初期マセマティック放浪記より

38.ある沖縄の想い出(10) 沖縄発祥の地とイラブー余談  

沖縄戦の悲劇を遠く偲びながら首里丘陵をあとにした私は、本島東南端にある知念半島に向かって車を走らせた。知念半島沖合い一帯は、沖縄本島のなかではもっとも珊瑚礁の美しいところとして知られている。突端の知念岬には近代的な海洋レジャーセンターがあって、海中を展望できるグラスボートなども用意されていたが、時間の都合もあったのでそれには乗らず、明るく輝く青い海だけを眺めていた。南国の真昼の太陽にきらめき揺れる大海原には、あの忌まわしい戦争の影などどこにも感じられなかった。

知念岬を少し南にまわったあたりには斎場御嶽(せーふぁうたき)と呼ばれる聖地があった。その聖地につづく山道をしばらく上ると、ほどなく小さな広場に出た。その広場の右端は切り立った断崖になっていて、その断崖にもたれかかるようにして大きな岩が立っていた。沖縄創造の伝説よると、アマミキヨという創造神は、まず、この地の沖合いに浮かぶ久高島に降臨した。そして、そのあとこの斎場御嶽にわたってきたのだという。そのためこの地は、古来、沖縄本島第一の聖地とされ、琉球王朝歴代の国王も一年おきに必ず参拝に詣でるしきたりになっていたらしい。また、国王に次ぐ権力者であった聞大君(きこえのおおきみ)の即位式がおこなわれたのもこの聖地であったという。

東方の海上を見やると、なるほど、久高島のものと思われる島影が見えていた。話に聞くところでは、古事記にも登場し、沖縄発祥の地とされるこの小島では、十二年に一度イザイホーという古代から伝わる祭祀が催されるのだという。これは島の三十一歳から四十一歳までの女性がナンチュと呼ばれる巫女になるための洗礼行事で、島内の全女性が集まり、ノロという巫女最高位の女性がその祭祀全体を取り仕切る。

久高島におけるノロの権威は絶大で、かなりの私有地を与えられるほか、島唯一の特産品イラブー(エラブウナギ)の捕獲権も代々ノロに委ねられているのだそうだ。むろん、それは乱獲を防ぐための島民の知恵でもあったのだろう。

ちなみに述べておくと、イラブー(エラブウナギ)は、ウナギの三文字がついているからといって、すぐさま蒲焼に変身してくれるようなヤワな手合いではない。もちろん、ニューヨーク・ヤンキースで活躍中のあの方の親戚でもない。イラブーとは南の海に棲む毒蛇の一種なのだが、乾燥処理すると意外にも琉球王朝伝来の高級な食材と化す。当然、長期の保存も利く。海洋レジャーセンターの土産物屋に置かれているのを見てきたが、棒状のものとトグロを巻いた感じのものとの二種類があって、いずれも相当に高価なしろものだった。

久高島は全体が聖域であるだけに、島民はよそ者が多数訪れることを必ずしも好まないということだったが、時代の流れには抗しがたいとみえて、近年は民宿なども何軒かできているらしかった。美しい珊瑚の海に取り巻かれた周囲八キロの島内には、神話や伝説に彩られたスポットがいくつかあるとのことだったが、私は遠くからその島影を眺めるだけにとどめておくことにした。

余談になるが、いまや押しも押されもせぬ流行作家の乃南アサさんがまだ直木賞を受賞するずっと前のこと、沖縄土産だといって、私の住む府中まで、なんとも奇っ怪なシロモノを持参してきてくれたことがある。彼女は、「これを煮て食べると美味しいし、滋養強壮剤としての働きもあるそうですよ」と笑いながら、一メートルほどの細長い袋状の包みを差し出した。なんだろうと思いながら、私が怪訝な顔をすると、すかさず彼女は、平然とした顔で「久高島特産のウミヘビですよ、もともとは毒蛇だそうで…」と言ってのけた。

