初期マセマティック放浪記より

41.純銀大杯版「藪の中」

芥川龍之介の作品の中に「藪の中」という短編がある。多襄丸という盗賊が、京の都から若狭へと向かう途中の若武者とその美貌の妻を襲う。盗賊の策略にはまり不意打ちを食らった若武者は杉の根元に縛りつけられ、その面前で女は犯される。そして、それからほどなく、若武者のほうは遺体となって発見される。やがて盗賊の多襄丸は捕らえられ、検非違使によって取り調べられることになるのだが、多襄丸と若武者の妻、さらに霊媒を通じて得られた若武者の霊による証言がそれぞれまるで違うのだ。

多襄丸は自分が若武者を切り殺したと認め、女は自分が夫を刺し殺したと告白し、最後に呼び出された若武者の霊は己の手で自害して果てたと語って、結局、真相は藪の中に隠されてしまう。人間それぞれの心の闇とそれゆえの思惑が、どう見ても一つしかないはずの真実を霧の中に包み込み、結局誰にもほんとうのことが判らなくなってしまうというこの話は、なんとも寓意に満ちていて興味深い。

抜群の語学力の持ち主だった芥川龍之介は、若い頃、ずいぶんと洋書を読み漁ったという。その彼がとりわけ愛好した海外作家の一人にアンブローズ・ビアスがいた。龍之介の作品はこのビアスにずいぶんと影響を受けているといわれている。ビアスは短編の神様といわれた米国人作家で、異界をテーマにした幻想的な作品を得意としたが、わが国では、むしろ、あの辛辣このうえない「悪魔の辞典」の筆者としてその名が高い。

そのビアスの著作中に「The Moonlit Road」という作品がある。「霊界の月影」とでもそのタイトルを意訳したくなるような短編で、一人息子とその両親が登場する。ある日、美貌の母親が自宅で何者かに絞殺され、大学在学中の息子は急遽父親に呼び戻される。母親の死の状況についての息子と父親、そして、霊媒によって呼び出された母親の霊魂の証言が相互に食い違う。むろん、龍之介の「藪の中」とは設定も物語の展開も異なるが、その作品を書くにあたって、ビアスの短編が龍之介にある種のヒントを与えたことはほぼ間違いないだろう。私はその道の専門家ではないので偉そうなことは言えないが、このほかにも両者の連関性を感じさせる作品はいくつか存在する。

龍之介が日本の古典に題材を求め、それらをデフォルメし、独自の哲学的作品へと昇華させていったことは広く知られているところだから、彼がアンブローズ・ビアスの著作から受けた様々な啓示をもとに一部の作品を書いたとしてもべつだん不思議はないだろう。

前置きが長くなってしまったが、べつにこの場をかりて芥川文学の話をしようと考えたわけではない。先日、朝日新聞インターネットキャスターの穴吹史士さんが、「純銀大杯の因縁」というタイトルで朝日社内テニス杯が制作されるまでの経緯を述べていた。その中に大銀杯制作の関係者として私の名前なども登場するのだが、私の知るのとはかなり異なる事実なども紹介されていたようなので、この際、その「藪の中」版を書いてみるのも面白いのではないかと思い立ったからである。このケースでは、「制作依頼人、元週刊朝日編集長穴吹史士の証言」、「制作者、本田成親の証言」、そして「制作指導者、故伊藤廣利芸大教授の証言」の三証言が問題となることは言うまでもない。

