初期マセマティック放浪記より

55.奥の脇道放浪記(11)芭蕉も踏んだ小径に立つ

芭蕉も踏んだ小径に立つ

翌朝は七時半起床、あり合わせの食材で簡単に朝食をすませると、直ちに鳴子方面に向って出発した。昨日はかなりの強行軍でとうとう風呂に入ることができなかったので、今日はまず鳴子で一風呂浴びてから行動するつもりだった。鳴子の中心街に入るすこし手前で、この時間から入浴させてくれる温泉はないかと地元の人に尋ねてみると、近くに田中温泉というところがあると教えてくれた。早速訪ねてみると、ひなびたと言うよりはなんとも古ぼけた温泉宿だった。入口の受付けには人影が見当らないので、横手の方にまわり大声で来意を告げると、ようやく主らしい中年の男が現れた。とりあえず一人二百円の入浴料を払って中へ入った我々の目に飛び込んできたのは、往時の繁栄を偲ばせる昔風の板張りの広い回廊と、その奥に位置するとても大きな一時代前の造りの浴場だった。

浴場は直径二十メートル近くはあろうと思われる円形をしており、満々と湯をたたえた浅目の大きな浴槽が二つ、孤状に配置されていた。いっぽうのお湯は深緑の澄んだ色をしており、もういっぽうの湯は不透明な黄白色をしていたが、どちらのお湯も適度で肌にやわらかく、無理なく体が温まる感じで、実に快適だった。泉質は重曹泉とのことで、湯治効果は抜群だという。

二人だけで浴槽を占領しながらつぶさに大浴場全体を眺めまわしているうちに、いまでは壁面が黒っぽくくすみ、タイルのあちこちが無残に剥げ落ちて壁絵の図柄も不鮮明になってしまっているが、もともとは時代の先端を行く素晴らしい造りの浴場だったことがわかってきた。そのことを何よりもよく物語っているのは、この浴場の中心部の特殊な造りだった。円形の浴場の中央に正八角形の総ガラス張り吹き抜け風の明るい区画があって、その中へと通じる同じガラス張りのドアが設けられていた。ドアを開けて内側をのぞいてみると、下部は八角形の酒落た浴槽になっており、上部はやはり八角形の無ガラスの天窓になっていて、そこからは明るい朝の光が射し込んできていた。いまでこそその白い八角形の浴槽は湯を絶たれて放置されたままになっているが、往時は斬新な着想によるその造りのゆえに、大変評判になったに違いない。時を経て古びてしまってはいるが、壁面に張られたタイルは極めて上質のもので、部分的に残る染色タイルの色艶やデザインからすると、そこに描かれていた図柄はきわめて格調の高いものだったろうと推測された。

我々は、この「夢の跡」とでも言うべき田中温泉がとても気にいった。建物が古びようが朽ち果てようが、肌にやわらかなこの泉質が昔と変わるわけではない。湯から上がって脱衣場で服を着ているときに入浴にやってきた古老の話だと、湯治用としてはいまでも鳴子随一の泉質なのだという。ただ、時代と共に、もうすこし先の近代的な鳴子温泉街が盛え、そのあおりで田中温泉はすたれてしまったらしい。現在では、地元の人々と、たまに訪れる事情通の一部の日参湯治客だけが安い料金で利用しているだけらしいが、なんとももったいないかぎりである。

風呂からあがったあと、館内の老朽化した広い階段をのぼり、人気のまったくない二階の窓からこの宿の裏手のほうを眺めた我々は思わず息を呑んだ。荒れ果ててしまってはいるが広大な敷地がはるか奥のほうまで続き、回廊造り風の建物群が古びた軒を連ねている。その規模からいって、昔は鳴子でも一・二を争う大旅館だったに違いない。長年放置されその間の風雪によってひどく傷んだ無人の建物群を見つめながら、あらためて栄枯盛衰のならいを想うばかりであった。

午前九時半頃に田中温泉を出発、大きなホテルの立ち並ぶ現在の鳴子温泉中心街をいっきに通過し、しばらく急坂を登っていくと、奥の細道にも登場する「尿前の関」跡付近に到着した。陸奥から出羽へと越える難路の途中にあるこの関所で、芭蕉一行は思いもかけず足止めを喰うことになった。当時はほとんど通行する者のいなかった文字通りの細道を敢えて越える理由と、その身分のほどを役人に厳しく問われたからである。

芭蕉と曽良がこのあたりを通ったのは旧暦の五月半ば頃、現在の歴では六月末から七月初め頃に相当している。東北地方も梅雨期に入り、湿度も気温も相当に高くなっていたはずで、徒歩による旅路の難儀は想像以上のものだったろう。