半信半疑でそっと包みを開いてみると、黒く細長い一本の棒のようなものが現れた。包みから引き出してみると、まさにカチカチに固まった黒いヘビの乾燥物である。おどろおどろしい三角の頭部には、ちゃんと目も口もついているではないか。黒緑色の光沢のある腹部や背中にあたるところを指先でそっと撫でてみると、ざらざらしたウロコ様の感触がした。気の弱い人なら悲鳴をあげて逃げ出しかねない迫力だった。

乃南さんは、これを十匹ほど束ねたものを手に携えて那覇空港から羽田行きの飛行機に乗り、羽田から中央線沿いの自宅に持ち帰ったらしいのだ。それらのなかの一匹を私のところへ届けてくれたときには包装してあったが、彼女が沖縄から持ち帰る際は、三角の頭部と尾部はほとんど剥き出し状態だったというから、周囲の人はさぞかし度胆を抜かれたことだろう。実際、飛行機や電車の同乗客のなかには呆れ顔で彼女のほうを見つめる人もあったらしい。繊細ななかにも豪放な一面を合わせもつ乃南さんらしい話なのだが、実は、これ、イラブーの乾物だったのだ。

家の者に「滋養もあって美味しいらしいから、尻尾のほうを少し切って食べてみるか」と誘いをかけてみたが、誰も返事をしてくれない。ならばと思った私は、もとの包装に収めたまま、しばらくお守り代わりに書斎の鴨居に飾っておいた。そして、来客があったときなどに取り出しては相手を驚かして楽しんでいた。ところが、そうこうするうちに乃南さんの直木賞受賞がきまったというニュースが飛び込んできた。そうなるともう食べるどころの騒ぎではない。一挙に「乃南海蛇神」に昇格したイラブー様は、いまや畏れ多き存在となって、我が家の客間に鎮座しておわすのである。

直木賞受賞の折、受賞作「凍える牙」に登場する狼犬にちなんで、背中に狼犬の足跡をプリントしたTシャツを特注した乃南さんは、そのうちの一枚を私にも贈ってくれた。「イラブー様」や「狼犬Tシャツ」に加えて、新刊が出るごとに贈呈してもらっている彼女の三十冊に近い初版本や折々頂戴する葉書などを大切に合わせ保管しておけば、何十年かのちには、「なんでも鑑定団」ものの逸品になることは間違いない。

さらに脇道にそれることになるが、ついでだから書いておくと、ずいぶん昔に個人的に知り合い、いまや私など足元にも及ばないくらいの活躍をするようになった女性は乃南さんのほかにも何人かある。のちに日本認で初めて認知科学会を組織し、いまやその分野の大御所になっている中京大学教授の三宅なほみさんと出会ったのは、彼女が研究成果を携えて米国留学から帰国し、東大大学院の佐伯胖研究室に一時的に通っていたときのことだった。コンピュータ教育の方法論や数学教育などに適したコンピュータ言語LOGOの活用法、教育用ソフト、コンピュータ通信一般などについて三冊ほど共著を出版したりしたが、その後の彼女の活躍は目を見張るものがある。

AI(人工知能)の世界、とくにインテリジェンス・アート・アンド・テクノロジイの研究分野で目下最先端の走る土佐尚子さんとの出会いもずいぶんと昔のことになる。ディスプレイの中の赤ちゃんが、人間の話しかけに応じて泣いたり笑ったり怒ったりしながら、次第に学習成長していく「ニューロベイビイ(インタラクティブ・キャラクター)」の研究開発者で名高い彼女にも、いろいろと愚にもつかないアドバイスをしたりした。今年三月、土佐さんからその後の研究業績を集約した学術論文集が送り届けられてきたが、ただ素晴らしいの一語に尽きた。学歴とは無縁のところからスタートし、文字通りの実力で階段を上り業績をあげた人だけに、いっそうの喝采を送り、今後の活躍を心から祈りたい。

