初期マセマティック放浪記より

62.生月島の古式捕鯨

翌日生月島を離れる前に、ちょっとだけ生月町の博物館「島の館」に立ち寄っていこうかと思い立った。せっかく生月島までやってきたのだから、その歴史と民俗について多少とも知っておきたいと考えたからである。あいにくの雨模様とあって、西海国立公園の景観を楽しむにはいまひとつの状況だということもあった。しかし、そんな軽い気持ちで訪ねた島の館は、なかなかに見ごたえのある博物館だった。

古式捕鯨法のいまに伝わる土地といえば和歌山県の太地が名高い。そちらのほうは私も過去に一、二度訪ね、その地方の伝統的な鯨漁の展示資料を目にしたことがある。だが、九州育ちであるにもかかわらず、西海一帯から玄界灘にかけての古式捕鯨についてはほとんど知識を持っていなかった。昔は東支那海から日本海にかけてたくさんの鯨が生息していて、一部地域の漁民たちがそれを捕っていたというくらいのことは聞いていたが、その詳細についてとくに強い関心を抱くようなこともなかった。だから、そんな昔の鯨捕りの様子をつぶさに伝える貴重な資料にこの島でめぐりあえるとは考えてもいなかったのだ。

島の館に入館してすぐ目にとまったのは、かつて「勇魚(いさな)漁」とも呼ばれていた伝統的な鯨漁法についての素晴らしい展示資料だった。勇魚とはもちろん鯨のことである。たちまちその興味深い展示物の虜になってしまった私は、時の経つのも忘れて個々の資料を一つひとつ食い入るように見てまわった。また、詳細な解説文を一語一語確認するように読んでもみた。

かつて日本海一帯に多数生息してた鯨の群は、冬になると対馬海峡、または玄海灘から壱岐水道周辺を経て東支那海方面へと南下し、夏になると逆コースをたどって東支那海から日本海方面へと北上した。餌を求めながら、東支那海と日本海との間を季節に応じて行き来していたわけである。前者は「上り鯨」、後者は「下り鯨」と呼ばれていた。

玄海灘から壱岐水道を経て五島列島周辺へ抜けるかその逆ルートをとる鯨の群は、その海域にある島々と九州本土との地理的関係などもあって、一定の狭い水路を通らざるをえない。必然的に鯨の回遊ルートと回遊水域は大きく制限されることになるから、その一帯は絶好の捕鯨場となる。なかでも生月島と平戸島ならびにその近隣諸島の周辺水域は、五島列島周辺と並ぶ鯨の回遊路の要衝にあたっていた。だから、江戸時代、生月島が鯨漁の中心地の一つになったのは自然のなちゆきだったのだ。

紀州の太地あたりで鯨捕りをやっていた突き組が十七世紀初頭にはるばる西海一帯にまで進出してきたのが契機となって、この周辺に突き捕り式捕鯨が広まっていったらしい。やがて、益富家という一族は、生月島をはじめとする西海各地に鯨捕りと解体処理、さらには鯨肉や鯨油その他の鯨製品販売を一手に営む「鯨組」を組織し、莫大な利益を上げた。平戸藩の財政にも多大の貢献があったことは言うまでもない。五島や壱岐などに進出した鯨組の捕獲分も合わせてのことではあるが、益富家の記録に残っているだけでも百四十年間で鯨捕獲数約二万頭、総収益は三百万両を超えたという。年平均一四〇頭の捕獲高、貨幣に換算すると二万両余の収益があったことになる。

江戸時代の画家で西遊日記の著者でもある司馬江漢などは、はるばる生月島を訪ねて長期にわたって逗留、自らが見聞した当時の捕鯨の様子や島の風俗などを克明に描写した。それら大量の絵図や記録文は現在も残っており、その貴重な絵図原本の一部や拡大摸写図などが館内にはふんだんに展示されている。それらの資料をじっと眺めるうちに、まるで自分自身が当時の鯨漁に立ち会っているような錯覚に陥る有様だった。

鯨組は驚くほど高度に組織化された分業体制を敷いており、組頭の益富家を頂点にして、実際に鯨を捕る「沖場」と、捕った鯨を解体処理して販売したり捕鯨装備を補給調達したりする「納屋場」とに大別されていた。そして、沖場組織も納屋場組織もさらに細かく、二次、三次の下部組織に分けられていた。たとえば、沖場は見張り組や漁組に、また納屋場は勘定部門、解体加工組、油屋や魚肉屋などの各種店舗組織、さらには鍛冶屋や網屋などの捕鯨用諸道具の製作補給組織などに分かれているという具合だった。その全体の構成と運営形態は現代企業顔負けのものである。