尿前の関跡から国道四七号をしばらくのぼったところに谷を横切る大きな橋がかかっている。その橋のたもとから谷筋に入る細い道を辿ると、すぐに清流のほとばしる深い沢に入った。頭上はうっそうとした樹木に覆われ、どこからともなく澄んだ鳥の鳴き声が聞こえてくる。いまではよほどの物好きしか通ることのない隘路だが、この道こそは、芭蕉一行が折からの悪天候と戦いながら越えて行った小深沢の六曲がりの古道にほかならなかった。渡辺さんと私とは一歩一歩足元を踏み固めるようにして、左右にくねる急傾斜の細道を登った。踏み跡らしいものは全くなく、それでなくても人ひとり通るのがやっとの狭い道に、行手をさえぎるようにして木の枝が伸び出している。それでも、芭蕉や曽良がこの小径を踏み辿ったのかと思うと感慨はひとしおだった。当時のままの様相を留めているのは旧道のうちのごくわずかな部分にすぎないけれども、元禄時代の頃の中山越え、すなわち奥羽山脈越えの苦労とその雰囲気のほどが偲ばれたのは大きな収穫だった。

奥の細道によると、芭蕉一行はこの山道をのぼりつめ出羽の国との境に至ったあたりで激しい風雨に見舞われ、やむなく国境の役人の家に三日ほど逗留することになった。その時に詠まれたのが、 蛋虱馬の尿する枕元 という有名な一句である。天候回復を待ってから、若い屈強な山案内人の先導で、芭蕉一行は道なき道を分け進むようにして山刀伐(なたぎり)峠を越え、尾花沢の集落へと抜けている。

再び車へと戻った我々は、芭蕉一行には申し訳ないような速度で山形県へと続く峠路を越えると、尾花沢方面へと向かってハンドルを切った。尾花沢を過ぎ大石田町の田沢というところにさしかかると、月山の雄大な眺望が行手の視界いっぱいに広がってきた。庄内平野の鶴岡あたりからとはちょうど逆の方向から月山を眺めていることになる。この一連の旅を通して、はからずも月山の美しい山容を両側から望むことができたというわけだ。

大石田からは、葉山の裾野を縫う道に入った。葉山は月山連峰の東端に位置する山で、古くから修験道の霊山としても知られている。若緑に輝く野中をしばらく走ると、最上川にかかる三ヶ瀬橋にさしかかった。この橋の下一帯は深く切り立った渓谷になっており、川瀬が荒々しく露出していて流水が速く、昔は最上川水運の三難所のひとつだった。米沢藩で産出される紅花などの物資は最上川伝いに舟によって日本海に面する河口の酒田まで運ばれたが、濁流の渦巻く増水期などにこの難所を無事通過することは大変だったらしい。さらにまた、酒田方面から必要物資を積んで米沢方面へと最上川を遡行する場合は、多数の人力を要する曳き舟作業によって急流に立ち向かい荒瀬を乗り切らなければならなかった。

三ヶ瀬橋のたもとに車を駐め、川中を見下したが、想いのほか水かさは少なかった。いまでは上流地一帯に多数のダムが建設され、水量がコントロールされるようになっているからだろう。また、芭蕉が「五月雨をあつめてはやし最上川」と詠んだ時期は新暦の七月のことで、まだ一ヶ月ほどさきの梅雨期の最中にあたっている。五月雨とは、むろん、梅雨のことである。梅雨の頃になれば、いまでも増水して激しく流れ下る最上川の姿が見られるのかもしれない。

三ヶ瀬橋からしばらく行くと村山市の白鳥という集落にさしかかった。実を言うと私はこのあたりの地理には相当詳しかった。この集落に、現在は神奈川の相模原で歯科医院を営んでいる昔からの知人の実家があって、その人に連れられ、過去何度もこの地を訪ねたからである。

鹿児島市内で高校生活を送っていた頃、苦学生だった私は地元のある歯科医院でアルバイトをしていた。たまたまそこへ新任の勤務医として赴任してきたのが、私より十二才年長の小野富男さんだった。年齢こそ大きく違ったが、気が若くて飾り気がなく、しかも旅好きな小野さんとは不思議なほどに気が合った。人一倍の努力と苦学の末に歯科医としての道を切り開いた小野さんの励ましは、深い人生経験に裏付けられた実感が込ってもいただけに、頼もしくもあり、有難くもあった。私が高校二年生のとき、小野さんは勤務先の医院の看護婦さんと結婚なさったのだが、そのとき前代未聞の珍事が起った。仲人を務めた歯科医院長の奥さんの配慮もあってのことだったが、ひとまわりも歳下の高校二年の私が、なんと新郎の歯科医の「友人代表」として祝辞を述べさせられるという、信じられない事態に直面するはめになってしまった。