NHKの「おはよう日本」の元キャスターで、大河ドラマのナレータとしてとしても知られる平野啓子さんと出会ったのは、彼女がまだ早稲田の学生のときだった。折につけていろいろ相談されるのをよいことに、私なりに励ましたり、柄にもない箴言を吐いたりして現在に至っているが、先年、彼女は、「鶴八鶴次郎」の語りで文部省芸術祭芸能部門の大賞に輝いた。語り芸術家として次々に新境地を開き、いまではその世界の第一人者となっている。NHK芸術劇場などでご存知の方も多かろうが、その迫力に満ちた語りは絶品と言ってよい。もはや貫禄十分で、NHKのキャスターになりたての頃のあのおどおどした姿はどこにもない。

薬師丸ひろ子主演の「ミセスシンデレラ」、キムタクと松たか子主演の「ラブジェネレーション」、深田恭子と金城武が熱演した「神様もうすこしだけ」、そして最近始まったばかりの木村佳乃主演の「パーフェクトラブ」と言えば、いずれも若者たちの間で大評判となったフジテレビ系トレンディドラマの大ヒット作である。深田恭子主演の「神様もうすこしだけ」などは、テレビドラマとしては放送史上最高の視聴率を稼いだりもした。これらのドラマのシナリオを書いたのは、いずれも現在売り出し中の浅野妙子さんである。浅野さんがまだ慶応大学大学院仏文科に在学中の頃からの付き合いだが、いまや彼女はトレンディドラマのライターとして花形的存在になっている。

決意を新たにした浅野さんがシナリオの勉強を始めた頃、ずいぶんと脇から煽ったり、時にはひどくけなしたりもしたものだが、苦節十年の末に彼女は見事開花した。一児の母として育児に精を出すかたわら筆を執る彼女の感性はますます冴え渡っていくようで、もはや私など及びもつかない。良家のお嬢様であったにもかかわらず変に行動力のある彼女は、余計なことばかり言う私がどんな所でどんな育ち方をしたのか気になったらしく、ある時私にはそ知らぬ顔をしてはるばる甑島を訪ね、我が家のご先祖様の墓参りまでしてきてしまった。

何日か前のこと、「AICにちょっとだけ昔のこと書かせてもらうよ」と電話したら、受話器の向こうで彼女はおかしそうに笑いながら、「その原稿ってお金になるんですか?」って尋ねてきた。不意打ちを喰らって、私が返事に窮したことは言うまでもない。いつもいつもマイナスのカードばかりを引いているこの身を案じての一言ではあったのだが……。

このほかにも、昔出会い、いまでは有能な編集者やフリーライター、あるいは翻訳家となって活躍中の女性はあるが、彼女たちには一つの共通点があるようだ。隠れた資質をそなえていたのはむろんだが、それ以上に重要なのは、その誰もが並外れた努力家であると同時に、けたはずれの集中力の持ち主でもあるということだ。不精で努力が嫌いな私などは、大いに見習わなければならないのだが、この生来の習性だけは如何ともなし難い。したがって、どんどん彼女たちに置いていかれることは当然の報いである。

女性の話ばかり書いたが、ささやかな過去の人生の中で煽り育てた男共もそれなりには存在しないわけではない。しかし、その連中の話のほうは、「いじめ」を兼ねた今後の原稿のネタとして、しばらくとっておくことにしようと思う。

イラブーの話が発端となっていささか余談が過ぎてしまったが、このへんで再び本題へと戻ることにしよう。

知念半島をあとにした私は、摩文仁の丘へと向かう途中で玉泉洞に立ち寄ってみた。玉泉洞は石灰岩質の隆起珊瑚礁が侵食されてできた鍾乳洞で、昭和四十二年、愛媛大学探検隊によって発見された。この鍾乳洞は全長五千メートルほどで、観光客に公開されている部分だけでも八百メートルはある。鍾乳石の総数は実に九十万本にものぼるという大規模な洞で、鍾乳石の種類の多さと洞内の景観の美しさでは国内屈指の存在と言われている。

