶に一、二杯ほど砂ごと持ち返って、「これは秩父のある山奥の秘密の場所で発見採取した砂金なんだよ」と真顔でからかうと、たいていはころっと騙されてしまう。一目見て贋物だと見破れる人は、相当に鉱物に詳しい人だけだ。最近も奥多摩一ノ瀬高原奥のとある沢からその贋砂金入りの砂を持ち返って素知らぬ顔で学生たちに見せ、いっぱい食わせたことがあったばかりだった。

こともあろうに、私の立つ坑道の岩壁面できらきらと美しく輝いているのは、あの贋砂金の総元締めとでもいうべき鉱物群だったのだ。もともとは比重の軽い薄い白黄色半透明の鉱物だが、光の反射率の関係で金色に輝いて見えるのだ。このような岩石が長い時間をかけて風化し、やがて砂状になって川床や川岸に堆積すると、秩父や多摩の山奥の沢にあるような贋砂金床ができあがるというわけだ。

本物の金鉱床サンプルは贋金鉱のあるところからさらに奥へと進んだところにあった。もちろん、その周辺だけ意図的に採掘し残しておいたものだ。一口に金鉱とはいってもいろいろな種類のものがあるらしいのだが、この串木野金山の場合、石英や方解石の白い岩盤のあちこちに黒っぽい筋が縞模様をなして走っているのが金鉱脈なのだという。意外なことに、ほんとうにこれが金鉱?……と問い返したくなるほどに地味な色をしている。黒っぽく見えるのは銀がかなり混入しているからなのだろう。懐中電灯の光で長く延びる黒っぽい葉脈部を照らし出してみると、たしかにごく小さな黄金色の点が無数にきらめいているのが識別できた。贋金鉱の粒子の何十分の一、何百分の一くらいしかない微粒子である。

高品位の金鉱石でも1トンあたりせいぜい数グラム程度の金しか採れないというから、実際の金鉱脈とはまあそんなものに違いない。これらの金鉱脈の岩石が気の遠くなるような時間をかけて小さな砂粒にまで風化し、やがて比重の大きい金の微粒子が砂中の底部に沈んで互いに結合、大きめの粒子に成長したのがいわゆる天然砂金というわけなのだ。砂金砂金と気軽に言うが、そこにいたるまでには長いながい時間にわたる自然の精錬プロセスを経てきているわけである。

さらに坑道を進むと、角張ったロボット車に鋭く巨大な鋼鉄製の角をはやしたような形の、モービルジャンボという自走式削岩機が現れた。巨大化したメカ昆虫のイメージをもつこのマシンの胴体は前部と後部の二つに分かれ、前後両部を繋ぐ中央部は細くくびれている。アリやハチなどの胴体を想像してもらえばよい。結合部にあるくびれのおかげでモービルジャンボは後部の位置を変えないまま、前部の向きだけを変えて角の先端を上下左右に振ることができるわけだ。もちろん岩壁に向かう角の先はラセン溝をもつ回転式削岩機になっていて、掘り開けた孔に爆薬を詰めて岩盤を爆破する。そのほか、お狭い坑内でも動きやすいように車幅を細くし、曲がった坑道にも柔軟に対応できるように工夫したロードホールダンプという鉱石運搬車の構造なども興味深かった。こういった特殊マシンを開発した技術者たちは、きっと昆虫や動物の動きからその構造のヒントをもらったのだろう。

発破擬似体験ポイント、実物の金銀鉱脈層と掘削した金鉱がそのまま展示されている採掘切羽現場の紹介コーナー、その奥600メートルのところでは現在も金鉱採掘中という坑道口、さらには、サンダーホールという直径2.2メートル、深さ120メートルの縦坑の覗き口などを次々にめぐったあと、「黄金のピラミッド」なる展示物のそばに出た。明治39年から現在までに採掘された金は55トン、一本12.5kgのインゴット、いわゆる金の延べ棒に換算すると4400本分になるという。4400本分の模擬インゴットを造り、それをピラミッド状に積んで展示してあったのだが、人間とは勝手なもので、本物でないとわかってしまうと、どうも真剣になって眺める気がしない。ふーんという感じでその子供騙しみたいな黄金のピラミッドの前を通りすぎてしまった。