《制作依頼者、元週刊朝日編集長穴吹史士の証言》
「霊感商法じゃないの?」と、その純銀の大杯については、いわれた。社内のテニス仲間数人が、毎週休日に会社の屋上で子供の遊びのようなゲームを楽しんでいたころのことである。「芸大の偉い先生が優勝カップを作ってくれるらしい。みんなで、お金を出し合おう」という話になった。
きっかけは、いま「マセマティック放浪記」を書いている本田成親さんだった。本田さんは、東京芸術大学の学生に数学(必要あるのだろうか?)を教えていて、そこで鍛金の巨匠でもある伊藤廣利教授と昵懇になった。アトリエに通って、教授の仕事を見ているうち、自分も何か作ってみたくなり、銀の板の端くれをもらって、小さなさかづきをひねり出した。
そしてその「作品」を、自分は下戸なのに酒席に持ってきては、みんなに自慢していた。「なかなかの腕前ですね。こんどテニスの優勝カップでも作ってもらいましょうかね」と、私は通りいっぺんのお世辞を述べておいた。だが、世故に全くたけていない本田さんに、お世辞をいうのが、そもそも誤りだった。
次に本田さんから連絡があったときは、「例のもの、作ってます。こんどあなたも叩いてみませんか」という状況になっていた。製作にいたるまでには、もう少し複雑な事情もからんだが、要約すると、まあ以上のようになる。
本田さんに声を掛けられて、一日、私は伊藤教授のアトリエへ出かけた。私の家からは、関東地方の対極にあるのではないかと思われるほど遠い、埼玉県・入間の奥。米軍将校の元官舎が教授の仕事場だった。鍛金というのは、金属の平らな板を槌で叩いて延ばしたり曲げたりする造形の手法である。
金属というものは、叩けば延び、しかし延びるばかりで、絶対に縮まないということを実感的に知った。叩きすぎると、カーブがどんどん急になり、もう戻すことはできない。どうしても戻したければ、もういちど炉で溶かして、ただの平たい板にして、いちからやり直すほかない。私は申しわけ程度に叩いて、あとは本田さんが、伊藤教授の指導で、とんとん叩くのを、一日中見ていた。
本田さんがひと夏とんとん叩いて完成したカップは、巨大なものだった。口径が40センチばかり。深さは15センチくらい。リボンを結ぶための環がついている。凝っているのは底部で、くるりとひねると、別の小さな杯になる仕掛け。純銀の原価だけで数万円、それに特注の桐の箱に入っていた。工賃はタダだとしても、諸経費を入れると10万円はくだらなさそうな……。
テニスのメンバーも、これほど豪華なカップを想定していなかった。問題は財源である。数人で1万円ずつ出し合っても、少し不足する。ただちに純銀大杯シンジケートを組むことになった──「この純銀のカップは、芸大の偉い先生が制作に深く関わり(作ったとはいわない)、仮に値段をつけると、何百万円もする。それが1口1万円で、共同オーナーになれます」。ラケットを1回でも振ったことのありそうな人を次々勧誘、最終的には12人から出資を得た。
ゲームの後、冷たいビールをカップになみなみと注ぎ、最初の一口を飲むのが、優勝者の特権である。熱伝導率が高いので、キーンと音が聞こえるほど銀が冷たくなり、とってもおいしい。次のゲームまで、カップを自宅に保管できるのも優勝者の特権だが、「でかすぎて、置き場に困ると、妻からしかられた」と特権を放棄する者もいた。
問題は、忙しくてなかなかゲームに参加できず、カップの顔も見たことないという出資者がいたことである。「霊感商法うんぬん」の声が挙がったのも無理はない。底部組み込みの小杯の、外から見えないところではあるが、製作者として、本田さんと私の名が刻んであるのも疑惑を招いた。伊藤教授が気を利かせてくれたのだが、本田さんはともかく、私の場合、製作に携わったとは確かにいえなかった。
出資者はその後、海外に赴任したり、一層の激務についたり、退職したりで四散し、屋上のゲームも開かれなくなった。「霊感商法」の噂も、幸い立ち切れとなった。カップはいま、この世で最も深い愛情を抱いている本田さんに預けたままになっている。ときどき親戚の結婚式などに持ち込んで、自慢しているようだ。
伊藤廣利教授は、昨年暮れ、鍛金の仕事とは別の公務に多忙ななか、くも膜下出血で突然倒れ、亡くなられた。伊藤先生のお宅で、製作見物の合間にごちそうになった冷や麦の冷たさを思い出す。ご冥福をお祈りしたい。