軽い気持ちで洞内にはいったのだが、先の尖った硬質ガラスか水晶を思わせる無数の鍾乳石の輝きは、たしかに息を呑むような美しさだった。鍾乳洞の規模や全体的な荘厳さ、神秘性といった観点からすれば本土の秋芳洞や竜泉洞のほうがずっと上には違いないが、鍾乳石や石筍の造形の妙とそれらの繊細な美しさという点ではこの玉泉洞のほうが勝っているように感じられた。とくに、地底の密林、陽炎の国、白銀のホールなどと名づけられた特別なスポットの景観は圧巻だった。

それまでに本土の有名な鍾乳洞はほとんど訪ね歩いてきていたが、この玉泉洞の特有な雰囲気と洞内壁面全体の色合いは、私が過去に目にしたものとは明らかに異なるものだった。ひとつには、この鍾乳洞の鍾乳石が誕生したのが二十万年から四十万年前と、この種のものとしてはきわめて新しいものであることにもよったのだろう。

玉泉洞を出ると、すぐ隣合わせのところにある玉泉ハブ公園にも寄ってみた。猛毒をもつハブの特徴やその生態がよくわかるように工夫された展示館や大蛇展示場のほか、ハブ専門の研究所などが設けられていたが、どうやら観光客向けの最大の売り物は、コブラとその天敵マングースの闘いを見せるショーであるらしかった。ハブ対マングースではなく、あくまでコブラ対マングースであるところがミソである。

大きなニシキヘビなどが舞台に登場し、勇敢な女性観客の首の回りにそれが巻きつけられるといった前座ショーが繰り広げられたあと、問題のコブラ対マングースの決闘なるものが始まった。だが、それは、決闘とは名ばかりの、筋書きのきまった馴れ合いプロレスショーみたいなものだった。

コブラ:おいマングース、本気で噛みつくなよな。俺まだ死にたくねーからな!
マングース:おまえだって、このまえマジで噛みついたろうが。毒が回りかけたんだぞ!
コブラ:今日はあと三回もアホ面かいた観光客の前で戦わなきゃならねーからな。
マングース:じゃさぁ、噛んだふりするからよぉ、お前も噛まれたふりせーや。
コブラ:そんじゃ、俺、負けてばかりじゃん……。
マングース:わかったよ、三回に一回は俺が負けてやるからさぁ……。

まあ、そんな会話がコブラとマングースの間で交わされたかどうかは知らないが、毎回のようにコブラとマングースのどちらかが死ぬまで戦わせていたら、コブラやマングースが何匹いたって足りるわけがない。だから、決闘ショーのレフリー役を務める人間がほどほどのところで割ってはいってそこで終わりという寸法だった。冷静に考えて見れば、本物の死闘を期待するほうが虫がよすぎるというものだった。

玉泉洞とハブ公園の隣には、亜熱帯植物が鬱蒼と生い茂る自然公園があった。なんとなく近づきがたい感じのするところで、中を歩いてみたいという気分になったが、残念ながらそこに入ることはできなかった。実はその場所には数百年間も風雨にさらされた無数の白骨が山と積まれた古代の風葬の跡があって、以前は「死者の谷遺跡公園」として公開されていたらしい。しかし、観光地としてのイメージを損なうという地元関係者の意向もあって、近年は立ち入ることができなくなったとのことだった。たぶん、近くに沖縄戦最後の激戦地となった沖縄戦跡国定公園などがあることなども、そういった配慮がなされた背景となっているのだろう。

玉泉洞周辺を見学し終えた私は三三一号線に出て、いよいよ、沖縄戦終焉の地、摩文仁の丘へと向かうことにした。沖縄守備軍司令部が最後まで置かれていたところである。何気なく太陽陽を仰ぎやると、もうかなり西へと傾きかけていた。その太陽にせかされるように、私は車のアクセルを大きく踏み込んだ。
1999年7月14日

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