トロッコ列車マインシャトル号の地下発着ステーションに戻るすこし手前には、地底イベントホールとかいうオープンスペースがあって、ツタンカーメン王の黄金のマスクの複製など、いくつかの歴史上有名な黄金遺物の複製品が展示されていた。一通り眺めたかぎりでは、まあそれなりによくできた複製だし、素材のほうも本物の金を相当量は用いてはあるらしいのだが、いくら黄金に関係があるからとはいっても、それらの複製物をこんな地底ホールで展示するのは少々場違いなようにも思われてならなかった。まあそれなりの事情もあってのことなのだろうから、部外者の私などがあれこれ言ってみても仕方のないことではあったのだったけれども……。

地下の見学コースをめぐり終え、下車側とは反対側にある地下ステーションの乗り場に出ると、なんと、これ見よがしにキンキラキンに身を固めた仏様らしきものが鎮座しておわしますではないか。ガイドマップの解説によると、「黄金観音」様であらせられるのだそうで、その足元を取り巻く小さな池のなかにはおきまりのように大量のお賽銭が放り込まれている。全身これ黄金の化身みたいな観音様に、黄金の輝きとは無縁の低額硬貨などをいまさら差し上げてみたところでどれだけの御利益があるのだろう、どうせならユニセフ募金にでも回したほうがよほど御利益があるのではと、意地悪なことを思ったりもした。「ほんとうに困っている者は、お賽銭を献げるかわりに黄金の身体の一部を削り取って持ち去ってもよい、それが菩薩というこの身の慈悲というものです……」とかなんとか、オスカー・ワイルドの童話の主人公「幸福の王子」ばりの格好いいセリフを吐いてくれるなら話はわかるが、そんなことをしたら、金ぴか観音様のお肌の下の実体が知れて、はなはだ都合が悪いのかも知れない。

再びマインシャトル号に乗り込んで地上ステーションに戻り、順路案内にしたがって進むと、金鉱山関係の歴史および技術資料などが展示されている小博物館風の建物に出た。串木野金山の地下坑道網を示す立体模型などもあったが、それを見てみると、かなり深く広いと思った見学コースが、浅い坑道部分に属するごく一部の領域であることがよくわかった。

ここの展示物の中でとくに印象に残ったものが二つあったが、その一つは金をも溶かす王水という魔法の水だった。金や白金は塩酸にも熱濃硫酸にも硝酸にもおかされないが、濃硝酸と濃塩酸とを一定の割合で混合した王水と呼ばれる液体にだけは溶解する。遠い昔、化学の授業で教わってそんなものがあるらしいということだけは知っていた。だが、本物の金をわざわざ溶かす実験をやってみせてくれるような酔狂な化学の先生がそうそういるはずもないから、これまで金を溶かした王水の実物など見たこともなかった。

昔は金鉱石から金を採取する作業には相当な苦労がともなったようで、かなり含有量が高く、含まれる金の粒子に一定以上の大きさがないと金の成分だけを分離するのは困難であったらしい。しかし、金を溶解することのできる王水が登場してからは、含有率が低く粒子もきわめて細かい金鉱石からでも金を分離採取することができるようになった。金鉱石を粉末状に粉砕してからいったん水に溶かして沈殿させる。そして金を多量に含む比重の重い底部の砂泥を取り出して王水に入れると金成分が、金塩化水素酸という特殊な錯イオンとなって溶け出だす。それに亜鉛を加えると、イオン化傾向の大きな亜鉛が亜鉛イオンとなって溶け出し、そのためイオン状態を保てなくなった金イオンが純度の高い金となって析出沈殿する。あとは、それを採取すればよい。