本土の南端鹿児島での結婚式だったために、小野さんの親族、知人、友人などのほとんどが参席なされないという事情はあったが、それでも何十人かの出席者があっての挙式だった。そんな状況の中で、坊主頭に学生服姿の高校生が友人代表として祝辞を述べたわけだから、ほとんどの参席者は目を白黒させて驚き呆れはてたに違いない。まだビデオなど普及していない時代のことだから、幸いスピーチ録画は残っていないが、もしもそんなものが残っていたら頭底直視はできないことだろう。日本広しといえども、高校二年生の分際でありながら、十二歳年上のれっきとした歯科医の結婚式で友人代表としてお祝いのスピーチをしたなどというのは、この私くらいのものではなかろうか。

私が大学進学のため上京してほどなく、小野さんのほうは北海道サロマ湖近くの町において歯科医院を開業され、その後、神奈川県相模原市に移って現在はそこで歯科医院を営んでおられる。小野さんが相模原に移られてからは、故郷の山形に帰省されるときなどよくお誘いをうけ、度々この地に同行し、白鳥のお宅に泊めていただいた。その度ごとにこの周辺をずいぶんと歩き回っているから、一帯の地理に私はよく通じていたのである。

懐しい小野家の屋敷を右手方向に見ながら白鳥の集落を過ぎると、我々はそこから少し南に下った大久保というところを目指して走り続けた。大石田町の次年午と村山市の大久保との間には、民宿を含む十四・五軒のそば屋が存在している。この街道が「最上川三難所そば街道」という別称をもつのもそのためである。西にそびえる一四六一メートルの葉山の懐に抱かれる地形の関係で、東や南から直射日光が当たるいっぽう、冷気が入り込み霧もかかりやすい。この特殊な気象条件は、そばの栽培に好適で、信州と同様にどの農家も自家用のそばを栽培してきた。古くは紅花の大産地であり、当時は紅花の後作にそばが作付けされていたという。

伝統と気象条件に支えられたそば粉の質は最良だし、味を競うそれぞれのお店にはそれなりの秘伝があるから、出されるそばはなかなかうまい。だが、なんといっても、このあたりで一番の老舗は大久保にある「あらきそば」である。大正八年創業の「あらきそば」の三代目にあたる当主の芦野又三さんは、一帯のそば屋を中心に近年結成された「最上川三難所そば街道振興会」の会長を務め、地域の振興に貢献しておられる。小野さんに同行してこの地を訪れるたびに、「あらきそば」に連れていかれた私は、いつもその太く腰のあるそばに感動を覚えさせしながら舌鼓を打ったものだった。初めてあらきそばを訪ねたのは、もう二十数年前のことだったように思う。我々が大久保を目指したのは、むろん、「あらきそば」を訪ねるためだった。

縁とは不思議なものである。長岡を出てから日本海沿いに北上しているときに、渡辺さんとの会話の中で、東北に来るなら是非立ち寄ってほしいといってきている老舗のそば屋があるのだがという話がでた。そこの若主人が、作家の水上勉先生主宰の若州一滴文庫会員で、渡辺さんの絵の熱烈なファンでもあるという。おまけに、一滴文庫の会員誌に渡辺さんの挿絵入りで連載していた私のエッセイをも愛読してくださっているというのだ。よくよく話を聞いてみると、山形県の村上市にある「あらきそば」というお店だというのではないか。それはまた奇縁だといことになり、その時点で「あらきそば詣」がきまったのだった。昨日、下北半島から先方に電話を入れ、今日の昼頃までには到着するむね伝えてはあったので、あらきそばの方々も我々が着くのを待っていてくださることだろう。

あらきそばに到着したのは午後一時頃だった。その風情豊かな萱葺き屋根の大きな建物は以前と少しも変わらない。「あらきそば」としるされた控えめな看板が一枚だけさりげなく掛っているだけというのも実にいい。外から眺めたら昔風の造りの由緒ある古い民家にしか見えない。渡辺さんは、車から降りるとすぐにお店の建物の全景をスケッチしはじめた。私のほうはその間、お店の周辺をさりげなくうろつきながら、初夏の陽光に輝き躍動する風物の妙を楽しんだ。渡辺さんがいまにもスケッチを終えそうになったとき、お店のほうから感じのいい男の人がちょっとはにかむような笑みを浮かべて我々のほうへと近づいてきた。そして、渡辺さんに向かって静かな口調で話しかけた。それが若主人の芦野光さんだった。我々はすぐに玄関に通され、当主の芦野又三御夫妻、光さんの奥様、真弓さんらによって手厚く迎え入れられた。

