初期マセマティック放浪記より

28.黒鯛釣り紀行 続・黒鯛釣り紀行

黒鯛は信濃に棲む?

友人の米沢慧さんから、三河湾を抱える渥美半島突端の伊良湖岬沖に黒鯛釣りに行かないかと誘われる。米沢さんは、私が中年暴走族に仕立ててしまった評論家。老年暴走族に近いんじゃないかという口さがない連中もあったりする。米沢さんの大学時代からの親友で、私とも付き合いの長いジャーナリストの玉木明さんも同行するとのこと。この三人が一緒に出かけたら、ろくなことにならないことは目に見えている。

今回の鯛釣り旅行は、私のマニュアル・ワンボックスカーではなく米沢さんのオートマ乗用車で出かけることになった。四月二十一日水曜の午前七時にJR阿佐ヶ谷駅南口で待ち合わせ、直ちに出発。コース取りはいっさい私に任せるということになる。
  練馬インターから関越自動車道に入り、群馬方面に向かって北上開始。藤岡で上信越自動車道に分岐し長野県北部を目指す。「山国信濃に黒鯛が棲んでるわけないだろ、おまえらアホとちゃうか?」」と笑われたら、「はいアホでんわな!――まあ、なるようになりまっしゃろ」と素直に自分らのいい加減さを認めるのみ。一切の責任はこの私に。出発時どんよりと曇っていた空は北に向かうにつれて徐々に晴れ上がり、やがて快晴に。行き当たりばったりの我々に協力的なお天道様も、かなり気まぐれな方ではあらしゃりまする。

野原や山肌を覆うやわらかな緑と、その中に点在する白い山桜のコントラストが実に素晴らしい。この季節ならではの美しさだ。緑と一口に言っても、何十種類もの緑がある。色調と彩度の異なる多様な緑の織りなす風景に三人ともひたすら感動。晩春から初夏にかけてのこの美しさに無感動な人が最近増えているとも聞くが、もったいない限り。どんな緑も同じ緑色にしか見えない色彩オンチのせいらしいのだが、なんともはや……。

怪異な岩峰の連なる天下の奇勝、妙義山が車窓左手に大きく迫る。かつて画家の須田剋太が、画境を極めるために単身この山深くに籠ったことはよく知られている。何年か前、若狭の農民画家渡辺淳さんを案内して、私もこの妙義山の岩峰周辺をうろつきまわった。妙義山から目を転じ前方を仰ぎやると、残雪を戴いた浅間山が雄大な姿を見せてはじめた。

長いトンネルの連続する山間部を抜け信州佐久平に入ると、風景は初春のそれに変貌した。「春まだ浅き信濃路の…」と歌の文句にもある風景だ。むろん、年配の方なら、島崎藤村の詩の一節「緑なすハコベは萌えず 若草も藉(し)くによしなし」を想い出すことだろう。車の進行につれて、左手に千曲川の流れが深々と刻んだ断崖と、その上部に広がる台地が見えてくる。小諸から北御牧村にかけての台地で、作家の水上勉先生在住の勘六庵のある下八重原もその一角に位置している。そういえば、最近、北御牧村でも新たなオウム騒動が起きてもいるようだ。

美しい山村風景

更埴で長野自動車道に入り麻績村(おみむら)方面へ向かう。伝説の姨捨山が前方に大きく姿を現す。姨捨山は冠着山とも呼ばれている。「なんで爺捨山がないのか、これは男女差別の証ではないか!」と世の賢女方から詰問されても私には返答のしようがない。日本のどこかには爺捨山もあるのだろうか。もしそんな山があるようなら、二・三十年後には我々三人もそのお山の厄介になるやもしれない。

姨捨山トンネルを抜けてすぐの麻績インターで高速道から一般道におりる。この麻績インターからすぐの坂井村保養所冠着荘は、美人の湯と呼ばれるよい泉質の温泉の湧く宿泊施設だ。この一帯に実際美人が多いかどうかは未確認。近くの田圃にはヒメボタルが多数生息しており、六月末から七月中旬にかけてのホタルの乱舞は見ごたえがある。聖高原駅前を過ぎて聖湖まで急な山道をのぼり、そこから聖高原へ。聖高原一帯の樹林はまだ冬の眠りから目覚めていない。

聖高原を越え、大岡村へ向かってしばらく下るといっきに展望が開けてくる。この地点からの北アルプス連峰の大パノラマは絶佳の一語に尽きる。地元以外の人にはほとんど知られていないが、お薦めの北アルプスビューポイント。大岡村は私が大好きな山村の一つで、早春から初夏にかけての自然の景観は抜群。折しも桜の花が満開だった。左手に北アルプス連峰を望みながら、大岡村のなかほどを横切るかたちで信州新町へと下る。

