初期マセマティック放浪記より

51.奥の脇道放浪記(7) 長湯の怪記録達成

絵・渡辺 淳


長湯の怪記録達成――義母の故郷阿仁町から黄金崎不老不死温泉へ

翌朝は七時に起きるとただちに御座の石をあとにし、朝日に青く輝く田沢湖をほぼ一周してから湖の五キロほど西側を走る国道一〇五号線にでた。そして、道路沿いのお店で買い込んだサンドイッチをパクつきながら、高柴森と大仏岳の鞍部を越えて阿仁町へと入った。深い谷筋をおおう樹々の緑の瑞々しい比立内の集落に差しかかったとき、私は、不意に、義母が少女時代を過ごしたのはたしかこの阿仁町のどこかで、いまも親戚筋の方が住んでいるとかいう話を耳にしたことを想い出した。渡辺さんに何気なくその話をすると、是非ともそこを訪ねてみようとおっしゃる。義母の旧姓は櫻田といったので、その姓を手掛かりにすればとは思ったが、櫻田という家がそこらじゅうにあったりしたら話にならない。そこで、急遽、近くの公衆電話から伊豆の伊東に住む義母に電話をかけてみた。すると、当時、義母が住んでいたところは阿仁町の荒瀬という集落で、いまはもう櫻田家の者は誰もいないが、親戚の佐々木茂治宅を訪ねてみれば、きっと歓迎してもらえるだろうとのことだった。

集落からはすこし離れたところにある秋田内陸縦貫鉄道の荒瀬駅前に車を駐めた我々は、無人のホームにのぼって「荒瀬」という駅名表示板をバックに写真を撮った。集落の入り口近くにある簡易郵便局で尋ねると、佐々木宅の場所はすぐにわかった。集落のほぼ中ほどに位置する高床造りの立派な家がどうやらそうであるらしい。なんの前ぶれもなしに一面識もない男二人が訪ねたりしたら、先方もさぞかしびっくりすることだろうとは思ったが、ここはもう成り行きにまかせるしかないという感じだった。

佐々木家の玄関のチャイムを押し、来意を告げると、すぐに我々は奥へと通された。義母の従兄弟筋にあたるという老御夫妻はとても穏やかな方々で、突然の訪問だったにもかかわらず、我々はとても温かく迎え入れられた。自己紹介や今回の旅の動機などに始まる歓談がひとしきりはずんだところで、我々は義母たちがかつて住んでいたという家へと案内された。小さく簡素な平屋造りではあったが、その家は数十年の風雪に耐え抜き、いまはささやかな雑貨店になっていた。佐々木御夫妻の話を通して少女時代の義母の姿を想像しながら、しげしげとその古い建物に見入っているあいだに、渡辺さんは手早く周辺のスケッチをしてくださった。渡辺さんの心のこもったそのスケッチを後日プレゼントされた義母などは、感動で胸を詰まらせ、絶句する有り様だった。

先を急がねばならないこともあって、名残を惜しみながらもほどなく佐々木家を辞した我々は、かつては銀山でも知られた阿仁合の集落を抜け、阿仁川沿いに森吉町米内沢にでた。そして、米内沢で国道一〇五号に別れを告げ、阿仁川に沿う県道三号線を走って合川町を通過、阿仁川が米代川本流に合流する小繋付近で国道七号に入った。国道七号を東能代まで爆走したあとは、米代川を渡って峰浜村へと続く広域農道を北上し、水沢付近で国道一〇一号に合流した。峰浜村周辺の広大で緑の豊かな農業地帯を走っていると、心が潤い、体内に活力が甦ってくるような気分だった。

日本海を左手に見ながら国道一〇一号を進み、秋田県側の八森町を経て青森県岩崎村にはいる頃になると、空が急に暗くなり、強い西風が吹き始めた。かなりの数の家々の密集する集落をいくつか通り過ぎたが、まるで広域停電下の地帯を夕暮れ時に走っているような感じである。曇天下のこととはいっても、まだ午後二時くらいであることを思うと、異様な暗さというほかない。大きめの商店の前を通りかかったとき、何度か中をのぞいてみたのだが、どの店も明かりがついていないか、ついていても申し訳程度に明かり灯っているだけで、なんとも薄暗い。なんらかの理由で、皆が申し合わせ節電でもしているのだろうかと考えたりもしたが、どうやらそうでもないらしい。たぶん、この地方特有の気象の関係もあって、年間を通じて昼でも暗い日が多く、人々がすっかりそれに慣れてしまっているせいなのだろう。そういえば、かつて津軽半島の西海岸を竜飛岬に向かって旅したときも、これとよく似た、暗く淋しい風景がどこまでも続いていたように思う。ただ、あえて付け加えておくと、この憂いを含んだ独特の暗さの奥には、明らかに偉大なものを生み出す力が秘められているのだ。

