初期マセマティック放浪記より

58.まだあった懐かしい情景

山陰回りのルートをとって九州に向かう途中、遅い昼食をとるために宍道湖南岸の道の駅、「ふれあいパーク」にあるレストランLAGO(ラーゴ)に立ち寄った。西日に映える広く静かな宍道湖の湖面が窓越しに望まれ、なかなかに風情のある落ち着いた雰囲気のお店である。すぐ近くの湖面では、水鳥の群れが餌を漁ったり羽を休めたりしているところだった。

「殿様もうまいと誉めた鯛めし!」とかいうキャッチフレーズに釣られ、ふーんと思いながらその鯛めしを注文したのだが、一膳が千円ちょうどというその値段から考えて、称賛したのは殿様なんかじゃなく、せいぜい貧乏侍かなにかだったんじゃないかと、勝手な想像を馳せたりしていた。そんな私の目の前に運ばれてきたのは、結構見栄えのする鯛めしセットだった。白、薄茶、黄色の三種類のそぼろとネギその他の薬味をたっぷり盛った大皿に、急須型の土瓶、炊き立てのご飯の入った小型の丸櫃、そして、空のお茶碗が一個ついている。どうやら、白と薄茶のそぼろは鯛そぼろ、黄色のそぼろは卵そぼろ、そして、土瓶の中身はじっくり火にかけて作った鯛のダシ汁であるらしかった。

この種の鯛めしを食べるのは初めてだったので、一瞬、どういう風にして口に運べば一番うまいのかと戸惑ったが、すぐに、お茶漬けの要領で味わえばよいのだろうと思いなおした。そこで、まずはお茶碗にホカホカのご飯を盛って三色のそぼろをふんだんに振りかけ、土瓶のダシ汁をたっぷり注ぎこんだ。それから、そっと箸をつけてみると、実にこれがうまい!……殿様が感激したのももっともだと、すぐに納得してしまった。十分に振りかけても余りそうなくらいにそぼろの量も多く、満悦しながらご飯を食べ尽くしたあと、土瓶に残ったダシ汁のほうもきれいに飲み干してしまった。景色も恵まれていて鯛めしもうまいし、お店の雰囲気もなかなかのものだから、車で付近を旅する方には是非立ち寄ってみることをお勧めしたい。

宍道湖畔をあとにして大田をすぎ、浜田市街に着く頃には、ちょっと沈んだ紅の輝きを見せながら太陽も西の地平線の彼方に姿を隠していった。海沿いの益田市を抜け、川伝いにかなり内陸に入ったところにある津和野にさしかかる頃には、あたりは深い宵闇に包まれた。長年の持病、「脇道病」の発作が起こりはじめたのはこの時である。この持病がいったん鎌首をもちあげたとなると、自分の意思ではもうどうにもコントロールが利かない。

地図で調べてみると、津和野から、むつみ村、福栄村、川上村を経て萩市まで細々とした県道が続いている。奥まった山間の集落を繋いで延びる山道のようなので、萩に抜けるまでには相当時間がかかりそうだったが、脇道病の発作につきものの「旅の嗅覚」に導かれるままにその細道に車を乗り入れた。ちょっと走ると、案の定、道幅は極端に狭くなり、右に左にくねくねと蛇行しはじめた。いくつもの深い谷や峠路を縫い繋ぐ感じの山道で、ダートの部分や補修工事中の部分も少なくない。ある種のノスタルジーをさえ覚えながら走るうちに、闇が一段と濃くなり、天空の星々がヤスリで磨いたような鋭い輝きを放ちはじめた。郷愁を誘われるのも当然で、これこそは、昔懐かしい本物の「闇夜の風景」にほかならなかった。

他に車の通る気配などまったくないのをよいことに、私は道端に車を駐め、時刻表示盤を含むすべてのライト類を消してみた。昔ながらのこのような深い闇の中では、時刻を示すグリーンの光でさえも明るく感じられる。久々にこんな体験をすると、自分をはじめとする現代人がいかに光に鈍感になってしまっているかを痛感せざるをえない。足元をはじめとして一帯は漆黒の闇に支配されており、二、三歩車外に踏み出すと、そばに駐めてあるはずの車さえも見えなくなった。天を仰ぐと、無数のサファイヤかブルージルコンを連想させる大小の光の粒が、それぞれの存在を主張するかのように輝いていた。夜空が明るくなったため最近ではほとんど見ることのできなくなった銀河の流れも見事だった。

不思議なもので、しばらくすると星明りに目が慣れてきて、闇の中でもそれなりに視界がきくようになってきた。長らく眠っていた私の五感が、このときとばかりに目覚め蠢(うごめ)きはじめたためだろうか。幼少の頃には当たり前だった光景ではあるが、私は何十年ぶりかで昔の恋人に出逢いでもしたかのような気持ちになった。しかも、昔の恋人は歳月を重ねるとその容姿も変貌してしまうが、この星空と地上の闇の織りなす夜の姿には昔のままの瑞々しさが留められていて、なんとも嬉しいかぎりだった。