実際の突き捕り捕鯨の様相は壮絶なものであったらしい。沖場の見張り組の管轄する「山見」という山上の見張り小屋の番人が鯨の群を発見すると、旗幟や狼煙などで群の位置や鯨の種類、頭数などを漁組に知らせる。食事中も海面から目を離してはいけない山見小屋での見張りの仕事は想像以上に大変だったらしい。早朝から日没まで、尻から泡が吹くほどに同じ場所に座ったままじっと同じ海域を見つめていなければならないし、夜になって宿場に戻ってもも、翌日の仕事に差し支えるから酒はつつしみ夜更かしは避けねばならない。茫漠とした海原を一日中見ていると目が疲れてちらついてくるから、山見小屋の海に面した羽目板のうちの一枚だけをはずし、そこから海面を見る工夫などもされていた。

山見小屋の見張りから知らせを受けた漁組は十隻ほどの船団を組んで鯨の群の回遊路に先回りし、めぼしい鯨を船団で取り囲んだ。船団の個々の船にはそれぞれの持ち場と役割が与えられており、勢子たちは経験を積んだ頭の指揮のもと組織的かつ機能的に行動したという。まず、大きめの和船を二隻横木で繋いだ持双船という一種の双胴船と何隻かの勢子船が鯨のうしろにつけ、曳き綱のついた鉄製の「萬銛(よろずもり)」という太い銛を鯨の背中に打ち込む。銛を打ち込まれた鯨は船を引っ張ったまま、必死に泳いだり潜ったりしながら逃げ惑う。かつて実際に使われた萬銛も展示されていたが、太い鉄製銛の胴部はほぼ直角に大きく曲がっており、どんなに大きな力が加わったかを如実に物語っていた。

次ぎに、鯨がかなり弱ってきたところを見計らって、鯨の両脇を囲む勢子船から、昔の薙刀(なぎなた)を一回り大きくしたような形の「羽指し剣」が何本も打ち込まれる。鯨の背中に上方から突き立つことを狙って放物線を描くように投げられたという羽指し剣の柄の端には、やはり丈夫な曳き綱がついていた。萬銛と違ってこの羽指し剣には掛かりがついていない。その訳は、鯨の背中に刺さった剣を曳き綱を引っ張って回収し、その剣を再度打ち込むためだった。上方から背中に突き刺さった剣が横方向に働く綱の力で引き抜かれるごとに鯨の身体は深々と切り刻まれる。四方から羽指し剣の容赦ない攻撃を繰り返しうけるうちに、勇魚の異名をもつさしもの鯨も全身に深手を負いその泳力を失ってくる。

そこを見計らって、刃刺(はさし)という屈強で泳ぎや潜りが達者な男どもが大型包丁のようなものをくわえて命懸けで鯨に近づき、鯨の背や頭によじ登って急所を突き刺す。最後は鯨のいちばんの急所、鼻(呼吸孔)を切ってとどめを刺したという。この勇猛かつ壮絶な鯨漁においては、激しく揺れ動く手漕ぎの和船で必死に暴れ狂う鯨に近づき、無数の鋭利な刃物で獲物に立ち向かうだけに、当然、負傷者や死者も多数出た。大変な危険をともなう仕事だけに、実際に鯨を捕る漁組の組員には一種の能力主義が敷かれており、腕のよい刃刺や船頭、舵手などは国内各地からスカウトされ、応分の待遇が与えられてもいたようだ。同じ組の刃刺でも、能力と業績次第で四番船から三番船へ、あるいは二番船から一番船へといったように格上げされるようになっていた。能力を競うシステムになっていたわけである。

