初期マセマティック放浪記より

36.ある沖縄の想い出(8) 首里城址守礼の門に立つ

翌朝は、ホテルを出るとすぐに首里城址を中心とする首里丘陵一帯を歩いてみた。首里を訪ねる観光客の誰もがするように、私もまた、まっさきに、いにしえの琉球王朝の象徴「守礼の門」の前に佇んだ。赤瓦を漆喰で固めた二層の屋根をもつ「守礼の門」は、琉球王朝最後の王統、尚氏によって四六〇年ほど前に建立された。沖縄独特の建築様式をそなえた本来の門は明治時代に国宝に指定され、大戦前までその偉容を誇ってきたが、先の沖縄戦で戦火にさらされ焼失した。現在の守礼の門は、文部省に保管されていた古い設計図をもとに、昭和三十三年に復元されたものである。

「守礼の邦」と大書された額が門の中央に高々と掲げられているのを目にしながら、私はなんとも空しい想いにとらわれていた。沖縄戦の最中に、なによりも守礼を重んじた琉球王朝ゆかりのこの地でかつて起こった出来事は、あまりにも「守礼」の教えとはかけ離れた蛮行愚行そのものだったからである。おなじ「しゅれい」でも、「守令」、すなわち、「軍務命令を盲目的に守ること」が最優先された結果、終戦直前、この地には文字通り阿鼻叫喚の一大生き地獄が出現した。

現在では首里城も復元公開されているようだが、当時はまだ、守礼の門のほかには首里城の正門だった歓会門と第四門の久慶門が復元されている程度だった。私はそれらの門をひとめぐりしてから、少し坂を西に下って、尚円王統歴代の墓陵、玉陵の前に出た。玉陵は琉球王朝中興の祖と言われ、中央集権を確立するいっぽう、海外貿易でも広く名を馳せた名君尚真王が、一五〇一年、父王尚円王の遺骨を改葬するにあたって建立した第二尚家の墓陵である。高さ二メートルにも及ぶ琉球石灰岩の石垣で囲まれた、広さ二四〇〇平方メートルにも及ぶこの壮麗な墳墓は、海洋民族として自由奔放に南海交易に活躍していた当時の沖縄人の豊かさと、建築技術の高さとを偲ばせた。

堅牢な石造りの家を想わせる三基の墓室の中央には洗骨前の遺骸を安置し、左側の墓室には国王と王妃、右側の墓室には王子及び王女の遺骨を納めるしきたりになっていたという。民俗学者の柳宗悦が、「ただ琉球最大の墓陵であるというのみならず、その幽玄さにおいて匹敵しうるものは世界においても稀であろう」とまで賞賛したこの玉陵も沖縄戦の際には猛烈な砲火にさらされ、大きな損傷を被った。幸いなことに、その後、復元修復作業が進み、近年ではほぼ原型を取り戻しつつあるようだ。

首里城址のあるこの丘陵一帯にかつて存していた古都首里は、京都、奈良に次ぐ文化財の宝庫だった。戦火に包まれる前の首里城内外には、国宝に指定された建造物だけでも二十二件が存在し、重要文化財にいたってはその数が知れぬほどであったという。米軍の進攻に備えた沖縄守備軍の主力部隊は、大本営の意向をうけ、米軍主力を一刻でも長く沖縄にとどめ極力抵抗を図るべく、首里丘陵ならびにそれに連なる丘陵地帯に布陣した。北方を見下ろす戦略上の要所をつないで防御線を張り、トーチカ(地下壕)を掘りめぐらして、読谷村方面に無血上陸した米軍が南下するのを迎え撃つ戦略をとったのである。

牛島満中将率いる沖縄守備軍司令部のおかれた首里丘陵周辺は、当然その防御線の最中枢部に位置していた。沖縄守備軍主力部隊は、膨大な量の国宝建造物や重要文化財群を地上の盾とし、布陣していたようなもので、なかでも守備軍司令部などは、首里城の地下の壕深くに置かれていた。まさか守備軍トーチカの上部やその近辺に貴重な文化遺産群があれば米軍は攻撃を控えるだろうなどと考えたわけでもないだろうが、ともかく、この迎撃戦略は沖縄の歴史と文化に不幸きわまりない災厄をもたらした。

京都や奈良、鎌倉などが空襲を免れたのは、それらの地域の文化財の重要性を熟知した欧米の研究者や米軍関係者がかなりいて、彼らが懸命にその保護を軍上層部に働きかけた結果であった。米軍側の記録によると、米軍沖縄方面司令部関係者にも、古都首里を中心とした一帯の文化遺産の貴重さを知り、その破壊と焼失に心を痛めた人物はそれなりにあったようである。だが、沖縄守備軍のとった首里丘陵における一大トーチカ作戦は、首里城をはじめとする文化遺産の救済を決定的に不可能にしてしまった。