黒光りのする年期物の頑丈な建具で造られた広い畳敷きの空間には、人の心を自然となごませてくれる不思議な温かさがあった。天然木で出来た細長い食台が何脚も並び、古い上質の木肌ならではの艶やかな輝きを放っている。奥のほうの座布団にどっかりと陣取った我々の相手をしてくださる芦野老御夫妻、若御夫妻の飾り気のないお人柄と、耳にやわらかな山形弁の美しいリズムとが、このうえない宝物のように思われてならなかった。渡辺さんは芦野家の方々との談話の合間に手ばやく店内の様子をスケッチし、先刻の建物全景のスケッチともども、芦野家にプレゼントなさっていた。

あらきそばは知る人ぞ知る山形の老舗だから、食通の高名な文人や芸能人などをはじめとし、はるばるこのお店の味と風情を求めて訪ねる人はあとを断たない。一昔前に一世を風靡したNHKの名アナウンサー宮田輝、慶応大学教授で食通として知られた池田弥三郎、作家の村上元三なども、あらきそばの熱烈なファンだったらしい。以前はそういった人々の書や色紙が床の間や壁に掛けられていたが、いまは別の書や色紙に変わっていた。さりげなくお店の四方を見渡しながら、そのうち渡辺さんのスケッチも時間と歴史の溶け込んだこの壁面の一隅を飾ることになるのではないかと、内心で私は思ったのだった。

年期ものの木製の長箱型器「片木盆」に丁寧に並べ盛られた太目のそばは、香り、歯ざわり、腰の強さ、どれをとっても文字通りの絶品だった。しかも、その一人前の分量を思うと、信じられないほどに良心的な値段だった。私は何度もこのお店に来ているからよくわかるのだが、普通盛りと昔盛りとがあって、普通盛りでも一般のそば屋の一倍半ほどの量はある。昔盛りのほうは普通盛りの二倍も量があるのだから、調子に乗ってうかつに注文したりすると、途中で胃袋のほうがギブアップの悲鳴をあげてしまうことになりかねない。

もっともこの日だけは芦野家のご好意に甘え、あらきそば秘伝の味を堪能させていただくことになった。そばもうまかったが、産地直送の鰊を砂糖と味噌だけで一日かけて煮込んだ特製の身欠き鰊、上質の黒ごまのタレつきのそばがきの味も思わずうなりたくなるほど素晴らしかった。続いて出された採れたての山菜類のおひたしや笹包み御飯も掛値なしに美味しかった。

だが、困ったことに芦野家御家族の真心のこもった接待に甘んじ、次々に出される御馳走に箸をつけるうちに、我々の体内では想わぬ変化が起こりはじめた。長岡で渡辺さんと合流し旅を始めてからの九日間というもの、粗食に徹してここまでやってきたわけだから、それなりのリズムに慣れてきていた胃袋のほうも、こんな大量の御馳走がいっきに崩れ込んでくるなんて予想だにしていない。あっというまにぱんぱんに膨れあがり、それでもなお詰め込まれてくる御馳走に対応しきれなくなった胃袋が、とうとうSOSの悲鳴を発しはじめたのだった。最後は、渡辺さんも私も必死になって御馳走と格闘する事態となり、もうちょっとで一歩も動けなくなりそうだった。

芦野家から頂戴した沢山のお土産を車に積み込んだ我々は、心から別れを惜しみながら、午後六時半頃、山形県南部から福島県北部方面を目指して走り出した。後日談になるが、東京に戻ってから書いたお礼状の中で、私は「あらきそば」という屋号の由来について尋ねてみた。前述した小野さんから、あらきそばの「あらき」はどうやら剣剛荒木又右衛門にちなんだものらしいという話を聞いたことがあったからである。当主の芦野又三さんから頂戴したお手紙によると、先々代の御当主が講談の荒木又右衛門の熱狂なファンであられ、そのため屋号が「あらき」になったのだとのことだった。小野さんの話は事実だったのである。