《制作者、本田成親の証言》
1993年のことだが、私は当時週刊朝日の編集長だった穴吹史士さんの依頼を受け、「怪奇十三面章」というタイトルの連載コラムを執筆していた。悪魔の辞典風、手紙文風、現代歌物語風、科学エッセイ風、動物記風、私小説……と毎回ごとに文体を変えるというなんともアクロバティックな趣向のコラムだったが、凝りすぎたせいもあって編集者も読者もついに目を回し、死刑台の階段数と同じ十三回目の三十一文字風(短歌風)をもって連載は終了となった。そして、その打ち上げ慰労会が築地の朝日新聞社近くのお店でひそやかに行われた。出席者は、編集長の穴吹史士さんと副編集長の山本朋史さんに私の総勢三人だった。
下戸の身ゆえ、本来慰労されるべき自分のほうが慰労する側にまわる変則的な打ち上げ会になるだろうことは推測がついたので、私は二人を喜ばそうと思って制作したばかりの小さな純銀製オチョコを持参した。その燦然と輝く出来立ての銀盃は記念すべき私の初めての鍛金作品で、いまも手元に残っているが、実際にその盃にお酒を注いで飲んだのは、後にも先にも彼ら二人だけだった。
芸術的才能などまるでない私がその小さな盃を作るに至った経緯には、いまでも折々非常勤講師として講義に出向き、足し算や引き算(?)などを教えている上野の芸大が関係している。昔出向いていた大学を去り、フリーのもの書きになって暮らしていたある日のこと、芸大大学院美術教育研究室から講義の依頼が舞い込んできた。芸術などにはおよそ無縁のこの身にいったいなんでと戸惑いはしたが、純粋数学そのものを講義するのではなく、数学や論理学、コンピュータサイエンス、物理学など、数理科学一般の根底にある考え方をなるべくわかりやすく講義してほしいというのが先方の意向だった。院生の芸術的発想や論理的視点の啓発、先々の美術教育などになんらかのかたちで役に立ちさえすれば、講義の内容は問わないということだったので、結局、集中講義を条件にその依頼を受諾した。
昭和天皇の弟君、三笠宮親王なども客員教授として籍を置かれているその研究室に出向くことになった私は、数理科学の領域にとどまらず、身のほど知らずも承知のうえで、教育論、文学論、芸術論のジャンルにまで踏み込み、ここ十年余つたない講義を続けてきた。芸大生の名誉のために付け加えておくと、彼らにはけっして数学的才能がないわけではない。本質的、あるいは、潜在的能力という意味でなら、昔私が関わった大学の学生などよりも優れた人材がいるかもしれない。複雑なデザインや立体的造形表現に取り組む学生などは、無意識のうちに数学的思考を重ねているし、複雑な構造物の原理を直観的に見抜くには数学的才能が欠かせないからだ。
ところで、そんな私の愚にもつかない無責任講義を院生にまじって毎回欠かさず聴講してくださる教授があった。それが同じ研究室の教授で鍛金界の大御所、伊藤廣利教授だったのである。夜遅くまで大学に残り、折々惜しげもなく自腹を切って多くの学生と心の底から交歓し、幾多の人材を世に送り出したこの教授は、金工作家としても日本で三指にはいる大家であったばかりでなく、教育者としても大変にすぐれた人物であった。
そうこうするうちに、私は、埼玉県狭山市鵜の木にあった伊藤教授の工房見学に通うことになり、やがて教授に勧められて実際にに鍛金を教わることになった。絵画でも彫刻でも工芸でもそうだが、優れた作家の工房というものは様々な道具類が雑然と置かれていて、お世辞にも綺麗とは言い難い。しかし、工房は芸術家が全身全霊をかけ、汗みどろ血みどろになって苦悶苦闘する格闘技のリングのようなものだから、それは当然のことである。伊藤教授の工房が鬼気迫る様相をそなえていたことは言うまでもない。