車はやがて陸奥黒崎の集落に差しかかった。低く垂れ込めた黒雲に覆われて山影こそ見えなかったが、この地の東側一帯に位置する山系は、広大なブナの原生林を有するあの白神山地である。その自然が世界自然遺産に指定され、一躍脚光を浴びることになった白神山地は、日本海から絶え間なく吹き寄せる多湿で冷涼な大気のおかげで、貴重な天然ブナ林を時間を超えて守り育むことができたのであろう。極言すれば、気流、海流、地形の三者が相関しあって生み出すこの暗さこそが、白神山地の豊かな自然と、この地方に特有な文化の育ての親なのでる。

予定では陸奥岩崎の集落付近で国道に別れを告げ、白神山地の北部を東西に走る弘西林道にはいるつもりでいたのだが、せっかくだから、国道をもう少し先まで行って、黄金崎の不老不死温泉を訪ねてみようということになった。陸奥岩崎の集落の北側では、日本海に向かって陸地がコブ状に迫り出している。その半島の北寄りの突端に位置するのが黄金崎で、そこの磯辺には旅好きな者の間では有名な露天風呂がある。

激しい西風に煽られ、暗い海面から霧状の冷気の吹き上がる舮作(へなし)岬の岩場を経て黄金崎の不老不死温泉に着いたのは午後三時半頃だった。かなり大きな温泉ホテルが二軒ほどあったが、我々はそれには目もくれず、それらのホテルの裏手にある磯辺の駐車場に車を駐めた。鉛色の空と海の接するあたりから絶え間なく湧き寄せる湿った大気は、あくまでも冷たくそして重たかった。

お目当ての不老不死温泉の露天風呂は、波頭を白く逆巻かせながら高波の寄せる荒磯のただなかに位置していた。わずかに霧雨を含んだ強く冷たい風に身を震わせながら、磯辺の岩伝いに露天風呂に近づくと、学生風の若者が一人で入浴しているところだった。湯加減を尋ねると、ちょっとぬるめなので、今日のこの寒さだと、ゆっくり身体を温めてからでるようにしないと風邪をひいてしまいそうだという返事か戻ってきた。不老不死温泉にはいったおかげで命が縮まったというのでは洒落にもならないが、ここで入浴を臆したりしたら、それこそ露天風呂通の名が泣いてしまう。意を決した我々は、素早く衣服を脱ぎ、雨に濡れないようにそれらを湯舟のまわりの岩のすきまに押し込むと、大急ぎでお湯の中へと飛び込んだ。

泉質は、細かな粒子の赤土を溶かしたような色の含鉄性塩泉で、かすかに鉄錆のようなにおいがし、なめるとかなりしょっぱかった。冷風のために身体が冷えていたこともあって、はいってすぐにはぬるいという感じはしなかったが、先客の言葉通り、長湯向きの温泉には違いなく、しばらくつかっていると、すぐにはでたくないという気分になってきた。この露天風呂から眺める落陽の美しさは有名で、それこそ海面が黄金色に映えるのだが、この日はとても夕陽のみられるような状況ではなかった。

海側を見やると湯舟のすぐそばまで激しく波が打ち寄せてきていて、野趣に富むことこのうえない。海面がぐっと盛り上がり、ひときわ大きな波が迫ってきたときなどは、湯舟ごと海水につかってしまうのではないかとさえ思われた。先客の若者が湯からあがって二人きりになったあと、我々はすっかりいい気分になって一時間ほど湯舟を占領しつづけた。もっとも、湯からでたら寒そうだから、でるにでられなくなってしまったというのがむしろ本音ではあった。
  かなり離れたところにあるホテルの窓から、ときおりこちらの様子をうかがっていた泊まり客には、我々二人の入浴姿がよほど気持ち良さそうに映ったらしい。しばらくすると、一組のアベックと、若い女性を含む男女の一団がやってきた。そして、それまでとはまるでうってかわった賑やかな混浴状態となった。湯舟のなかで皆の話が大いに弾んだこともあって、それからまた一時間ほど我々は湯につかりつづけた。普通ならとっくにのぼせているところだが、このときにかぎっては、そんな感じはまったくなかった。

だが、ほどなく事態は一変した。一段と風が強まり、雨足が激しくなったかとおもうと、耳をつんざくような雷鳴とともに、青く不気味な稲妻が海のほうから迫ってきた。いい気な人間どものヘソを有り難く頂戴してしまおうというのが、雷様の魂胆であったらしい。激しい雷光と雷鳴におそれをなした入浴客のほとんどは、皆大慌てで露天風呂から飛び出し、抱えた衣類で裸身を隠すようにして引き揚げていった。そんな騒動の中で、えい、ままよ、こんなヘソでもよいならば喜んで差し上げましょうと開き直ったのは、むろん、我々二人である。激しく寄せる風浪にくわえて、雷神様の特別出演というおまけまでついた露天風呂なんて、そうそう体験できるものではない。すっかり腹をきめ、どっかりと湯舟の底に尻をすえたら、これがまた、なんともいい気分なのである。かくしてまた我々二人は、それから一時間ほど、黄金崎の名物露天風呂を独占することになった。なんと三時間も続けて温泉の中につかりっぱなしだったことになる。