再び車に戻ってしばらく走ると、谷間にそって民家の点在するところに出た。闇の中のあちこちに、文字通りぽつんぽつんと、ほのやかな人家の明かりが浮かんでいる。「まるで日本昔話の世界に迷い込んだみたいだよなあ……」という想いが、一瞬私の脳裏をよぎっていった。都会の夜の過剰なまでにギラギラとした明るさが遠の昔に捨て去った「灯火の暖かさ」と「人の温もり」が、そこにははっきりと感じられたからである。再度車を駐めた私は、谷の向こうに灯る淡い色の明かりの一つひとつをしげしげと眺めやりながら、ほのかな光の洩れてくるその家々に住む人々の姿などを想い浮かべた。冬場などは雪も深いことだろうから生活は厳しいに相違ない。物質的な意味での豊かさなら、都会には及ぶべくもない。でも、人々の心はきっと暖かいに違いない。そんなことを考えながらなにげなく見上げた夜空を、明るく輝く流星が一条の尾を曳いて北の方角へと流れ去っていった。

この地方においては、かなりの数の家々が立ち並ぶ集落でも、道路沿いの街灯は百メートルか二百メートルおきに立っている程度にすぎない。だが、実際に確かめてみると、それでも結構明るく、夜道を歩くのにそれほど不便だという感じはしない。夜こんなところを旅してみると、現代の都会の明るさのほうがどんなに異常であるかがよくわかる。「暗いことは悪そのものである」と言わんばかりに過剰な照明の溢れる大都会に住む人々は、たまにはこういう地方を訪ね、少しくらいは己の感覚の異常さを反省してみる必要があるかもしれない。国内の電力供給の三割以上を占めるようになった原子力発電所の危険性が、敦賀や東海村での事故をきっかけに大問題となっている昨今にあってはなおさらである。

萩市に出て夜の中心街や萩港周辺をめぐったあとは、国道一九一号から意図的にはずれ、山陰線と絡み合うようにして海岸沿いを縫い伝う萩・三隅線に突入した。まだ萩市のはずれの集落を通り過ぎないうちから、家並みの間をかするようにしてすり抜ける一車線ぎりぎりの道になったので、それなりには覚悟していたが、これがまた、やたらカーブの多い予想以上に細く狭い道だった。もちろん、夜も更けた時刻に好きこのんでそんなところを通る酔狂な車など他にあろうはずもなかった。

しかし、嬉しいことに、この道は夜の世界のドラマに満ちみちたなんとも素敵な道でもあった。右手に日本海を見下ろす断崖上を走っているせいで、点々と詩情豊かに輝き浮かぶ漁り火や、海側に大きく開けた美しい星空を一望することができた。ひときわ大きく海に突き出た岬近くのスペースに車を駐め、懐中電灯を頼りに崖伝いの細く急な漁道をくだると、静かに波の寄せる磯場に出た。すぐそばに貝殻の小片が無数に集まってできた小さな浜辺などもあって、歩を運ぶにつれてサクサクという乾いた音が一帯に快く響きわたった。しばし後ろ手をついて磯辺に腰をおろした私は、夜のしじまに体内の穢(けが)れを清めてもらいながら、じっと潮騒に聞き入っていた。

再び車に戻ってしばらく進んでいくと、私のワゴン車がぎりぎり通れるかどうかというほどに道幅は狭まり、しかもその道は照葉樹とおぼしき樹木の密生する深い林の中へとはいっていった。脱輪しないように細心の注意を払いながら、とあるカーブを大きく曲がった瞬間、ずんぐりした体型の黒褐色をした動物が何匹かヘッドライトの中に浮かび上がった。相手のほうも、不意を突かれたせいか、おろおろしてその場に立ち尽くしたままである。車をより近づけてみると、それは四、五匹のタヌキの群れだった。ようやく事態を察知したらしいタヌキどもは、車のすぐ右手脇の急斜面を大慌てでわれさきによじ登り、茂みの中に姿を消していったが、仲間の上に無理やりのっかったり、転げ落ちる奴がいたりして、その様子は実にユーモラスだった。

三隅町の集落へ向かって山道を下っていると、黄色い花らしいものを無数につけた何本かの樹木が目にとまった。不思議に思って車から降り、近づいて懐中電灯で照らしてみると、なんとそれらは黄色い花などではなく、昔懐かしい丸い小さな蜜柑の実だったのだ。どうやら古くから日本にある島蜜柑の一種のようである。栽培している農家の人には申し訳ないとは思ったが、二、三個無断で頂戴し薄めの皮を剥いて試食してみると、素朴だがどこか上品な甘酸っぱい味が口一杯に広がった。手に移り残ったその香りも実にさわやかなものだった。

そこからしばらく下ったところでは、道路脇の藪の中に野生の柿の木が生えているのを見つけた。蜜柑をすこし大きくしたくらいの小さな柿の実がかなりの数なっているではないか。懐中電灯でよく照らして調べてみると、もうほどよく熟れていて、鳥などについばまれた跡があるものもかなりあった。手近なものを一個とって食べてみると結構うまかったので、さらに五、六個ほどもぎとってから三隅の集落へと降りて行った。三隅町の集落に入ってほどなくその道は広い国道に合流したので、深夜の脇道探訪のほうはそこでひとまず終わりにすることにした。
1999年12月1日

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