天皇即位の儀に用いられた御物などを含む数々の第一級芸術品の生み出された工房のど真ん中を占領し、工房主が長年愛用した工具をちゃっかり拝借したうえに、図々しくも鍛金界の大御所を小間使いのようにこき使いながら、手取り足取りしてもらって出来上がったのが問題の盃だったのだ。素材を純銀にしたのはそれが素人にも扱いやすいから、また、初作品を盃にしたのは、盃造りが鍛金の基本だからだった。多少は腕の上がった現在から考えると、なんとも心もとない作品だが、私にとってそれは想い出深い一品だった。
さて、打ち上げ会の席上、その銀の盃で一杯やり終えた穴吹編集長は、急に思い立ったかのように、「これを拡大した形でも構いませんから、朝日新聞社内テニス杯用との大銀杯を造ってもらえませんかねえ?」とのたもうた。駆け出しの三文ライター、いや、百円ライター(?)にとって、一流週刊誌の編集長の声は「神の声」以外の何物でもない。しかも、その大銀杯にはある著名人の名前を冠したいとか、それなりにかかると思われる材料費の調達法については名案があるとか、工賃のほうは私に無料奉仕してほしいとか、はじめから話は相当に具体的だったのである。
とんでもない打ち上げ会になったもんだと銀のオチョコを恨めしげに眺めながら帰宅した私は、とりあえず伊藤教授に電話して事の次第を打ち明けた。すると、教授は、多忙な身にもかかわらず、「私が手伝ってあげますから、技術修練のつもりでチャレンジしてみるとよいでしょう。素材はこちらで準備しますから、カップのおよそのデザインだけは考えてきてください」と、即座に救いの手を差し伸べてくれたのだった。私は、カップの底部の台をひねるとそれが取り外せ、外れた台座を裏返すと別の小銀杯(といっても普通の盃の数倍はある)に早変わりするという、かなり凝った斬新なデザインを考え出したうえで、狭山の工房を訪れた。幸い、伊藤教授からもそのデザインはなかなか面白いとお誉めの言葉を賜った。
厚い純銀の延べ板から大きな円盤や短冊状の銀版を切り取り、それをバーナーで加熱しては各種工具を用いて徐々に叩きのばして狙いの形に近づけていくという、気の遠くなるような作業を私は一夏中続ける羽目になった。経済的にはなんの足しにもならない作業ゆえ、家族からは白い目で見られていたが、それ以上に大変だったのは、長期にわたって仕事場を占領されたうえに、このうえなく手のかかる「不肖の弟子」を抱えてしまった伊藤教授だったろう。芸大の学生相手なら怒鳴り飛ばせばすむところをじっと我慢し、自分の仕事はそちのけで指導しなければならなかったわけだから、そのストレスたるや想像に余りある。
ある程度形が見えてきた段階で制作依頼者の穴吹さんを呼び、進展状況を見てもらおうということになった。駆け出しの社会部記者だった頃、給料のほとんどをつぎ込んで女流の能面師に弟子入りし、かなりの出来栄えの面を彫るまでに腕を上げた(と聞いているが、いまだ実物は見せてもらったことがない)穴吹さんなら、鍛金にも必ずや興味を示してくれるだろうと思ったからだった。工房に現れた穴吹さんは、想像以上に立派な大銀杯が出来あがりつつあるのを目にしてさすがに驚いたらしい。
せっかくだからという訳で、穴吹さんにたしか二十槌か三十槌ほど裏杯の部分を叩いてもらった記憶はある。それ以上続けてもらうと、せっかくの苦労が水の泡になってしまいかねなかったので、そこまでで我慢してもらうことにした。