雷様のお怒りをしりめに記録的長風呂を楽しんでいる最中に、なにげなく湯舟の端から半分身を乗り出した途端、私は奇妙なものとはちあわせになった。目の前に、恨めしそうな顔をしたろくろ首のようなものがヌーッとばかりに現れたのである。思わず声をあげそうになったが、よくよく我が目を凝らして見てみると、なんと、それは一羽の大白鳥の姿だった。寄せ来る夕潮に足をひたしながら、湯舟の石組みのすぐそばにたたずみ、こちらのほうに首先を伸ばして、なにやら語りかけるような目つきで我々のほうをじっと見ている。その表情はどこかもの悲しそうでもあった。

なんで今頃こんなところに白鳥がいるのだろうと怪訝に思いながら、そのしぐさをつぶさに観察してみると、どうやら左の翼のなかほどを傷めているらしいことがわかってきた。仲間と北方へ戻る途中、なんらかの事故にあって翼を傷め、飛べなくなってこの黄金崎の地に緊急避難してきたものらしい。多少人馴れしているところをみると、近くに住む誰かが、時々餌をやっているのであろう。湯舟のすぐ周辺をゆっくりと移動しながら水中の餌をついばみ、時折、立ち止まっては、毛づくろいをし、思い出したように羽をはばたいてみたりしている。温泉に入れてやって羽が治るものなら、すぐにもそうしてやりたい気持ちだったが、こればっかりは我々の手ではどうにもならない。胸の内のやるせない思いを押し殺しながら、渡辺さんと私はじっとその様子を見つめるばかりだった。

白鳥が岩陰のほうに遠ざかり、その姿が見えなくなると、我々は無言のまま再び湯の中深くに身を沈めた。湯の中に入って三時間が過ぎようとしていた。いくら外が寒く、雷雨のおまけがついたからといっても、湯につかりっぱなしで三時間はあんまりである。しかし、そのあんまりなことを、我々はとうとうやってのけたのだった。雷がじょじょに遠のき、激しい雨足がおさまっていなければ、四時間の記録への挑戦となっていたかもしれない。さいわいというか、雷鳴も雨もいったんやんだので、我々は大急ぎで岩穴から引っ張りだした衣服をすばやく身につけ、ようやく車へと戻ったようなわけだった。温泉に含まれる塩分と鉄分のせいで肌がべとつく感じだったが、人間の塩漬けができたのでないだけ、まだましというものだった。

車の運転席に戻り、エンジンをかけながらもう一度波打ちぎわのほうを見やると、さきほどの大白鳥のさびしそうなうしろ姿が目に飛び込んできた。来るはずもない仲間を待ちつづけてでもいるのだろうか、遠い沖のほうを見つめながら一羽ぽつんとたたずむその姿は、ただただ哀れを誘うばかりであった。激しく吹き寄せる冷たい潮風には、白鳥の本能をかきたてる何かが秘められているのであろう。思い出したかのように羽ばたき、そしてまた、諦めきれない様子で遠い空にじっと見入る姿に、我々は、あらためて自然界の掟の厳しさを痛感させられるばかりだった。

黄金崎の露天風呂をあとにした我々は、いったん岩崎の集落にもどり食料を補給したあと、黄金崎と隣り合う舮作岬の椿山温泉を訪ねることにした。岩崎村直営のこの宿泊保養施設に行って温泉のハシゴをし、先刻の露天風呂で身体中についた塩分を洗い流してしまおうというわけだった。切り立った断崖の上に位置する椿山温泉の大展望風呂は、天井が開閉式になった近代的な造りになっていて、眼下に広がる海の景観もなかなかのものだったが、入浴者は我々二人だけというなんとも閑散とした状況だった。この施設はかなり大きく、造りそのものも近代的でとても立派なものなのだが、思惑とは違い、いまひとつ経営がうまくいっていない感じである。おそらくは、かつての全国的な村おこしブームに乗って建造され、世界自然遺産にも指定された白神山地のブナの原生林を見学にやってくる観光客を当て込んでいたのであろうが、結果的にはかなり計算がはずれてしまったということなのだろう。入浴後、係の人にそのへんのことをさりげなく尋ねてみると、こちらの想像通りかなりの赤字なのだそうで、公営施設だからいいようなものの、これが民間の施設ならとっくに閉鎖されているだろうということだった。

結局、この日の夜は、椿山温泉からそう遠くないところにある道の駅で車を駐めて車中泊をすることになった。小雨の降るなかで晩飯をつくって食べたのだが、お腹がすいていたこともあって、とても美味しく感じられた。十一時頃には無事就寝となったのだが、黄金崎の白鳥は今頃どうしているのだろうと考えたりしはじめると、どうしても目が冴えてきて、なかなかに寝つくことができなかった。
1999年10月13日

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