沖縄戦の中でも日米主力部隊が正面から激突した首里攻防戦は苛烈をきわめ、事実上の勝敗を決める戦いとなった。そして、それに伴い、膨大な数の人命損失と貴重な文化財の破壊が起こったのだった。その破壊と殺戮の凄まじさは、一六〇九年の薩摩による琉球侵略などとは較べものにならない規模のものだった。日米両軍の戦闘が熾烈のきわみに達したとき、首里城周辺の主陣地に対しては、四〇分間に一万九〇〇〇発もの大型砲弾が撃ち込まれた。首里攻防戦全体を通してみると、首里市街や周辺の山野では一平方メートルあたり四、五発の砲弾が炸裂したことになる。

皮肉なことに、この時の米軍第二十四軍団砲兵指揮官は、後年、名軍政長官として知られるようになった、ジョセフ・シーツ少将であった。戦後軍政長官として沖縄に赴任すると、自らが破壊した沖縄を自らの手で再建復興するのだと宣言し、地元住民のために力のかぎりを尽くしたという。彼の軍政長官離任に際しては、沖縄の人々が留任運動を起こしたほどであったらしい。有能な職業軍人としての砲撃指揮の任務と、一個の人間としての人類の歴史文化に対する畏敬の念とのはざまにあって、おそらくこの人物も、戦中戦後の時代を通し、深い内面の苦しみを味わっていたに違いない。

一九四五年四月二十日前後に始まった首里攻防戦が五月二十九日の沖縄守備軍の南部撤退によって終わりを告げたとき、首里丘陵はいたるところで変形をきたし、美しい古都首里は、膨大な文化遺産ともども、隅々にいたるまで無残な瓦礫の山と化していた。「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊)の中に、破壊される直前に米軍が写した首里城周辺の航空写真と破壊され尽くした直後の同城の写真が掲載されているが、それらがほんとうに同じ場所を写したものかと我が目を疑うばかりである。

日本古来の伝統と文化を守ると称しながら、実は守るべき日本の伝統や文化について最も無縁であった人々によって導かれた戦争の、それは当然の帰結であった。また、それは国体護持という空疎なお題目は知っていても、日本文化の本質とその真の重要性を具体的にはほとんど学ぶことをしていなかった、我々自身の父母や祖父母を含む日本国民一人ひとりの愚かさの終着点でもあった。国やその政体は一時的に滅びても、民族やその本質的な文化は脈々と息づきながらえるものであり、また、そうであるべきだという「世界の歴史の常識」を日本人はまったく学んではいなかったのだ。厳しい言い方をするならば、日の丸をむやみやたらに振り回すことが歴史だと錯覚していただけのことである。

玉陵を見学し終えた私は、そのあと沖縄県立博物館を訪ねてみた。この博物館が現在のかたちになるまでには、さまざまな紆余曲折があったようである。終戦直後のこと、沖縄の文化財のすばらしさを知った米軍のハンナ少佐と彼の仲間の軍属は、瓦礫の山を掘り起こし、文化財の断片を収集した。そして、それらの収集品を恩納村に造った沖縄陳列館(のちに東恩納博物館と改称)に展示した。いっぽう、首里に住む一部の地元有志も自らの手で文化財の破片を拾い集め、それらをもとに沖縄郷土博物館(のちに首里博物館と改称)を開設した。そして、一九五三年にこれらの二つの施設が合併して琉球政府立博物館となり、一九六五年に尚王家屋敷跡を購入、米国より援助を受けてその地に新館が建てられた。

その間、博物館として全国的に琉球関連文化財の収集運動を展開、米国政府や米国在住の沖縄関係者にも協力を呼びかけ、戦乱の最中に滅び潰え去ったかにみえた琉球文化の面影を、一部分ではあるがかろうじて蘇らせることに成功した。一九七二年の沖縄日本復帰に伴い、名称も沖縄県立博物館と改称され、現在では収蔵品も二万点を超えるようになっているが、その礎は文化を深く愛する沖縄住民や心ある米軍有志たちの尽力によって築かれたものであったのだ。

博物館の展示室は、歴史、自然、美術工芸、民俗の四室と、大嶺薫コレクションコーナーの計五室に分かれており、それぞれの角度から沖縄を眺めることによりそのおよその全体像をつかむことができるようになっていた。さらに、日本本土の縄文、弥生、古墳時代などに相当する貝塚時代、城(グスク)が成立し統一国家が形成されていく時代、南海交易の拠点として発展し中国と冊封関係を結ぶようになる大交易時代、薩摩の植民地となって以降の江戸期の時代、そして明治から昭和にかけての時代と、各時代の沖縄像をそれなりに展望できるような工夫もされていた。