現実には、大杯と小杯の接合部や特殊な形状の側環の制作、微妙かつ高度な技術を要する特殊な曲面部の打ち出しや最後の表面仕上げなど、どんなに懇切な指導をしてもらったところで、私の手には負えないところも多かった。そういったところをすべて伊藤教授に作ってもらったことは言うまでもない。だから、この大銀杯の制作貢献度を敢えて比率で表わすとすると、<伊藤廣利:本田成親:穴吹史士 = 50:49.99:0.01> くらいの割合になっている。実質的制作者は伊藤成親(?)という実在しない人物ということになるのだろうか……。ともかく、こうして、どこに出しても恥ずかしくない大純銀杯が誕生した。
私は、「不肖の弟子」の自分と「不精の孫弟子(?)」の穴吹さんの名を外から見えない小杯の裏に製作者名として並べて彫ってほしいと伊藤教授にお願いした。鏨(たがね)を使って出来あがった銀杯に銘を彫りこむなどの芸当が我々にできるはずもなかったからだ。私と穴吹さんが各々の名前を紙に書いて渡すと、伊藤教授は見事な鏨さばきでその筆跡通りに銘を刻み込んでくださった。
穴吹さんの要請もあって、完成当時この大銀杯には、ある人物の名を冠した○○杯という杯名を刻んだ銀板が貼ってあった。だが、いろいろと複雑な事情などがあって、その後、杯名銀板はきれいに剥がされ、いまではすっきりした元の形に戻っている。「これはなかなか立派な作品だから、どうでもよい人物の名を直接に彫り込んだりはしないほうがよい」との伊藤教授の忠告を穴吹さんに伝え、急遽銀板貼り付けに変更したのだが、いまとなってみると正解だったように思われてならない。
この大純銀杯の材料費は、特製桐箱なども入れて十余万円にのぼった。当時の伊藤教授の話では、工賃は通常少なくても材料費の二~三倍はするそうだから、どう安く見積もっても四、五十万円はする。実際には、構造的にもきわめて珍しく、しかも、その銘こそ刻まれてはいないものの伊藤教授の手が五割もはいった作品だから、とてもそんな値段ではすまないだろう。
穴吹さんが書いているように、いまこの大銀杯は拙宅に一時保管されている。教え子の結婚式などのときに、なみなみと酒をついで新郎新婦の面前に飾られ、臨席者の目を驚かせたり楽しませたりしているが、本来の意図とは異なる目的に使われる銀杯のほうは、いささか面食らっているかもしれない。
このときの労働奉仕のお礼というわけでもないのだろうが、それからずっとのちになって、私は穴吹さんから手製の篆刻印象を二個頂戴した。穴吹さんは篆刻の特技をもっていて、常々交流のある人々に独特の味のある印象を彫って贈っている。現在私が愛用している「成親」という印章は、穴吹さんが大スランプで落ち込んでいたときに彫ったものなのだそうだが、何故かこれが当方のスランプ止めには抜群の効力を発揮するから驚きだ。もういっぽうのほうは、未公開のペンネーム用印章だが、こちらのほうもそろそろ活躍してもらうようにしなければと考えている。
なんとも残念なことに、伊藤廣利芸大教授は昨年十二月、通勤途中の電車においてくも膜下出血で倒れ、そのまま意識を回復することもなく他界された。過度な公務によるストレスが原因とも推察されるだけに、私はいまも唯々心残りでならない。「大学を退官したら郷里の四国に戻ってアトリエを構え、心底楽しみながら自然体で素材と向き合い、よい作品を造りたい。その日をいまは大いに心待ちにしているんです」という言葉は、教授の偽らぬ心境であったに違いない。
伊藤教授が急逝なさったとき、穴吹さんはたまたま大きな手術のために入院中だった。だから、私は穴吹さんには、退院が確定するまで伊藤教授の急な他界については一言も話さなかった。幸い、穴吹さんは元気で退院の運びとなったので、その時になってはじめて、伊藤教授の急逝を伝えたようなわけだった。
たとえ作りたいと思っても、このような大銀杯を作ることはもう不可能になってしまった。いまでは貴重このうえない存在となったその大銀杯は、伊藤教授の魂を秘めて、無言のまま私の部屋の一隅で何時くるかわからない出番をじっと待っている。