食べ過ぎの報いはてきめんだった。あらきそばを出発し、河北町、寒河江を経て天童に出た頃のことである。限界いっぱいに膨張していた胃袋が車の振動でさらに刺激をこうむってさらに膨れ上がったせいだろうか、重苦しさがピークに達した。助手席の渡辺さんも明らかに同じ症状を呈している。「本田さん、胃散があるから飲まへんか?」という渡辺さんの苦しげな誘いに、私のほうも一も二もなく同意した。国道十三号線脇のパーキングエリアに車を駐めた我々は、あらきそばの皆さんには申し訳なく思いながらも、胃散を一服ずつ飲んでから車の後部席でしばらく横になり、胃袋の発する緊急異常信号が鎮静するのをじっと待った。二人とも、もう二・三 日はなんにも食べなくてもよいのではないかという思いだった。

胃やすめついでに二時間ほど仮眠をとったあと再び走行態勢に入った我々は、すっかり暗くなった国道を速度をはやめて南下した。山形市、南陽市を経て米沢に出、米沢からは白布温泉方面へと向う道に入った。もうずいぶん昔のことになるが、白布温泉の国民宿舎にはちょっとした想い出がある。ある晩秋の夕刻に猪苗代湖付近から急に電話を入れ、男一人だが今晩泊めてもらえないかと尋ねてみた。こういう場合は断わられることが多く、とくに、観光シーズン最盛期や、逆にシーズンオフで、お客がほとんどないときなどはなかなか泊めてもらえない。秋の紅葉シーズンは遠に終わり、ほどなく初冬にかかろうかという客足の途絶えがちな時期だったから、体よく断わられるだろうと予想していた。ところが、電話の向こうの老いた声の主は、「はいわかりました。御到着をお待ち申し上げております。今晩のお泊まりはお客様お一人ですので、お客様をお泊めする部屋の明かりだけをつけ、他の部屋は消灯してお待ち申し上げております。夜間のことで当館がおわかりづらかろうと存じますので、それを目印にして御来館ください」という、なんとも粋な応えを返してきたのである。

それなりの規模の宿泊施設がたった一人の突然のフリー客を泊めるとなると、それに要する人件費や光熱費、管理費などで赤字になってしまいかねない。それを承知で泊めてくれるというのである。思わぬはからいに感激するいっぽうで、なんだか申し訳ない気持ちさえするような有様だった。

桧原湖から吾妻山の西肩を越える吾妻スカイバレーを越えて白布温泉に着いたのは夜八時半頃だった。二階中央の部屋の明りだけがついた三階建ての大きな建物があったので、それが目指す国民宿舎だということはすぐにわかった。迎えてくださったのは、とても感じのいい老齢の管理人御夫妻で、すぐに出された心のこもった料理も美味しかったし、広い浴場を一人で占領しての入浴も快適このうえなく、思わぬ幸運に私は感激のしどおしであった。もう二十年近くも前のことなので、あの御夫妻にお会いすることは叶わないが、旅をしているときなどいまでも懐かしくその一夜のことを想い起こす。

白布温泉街を通りかかったのは十一時前後だったので、さすがにどこかで一風呂というわけにもいかなかった。昔に較べるとずっと明るく近代的になったホテルや宿泊施設群を横目に見ながら白布の温泉街を走り抜けると、ほどなく道は急坂になった。深夜のスカイバレーを越えて桧原湖側へ出ようという算段である。こんな時刻にこの深い山越えの道を通る車はほとんどないだろうから、有料道路とはいっても、料金徴収ゲートに係員はいないに違いない。そうすれば、そのぶん、交通費も安上がりですむ。アクセルを踏み込むとぐんぐん車の高度はあがり、艶やかなビロード地に大小無数の宝石を散りばめたような夜空が、視界の上方いっぱいに広がりはじめた。時折車を停めて天空の星々を仰ぎながら山形と福島の県境の峠を越え、通行フリーになっていた料金徴収ゲートを抜け、桧原湖ぞいの道に出たときは午前零時をまわっていた。

とりあえず桧原湖畔のオートキャンプ場へと続くダートの細い道をゆっくり走っていると、突然ライトの中に飛び跳ねるように動きまわる小動物の姿が浮かび上がった。よくみると、無邪気にじゃれあう三匹の子狐だった。子犬の動きそっくりで、なんとも可愛らしい。車を停め、ライトをつけたままにして、我々は内なる命が弾け転がるような子狐たちの動きをじっと見つめ続けた。思わず漏れた「メンコイのう!」という助手席の渡辺さん呟きが、その情景のすべてを物語っている感じだった。子狐たちが道路脇の繁みの中へ姿を隠すのを待って湖畔に出た。そして、そこに車を駐め眠りに就いたのは午前一時近くだった。
1999年11月10日

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