金を溶解した王水が展示されていたが、なんと文字通りの「黄金色の水」で、高級なスコッチの琥珀色の輝きをもっと金色に近づけたような、どこか荘重で神秘的な色を帯びていた。その色が、王水そのものの色なのか、金を溶解したときに生じる各種イオンの色の混合色なのか、それとも実際に金イオンの色なのかは判らなかったが、なかなかに綺麗なものだった。たいていの金属イオンの場合には、もともとの金属の色とその金属がイオンとなって溶出したときの液体の色とは相当に違っているのが普通なので、もしもそれが金イオンがらみの色だとすれば、なんとも意外というしかない。ただ、金を溶解する前の王水中には塩化ニトロシル(NOCl)という黄赤色の気体が溶けた状態で存在しているらしいから、私が目にした美しい色の演出の主は、実はこの物質のほうだったのかもしれない。

いま一つ私が興味を惹かれたのは、このゴールドパークの目玉とでもいうべき、金の延べ棒の展示コーナーだった。四方が厚く丈夫そうなガラス張りになっている展示台の上に、板付きカマボコをちょっと大きくしたような形の純金の延べ棒が一本だけ、平らな面を下にして置かれている。正面のガラスの下部には、ちょうど人間が片手を腕先くらいまで差し込むことのできる円い穴が開いていて、そこから手を突っ込んで中の金の延べ棒に触ったり、それを掴んだりできるようになっていた。あわよくばぐいと掴んでそばに引き寄せて……などとよからぬ期待をしながら、金の延べ棒初掴みに挑んでみたが、なんと、持ち上げようとしても相手はピクリともしてくれない。

片腕を伸ばし、手の甲を上にしてのチャレンジだから、筋肉の状態とテコの原理からして力がはいりずらいということもあるけれど、それにしても重たい。懸命に力むと、かろうじて半回転ほど横に転がすことはできたが、その場合でも元の状態に戻すとき指先を延べ棒の平らな底部ではさまれないように注意しなければならなかった。頭を冷やして考えてみると、大きめの板カマボコほどの金の延べ棒は一本で12.5kgほどもある。数値を眺めただけではその重さはピンとこないが、水2リットル入りペットボトル6本分以上の重量があるのだから、簡単に持ち上がるわけがない。かくして我が一攫千金の夢は儚くも潰え去った。映画や漫画などには、強盗などが金の延べ棒を何十本も大きな鞄や袋に詰め、軽々と運び出す場面などがあるが、現実にはそんなことなど不可能である。なにせ10本で125kgもあるというのだから……。

ゴールドパークをあとにしようとしているとき、あることを突然に思い出した。すっかり忘れていたが、かつて私は手のひらにのるくらいの小さな石英質の岩片をもっていた。小学生の頃、甑島のとある高台の畑に祖父について芋掘りに出かけ、その畑の片隅で陽光を浴びて白く輝くその岩のかけらを見つけた。よく見ると黒っぽい筋があちこちに走っていて、それらの筋の近辺にはキラキラと金色に輝く小さな粒々が無数に点在しているのが見えた。それが何なのかはよくわからなかったが、綺麗な岩片なので家に持ち返って長い間とっておいた。高校に通うため、島を離れて鹿児島市に出たときに家に置いてきてしまい、その家もその数年後には解体されてなくなったので、もうその岩片の行方はわからなくなってしまったが、いま思うと、どうもあれは金銀鉱のかけらだったらしいのだ。ゴールドパークの資料室に展示されていた石英質の金銀鉱と色艶ともにそっくりだったからである。

考えてみると、甑島は海をはさんで本土と30キロほど離れてはいるが、串木野、芹ヶ野、菱刈といった金山のある地域とそう遠くない。そうだとすれば、地質学的にみてそれらの地域の地層と同質の地層が存在していてもおかしくない。あの岩片を拾った畑のあたりは、過疎化にともなう農業の衰退ですっかり荒地に変貌してしまっているが、場所だけははっきりと記憶に残っている。ちゃんと探せば、あの岩片の含まれていた地層が見つかるかもしれない。そうなれば一攫千金の夢が実現しないともかぎらない。こりゃ、下手なもの書きなんかやってるより、この際、山師にでも転身したほうが賢明かもしれないな……遠い少年の日の記憶を手繰る私の脳裏を一瞬そんな思いがよぎっていった。
2000年1月26日

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