犀川を渡り、信州新町から小川村方面への山路に入る。このあたりも典型的な山村で、絵に描いたような昔ながらの山村風景が続く。峠道からの北アルプスの眺望はやはり素晴らしい。このドライブコースにすっかり感動した同行の二人からは、同時に、よくもまあ、こんなルートを知っているものだと呆れられる。鯛釣りのことなど、遠の昔に忘れてしまったような様子。伊良湖岬沖では黒鯛がケラケラ笑っていることだろう。

小川村から鬼無里村に抜ける山路の両側に広がる風景はさらに感動的。「美しい日本の山村」のお手本として、NHKテレビの朝の番組かなんかで紹介されてもおかしくない。日本昔話の世界にタイムスリップしたみたいだなどと話しながらどんどん道を登っていくと、小川村の売り物である北アルプス展望台に出た。槍、穂高方面から常念、鹿島槍、五竜、唐松、さらには白馬鑓、白馬にいたる北アルプス主峰が、眩いばかりの白く輝きを見せて我々の視界いっぱいに迫ってきた。

観光ガイドブックなどにはほとんど紹介されていないが、ここは北アルプスの撮影スポットとして写真家の間では昔から知られてきた場所だ。ドライブの好きな人はぜひ一度訪ねてみるとよい。私が初めて訪れた頃は一帯はまだ自然のままになっていて、いまのように立派な展望所は設けられていなかった。道路も細いダートだった。

かなりの標高のある小川村の北アルプス展望所から鬼無里村に下る。眼前に聳える岩だらけの険しい山は戸隠山、その右後方に見えるのは黒姫山。鬼無里からは左にルートをとり白馬村へと向かう。水芭蕉で有名な奥裾花峡入り口を過ぎ、峠のトンネルを抜けると、まだ一面雪に覆われた五竜、唐松、白馬鑓、白馬岳がすぐ目の前に大きく浮かび上がった。

昔は何度も登った山々だが、残雪の多いこの時期にもう一度登れといわれたらちょっと考えてしまう。

白馬から青木湖畔、大町、松川村と走り、穂高町の手前から安曇野の西端を縫う山麓線に入る。この道沿いには様々な美術館や工芸館などがあり、景観も風情も抜群。碌山美術館で知られる穂高町には、私の知人で風景カメラマンの上條光水さんが経営する蕎麦屋などもある。このお店の蕎麦は絶品中の絶品だが、遅めの昼食をすませたばかりだったので今回は通過。

現在私がその一代記を執筆中の石田達夫という八十余歳の怪老人宅の近くに差しかかるも、立ち寄らず先を急ぐ。以前、穴吹史士キャスターをこの謎の怪人物に引き合わせたことがある。波乱万丈かつ奇想天外なその人生模様については、乞う御期待とでもいったところ。脱稿前にもしかしたら天国へ……なんて軽口を叩いても、十三日の金曜日をこよなく愛するこのドラキュラ老人は平然としたものである。

これも最高の蕎麦を食べさせてくれる大梅蕎麦の前を通過。この店は午前十一時に開店し午後三時には閉店という殿様商法を貫いている。「大梅」という店名は「おお、ウメー」をもじったものとか……確かに蕎麦の味は「ウメー」と思わず呟きたくなるくらいに美味しいのだ。この蕎麦屋の調理場は窓が大きくとってあり見晴らしがいいのだが、反対側の客室のほうはまったく外の景色が見えない。この店の主人いわく、「お客は一時間もすれば帰ってしまうが、店で働く我々のほうは、何時間も何日もそして何年も同じ場所で仕事をしなくちゃならない。調理場のほうの見晴らしをよくするのはあたりまえだ 」とのこと。どこまで本音かはわからないが、なかなかの蕎麦哲学なのだ。

信濃から飛騨へ



やわらかな緑に包まれはじめた山麓線伝いに堀金村、梓川村、安曇村と走り抜け、奈川渡ダム、沢渡、上高地入口、そして、昨年開通した安房トンネルをくぐって岐阜県側の上宝村平湯に出る。急峻でカーブの多い安房峠を越えていた頃は、道が混雑していなくても上高地入口から平湯まで一時間ほどはかかったが、新トンネル経由だとたった五分。雨期や積雪期に通行止めになることもなくなったが、風景のほうは峠越えの道に較べてなんとも味気ない。