《制作指導者、故伊藤廣利芸大教授の証言:霊媒は本田成親が代行》
そうですねえ、本田さんが私の工房見学に現れたのはもう十年ほど前のことになりますかねえ。変に好奇心の強い人でしてね、要望を受けて工房見学に招いた私も、まさかあの人が実際に鍛金をやらせてくれと言い出すなんて思ってもいませんでした。あんなことになるくらいだったら、下手にあの人の講義を聴きにいくじゃなかったなあ。
仕方がないから、一番やさしい小さな銀の盃を作らせることにしたんですが、高価な銀をこちらが無償で提供し、さんざん手を煩わされたうえに、子供の粘土細工のような出来そこないの代物が誕生したわけで、いやはや参ってしまいましたよ。そのままでは、あんまり不恰好なので、私が少し手直しをしてあげたんですがね。もっとも、本田さん本人は初めての体験で大いに悦に入っていましたから、その点はよかったと思っていますよ。
でもあの銀の盃が打ち上げ会の席に登場したとは意外だったなあ。週刊朝日の穴吹さんもどういうつもりだったんですかね。まだ鍛金の「タ」の字も知らない本田さんの技術で大銀杯を作れなどと言い出すなんて……。いくらなんでも、本田さんだって相手の依頼が本気か冗談かくらいは区別がつくと思いますから、やはり、話ははじめから相当具体的だったんでしょう。本田さんがとても困っているようでしたから、ともかく手伝ってあげることにしましたよ。私もたまたま夏休みだったので、なんとか時間はとれたんです。
こんな形の大銀杯を作りたいと本田さんが差し出した見取り図を見て、私は内心、こんなものどう逆立ちしたって自力で作れるわけないだろうと思いましたよ。でも、あの斬新なアイディアだけは正直面白いなと感じました。伝統工芸が専門の私ですが、型破りの新しい発想というものはそれなりに大好きなんですよ。
大杯や小杯の受け皿の部分は本田さんが苦労して作りました。いくら銀が柔らかい素材だといっても、あのくらいの厚さになると切るのだって大変なんですし、まして、槌で叩いて徐々に曲面を作りだしていくなんてことは初心者にはけっして容易ではないんです。真夏なのに工房は冷房もきいていませんし、そのうえ火や劇薬類もずいぶんと使いますから、もう汗だくですね。大小の金槌や木槌を絶え間なく振るいつづけるだけでも、かねて使わないあちこちの筋肉を動かしますから、はじめのうち本田さんは身体のあちこちが痛かったんじゃないですか。その意味ではよく頑張りましたね。
正直に言って難しいところがずいぶんとありました。私もかなり苦労したほどですからね。本田さんが工房を使っているときは、どうしても気が散って私のほうも仕事になりませんから、どうせなら全面的に銀杯作りに協力して、一刻も早く物を完成させたほうがよいかと考えるようになりました。本田さんのペースに任せ、技術の向上を待っていたら、二年も三年もかかってしまったかもしれません。
ある人物の名前を冠した文字を銀杯の表側に直接に彫り込みたいという穴吹さんの要望を伝え聞いたとき、そんなことをしたらせっかくの作品の価値が下がるから、別の方法を考えたほうがよいと思いました。完成間際になると、私のほうにもそれなりの思い入れが生じてきていましたからね。結局、細長い純銀板にその人物直筆の文字を刻み、銀板の表面をいぶして、金属接着剤で本体の表面に貼りつけました。のちに、それを剥がすように依頼があったのでそうしたんですが、結果的にはよかったですね。
小杯と大杯裏の本田さんと穴吹さんの銘ですか、まあ、あれはあれでお愛嬌として結構なことじぁありませんか。本田さんがかなりの部分を作ったのは確かだし、穴吹さんはちょっと叩いただけだけど、最初に話を持ち出したのは彼だったわけで、どこまで本気だったかはともかく、その吹っかけがなければあの大銀杯は生まれなかったわけですから。半分ほどは私が手伝ったんですが、さすがに私の銘は入れられませんでした。私はプロですから、いい加減なことはできません。
あの大銀杯、いったいいくらくらいの価値があるかですって?……難しい質問ですねえ。私の目からみれば正直なところいろいろまずいところもありますが、構造とデザイン的にはきわめて珍しいものなので、全体的に評価すればそんなに悪いものではありません。もし売りに出すとすれば、買い手側の評価の問題もありますし、今後様々な状況が重なってプレミアがつくことも考えられますから、なんとも言えませんが、少なくとも、四十万や五十万円どまりということはないんじゃないでしょうか。ただ、制作者のお二人がお二人ですから、あの銘が逆効果となって、一挙に材料費以下の値段に暴落してしまう可能性はありますね。でも、私と本田さんが工賃を無料奉仕したわけだから、その意味では素材費だけですんだ穴吹さんがたは安い買い物をしたとは言えますね。
なにか言い残すことがあるかですって?……そろそろお盆だから一度くらいは墓参りに来るように本田さんと穴吹さんに伝えておいてください。あの大銀杯に上等のお酒を一本全部注いで、墓碑の上からかけてもらえると嬉しいんですがねえ。あっ、そろそろ霊界の工房に帰らなければならない時間です。ではこれで失礼しますね。
1999年8月4日

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