一六七七年、紀州太地の太地角右衛門頼治が網捕り式捕鯨を考案すると、それから十年たらずでその捕鯨法が西海一帯にも広まり、それまでの単純な突き捕り式に比べて捕鯨効率と安全性は飛躍的に高まった。網捕り式捕鯨は突き捕り式捕鯨の改良型ともいうべき捕鯨法で、大きな網で文字通り鯨を生け捕るわけではない。鯨の進行方向に鯨の頭部がすっぽりとはいるような円錐型に近い芋網を仕掛け、それによって鯨の動きを封じておいてから、従来と同じやり方で突き捕るのである。網で頭部を押さえられた鯨はパニックを起こし方向感覚を失ってしまうえに、大きな網とそれに連なる何艘もの船を引きずることになるから、思うようには動きがとれなくなり、深く潜ることもできなくなる。それを突き捕り方式で狙うわけだ。刃刺たちは網を手掛かり足掛かりにしてより容易に鯨に近づき、その背中によじ登ることができるようにもなった。

初期の頃には、陸地沿いをゆっくりと回遊するために突き捕りに適したセミクジラが多く捕られたらしい。セミクジラには、もともと「背美鯨」または「勢美鯨」という字が当てられていたことを、私はここの資料で初めて知った。蝉のような小型な鯨、あるいはどことなく蝉に似た形をしている鯨という意味でセミクジラと呼ぶのかと思っていたが、どうやら、「泳ぐときの背中のラインが美しい鯨」あるいは「泳ぐ姿が威勢よく美しい鯨」といった意味を込めてつけられた名前らしいのだ。

捕りすぎたために背美鯨が減ってくると、こんどは沖をよりはやい速度で泳ぐ座頭鯨や長須鯨などの大型鯨が狙われるようになった。網捕り式捕鯨はそれらの大型鯨を捕るのにも大いに威力を発揮したらしい。ただ、肉質や鯨油は背美鯨が一番とされていたようで、当時「本魚」とも呼ばれた背美鯨は、一頭で座頭鯨や長須鯨二頭分の価値があったのだそうだ。座頭鯨などには、もともとは「雑頭鯨」、すなわち、「勘定には入らない、どうでもいい鯨」とでもいったような意味の呼称が与えられていたともいう。

ときにだが、いまの時代から考えるとかなり酷い捕獲方法が行われることもあった。親子連れで泳いでいる鯨の子鯨をまず捕らえる。子鯨を傷つけると母鯨はそこから離れない。父鯨はその場を離れていくけれども、母鯨のほうはいったん遠ざかってもまたその場に戻ってくるのだという。子鯨を案じてその周りを回遊し最後まで離れないその母鯨を次ぎに狙い捕獲してしまう。鯨の母性愛を利用したこの捕鯨法などは、現代の社会通念からすると残酷で非情このうえないものであった。

ただ、こういった過去の問題の善悪を考える場合には、単純に現代の尺度を持ち込んでその是非を判断してはならない。過去の事象に想像をめぐらす時には、できるかぎり視点を過去の時空に移し、たとえ限界はあってもその時代に身を置いたつもりで現在の時空を逆円錐状に展望する必要がある。現代のように豊富な食糧と食材に恵まれず、油脂資源も容易には手に入らなかった当時の人々にとっては、鯨は必要不可欠な生存の糧であった。

また、捕鯨技術も装備も現代の技術や装備とくらべるときわめて原始的であった。船は手漕ぎの櫓船で速度も遅く、小さくて安定性も悪いから、潮の流れが不安定だったり天候が荒れ模様だったりして波が高いと、操船自体も容易でなかった。まして、そんな状況のなかで仕留めようとした鯨に暴れられたら、底の浅い和船などはひとたまりもなかっただろうと思われる。遊泳速度のはやい鯨を追いかけることは至難の業でもあったろう。のちに我が国にも伝来した近代的な捕鯨銃の銛とは異なり、当時の銛や剣の威力には限界があったから、短時間で鯨を仕留めることは不可能でもあったに違いない。

そんな限られた状況のもとで確実に鯨を仕留めるには、現代の観点からすれば残酷とも思える捕鯨法に頼ることもやむを得なかったのだ。考えようによっては、キャッチャーボートと捕鯨銃を用いて紀伊や西海の古式捕鯨とは比較にならぬほどの数の鯨をとりまくった近代捕鯨のほうが、はるかに残酷だったかもしれない。誤って射ち殺された親子連れの鯨も、我々が想像する以上に数多くあったことだろう。