また、進貢貿易の様子や明との冊封関係、薩摩や江戸幕府との関係などを伝える諸文物、琉球の人々の生活を偲ぶことのできる各種民具などの民俗遺産もかなりの数展示されていた。それらは、戦火の中で失われたものに較べれば大海の一滴にも等しい残存文物ではあったが、「鉄の暴風」という言葉が示す通りの想像を絶する破壊の嵐のことを考えるならば、それだけのものが残っただけでも奇跡であったというべきだろう。

米軍の個々の戦闘部隊に配属されていた軍政要員たちは、上陸前に沖縄に関する全般的な情報を要約網羅した小冊子を配布されていたので、本島内の住民のおかれた厳しい状況についてはかなりの予備知識をもっていた。だが、上陸後に彼らの目に映った沖縄の実情は、想像していたよりもずっと悲惨なものであったらしい。そんな沖縄の実態をレポートするなかで、彼らのある者は、「軍政下の住民は誰もが恐怖におののいているが、そこには一つの不吉な予兆がはっきりと見てとれる。それは若い青年が一人もいないことだった。そしてまた、若い女性も異常なまでに数が少ないことだった」とも述べている。

米軍第六師団の通訳S・シルバーソン中尉などは、「自分が見た地元住民は、全員六歳以下もしくは六十歳以上だった」とさえ報告している。複数のそのような報告を総合的に分析していく過程で、米軍司令部は、地元の若い世代のすべてが守備軍の支援に動員されたことにはじめて気づいたのであった。

激戦の火ぶたが切って落とされるかなり前から、戦場となる一帯には、着の身着のままの姿であてどもなく逃げ惑う何千人もの地元住民があって、米軍軍政要員の手によって後方の住民収容所に次々と収容されていったという。戦闘開始に伴って当然その数は激増した。だが、生死にかかわるほどにひどい栄養失調にかかっていても、米軍に収容された人々はまだ恵まれたほうだった。負傷し戦場に放置された人々や、戦禍の中で親兄弟を失った幼児たちの多くは、米軍にすら発見されることなく次々に餓死したり、爆死したりしていった。戦場のいたるところで悲惨な幼児たちの姿が見られたという記録を米軍は残している。

質、量ともに圧倒的に勝る火器、艦船、航空機を擁する五四八〇〇〇人の米軍団に対する一一六四〇〇人の沖縄守備軍の兵力と備えは、あとから考えてみるとあまりにも貧弱に過ぎた。しかし、守備軍司令部は、開戦当初は自信満々であったらしい。そのことは八原高級参謀の発言に関する記録(「これが沖縄戦だ」より引用)にもうかがえる。

「敵は予想に反し、ほとんど我が軍の抵抗を受けることなく、このまま上陸を完了するだろう。あまりの易々たる上陸を、さては日本軍の防衛の虚を衝いたのではないかとばかり勘違いして小躍りして喜んでいるのではないか。否、薄気味悪さのあまり、日本軍は嘉手納を取り囲む高地帯に退き、隠れ、わざとアメリカ軍を引き入れ、罠にかける計画ではないかと疑い、おっかなびっくりの状態にあるかもしれぬ」

「第十軍司令官バックナー将軍が率いる主力の四個師団は、アッツ島以来繰り返されてきた日本軍の万歳突撃を予期しているだろうが、首里山上の守備軍首脳はまったくそんな突撃態勢をとる気配を見せない。ある者は談笑し、また他の者は煙草をふかしながら悠々と前線を眺めやっているが、それは何故かと反問したに違いない。日本軍は数ヶ月も前から首里北方地帯に堅陣を敷いて米上陸軍をここに誘い込み、一泡も二泡も吹かせる決意でその準備を整え待っていたからだ」

米軍の近代的物量戦略の凄さを知らぬ大本営や守備軍司令部のこういった甘い判断は、結局、独りよがりの自己満足に終わり、その結果、多くの沖縄住民をも悲惨な運命に導いていくことになるのだが、それはまた、世界の趨勢というものを合理的かつ客観的に見る目を持たなかった、また持とうともしなかった当時の日本国民一人ひとりの責任でもあったのかもしれない。ではどうすればよかったという話になると、すべては結果論に終ってしまうのだが、現代の我々が、せめて沖縄の悲惨な歴史に何かを学ぶことくらいのことは必要であろう。それも、単なるイデオロギーの糧としてではなく、左右の思想を問わない、合理的かつ冷静な視点に立った判断力と、できるかぎり透徹した歴史的想像力をもってである。
1999年6月30日

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