こんなことを書くと、「そんな鯨の捕り方をした日本人はやはり残酷だった」などと勘違いする、歴史的想像力に欠けた外国人も現れるかもしれない。だが、生月島の捕鯨がもっとも盛んだった江戸時代、太平洋や日本海一帯でもっとも多くの鯨を捕っていたのはアメリカである。すでに捕鯨銃をはじめとする近代装備をそなえていたこれらの国々の捕鯨船は、日本近海に次々と現れ、紀伊や西海の捕鯨とは桁違いの数の鯨を捕りまくっていた。しかも、捕った鯨の肉はむろん、皮や骨、髭や尻尾にいたるまでを無駄なく使い切った日本人の場合と違って、アメリカなどの捕鯨は、各種の鯨油やコルセットの材料になる一部の軟骨を採取することだけが目的であった。

そもそも、ペリーが浦賀に現れ日本各地の開港を徳川幕府に迫った背景には、日本近海にまでやってくる自国捕鯨船にとって、水や食糧の補給港、さらには台風などによる災害時の緊急避難港がどうしても必要だという事情もあった。また、そこまで時代を遡らなくても、私が子供の頃まではアメリカは世界有数の捕鯨国で、大量の白長須鯨や抹香鯨を捕っていた。捕鯨オリンピックと称して各国がまだ鯨の捕獲頭数を競っていた時代のことで、小学校の図書室の図鑑か年鑑で調べたアメリカの白長須鯨の捕獲頭数に目を見張ったことを私はいまもはっきりと憶えている。国際的な鯨の保護運動の高まりは結構なことだとは思うのだが、異常なまでに鯨保護が叫ばれ、鯨を捕る国民は非道な国民のように喧伝されるようになったのは、科学技術の進歩と食糧事情の好転で鯨を捕獲する必要のなくなった戦後のある時期からのことなのだ。

将来、技術の革新にともなう食文化や食糧事情の一大変化が起こり、人類が牛肉を食する必要がなくなる日がくるとすれば、世界各国における肉食牛の飼育は下火となり、肉牛の生息数は激減することだろう。もしもそのような状況になったなら、牛の愛護運動が世界各地で起こるかもしれない。そして、その時にまだ牛肉を食べている国民や民族があったとすれば、そこの人々は非人間的だと激しい非難を被ることになるに違いない。そんな時代が到来したとき、現在ステーキをもっとも食べている国民の子孫たちは、自分たちの先祖のことなどけろりと忘れ、牛食人種(?)非難の先鋒に立つのだろうか。人間とはいつの時代もとことん勝手なものなのである。

古式捕鯨に携わった当時の紀伊や西海の漁民たちにしても、実際には、それなりに残酷で非情な鯨捕りにまったく心の痛みを感じていなかったわけではない。いや、むしろ、彼らは現代の我々以上に人間というものの非情さ、残酷さ、矛盾の多さに気づき、それらを直視していたふしがある。生月島の話ではないが、鯨の位牌とか鯨の墓とかいったようなものが国内各地に散在するのも、そういった背景があったからなのだろう。生月島益富家の鯨組の場合には、刃刺が鯨に最後の留めを刺すと、すぐに鯨を囲む船の者全員が立ち上がり、息絶えた鯨に向かって手を合わせ「南無阿弥陀仏」の念仏を三度繰り返し唱えるしきたりになっていたという。

仕留めた鯨は、前述した持双船の横木の中央にその頭部を固定されたまま捕鯨納屋場の岸に運ばれ、解体加工を専門とする職人によって手際よく処理された。生月島をはじめとする西海各地の解体処理作業は極度に合理化されていて、一箇所の作業場で大型鯨を一日に四、五頭も処理することができたという。当時、土佐などでは小さい鯨一頭を解体するのにも一日を要したとのことだから、益富家傘下の鯨組がいかに機能的な組織集団だったかが推測されよう。

直接に鯨とは関係ないが、一階の展示室の一隅には、生月鯨太左エ門という江戸時代の巨漢力士の等身大の像が立っていた。「鯨」の一字をそのしこ名に持つ生月島出身の力士の身長はなんと二メートル二十七センチで、体重は百六十九キロ、手のひらは三十二センチ、足のサイズは三十七センチもあったという。我が国の歴史上例のないほどの大男で、鯨の名に恥じなかったわけである。

島の館の古式捕鯨資料に圧倒され、深い思いに惹き込まれてしまった私だったが、なんと二階の奥の展示室にはいまひとつ想いもかけぬ貴重な歴史資料が陳列されていたのである。その展示室に足を踏み入れた私は再びその場に釘づけになってしまったのだった。
1999年12月29日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.