新平湯、栃尾温泉を経て蒲田川沿いの道を新穂高温泉に向かって走る。右手に焼岳、左手に笠ケ岳、そして前方に穂高連峰と、いずれの山々も全身に白銀の衣をまとって高く鋭く聳え立つ。槍ケ岳だけはちょうど雲に隠れていて見えないが、いつ見てもここからの眺めは絶景というほかない。雄大な景観を楽しみながら中尾温泉経由のルートで新穂高ロープーウエイの駅のところまで行ったあと、槍見橋付近まで引き返し、近くの駐車場に車を置いて橋の下の露天風呂に飛び込む。飛騨地方にやってくるたびに、私はこの露天風呂のお世話になっている。

きれいな単純線で湯加減も長湯にぴったり、しかも、自然の大岩に囲まれた広い湯舟の底は小さな玉砂利で出来ているから気持ちのよいことこの上ない。お湯は有り余るほど湧き出ていて、溢れた分はすぐ脇の蒲田川の清流に小滝をなしてどんどん流れ落ちている。周辺の眺めもいうことない。温泉宿に付属したエセ露天風呂ならわんさとあるが、自然美に恵まれ、湯量も豊富で、しかも誰でも無料ではいれる本物の露天風呂は、当世めっきり少なくなった。

さらに素晴らしいことに、この露天風呂は混浴だ。この時は、我々三人のほかには相当年齢の離れた一組の男女だけ。そのカップルはなんとも仲がよく、我々はアテられっぱなし。「どうだ、オメーら羨ましいだろうが」という中年男の得意げな心の呟きが聞こえてきそう。「よーしゃっ、そんじゃ、こっちも頑張るか……」と闘志だけは湧いてきても、この場でいますぐに対抗できるものでもない。

癪(しゃく)だからいう訳ではないけれど、そのカップルの女性のほうが四、五十代で男が十代か二十代の若者だったらもっと絵になったろう。逆のケースはこの時代ありふれている。ただ、何事も男女平等が叫ばれる時代だから、そう遠くないうちに事態は逆転するかもしれない。つい最近、浮気は仕事の活力源だとのたもうた検察畑のお偉いさんなんども、たまにはお忍びでこんなところに来てたのだろうかと、よけいなことまで考えた。

「不倫」という言葉は「人の道にはずれる」という意味らしいが、老いも若きも、お偉いさんも一般庶民も、男も女も自ら進んで婚外交際を楽しむことが普通になったこの時代、その行為を表すのに「不倫」などという旧態然とした表現を用いること自体問題なのかもしれない。攻めるも守るもフリンフリンになったいま、そろそろ「不倫」という言葉を「従倫」、すなわち、「人の道に従う」とかいったような意味合いの表現に改めたらどうだろう。

むろん、その場合、「不倫」の二文字は、きわめて厳格で品行方正なごく一部の人々のみに冠せられることになる。そうすれば、詰まらぬ騒動なども少しはなくなるのではないか……いや、やっぱりなくならないだろな、私を含めた愚かなこの国の民衆の精神レベルでは……。

そんな取り留めもないことを考えながら一時間近くも露天風呂につかっていると、さすがに全身がぐったりしてきた。すっかり日も暮れてきたことだし、そろそろ宿に入るかということになる。体を拭いて車に戻った我々は、露天風呂のある場所からそう遠くない栃尾荘という民宿に飛び込んだ。中年男どもの一日の行程としてば、放浪というより暴走に近い、いや、暴走そのものだ。軟弱化が叫ばれる当世のひ弱な若者連中には、こんな真似をする輩などそうそうはいないだろう。

出された山菜料理を平らげたあと、せめて宿泊料金の元だけはとらねばと貧乏人根性を丸出しにした我々は、先刻の長風呂でぐったりした体に鞭打って、また性懲りもなく宿の露天風呂に長々と浸り、疲れを癒した……んじゃなくて、疲れを溜め込んだ。

さすがに皆とろーんとしてきたので、ニュースステーションをちょっと見ただけですぐに寝入ったが、朝までぐっすり眠ったかというとそうでもない。ちゃんと、深夜三時には目を覚まし、日本のアンダー・ツゥエンティ・サッカーチームがウルグァイを二対一で撃破するのを見届けた。試合が終わったのが午前五時近く……翌日は七時起床、本番の黒鯛釣りはまだまだこれから……いったいこれからどうなるんだろうと呆れ果てながら、あらためて眠りに就く。

東洋のキリマンジャロ、木曽の御嶽山



翌朝は七時に起床、宿の露天風呂に飛び込んで眠気を覚ます。頭上に広がる青い空、今日も晴天。朝食をすませると直ちに出発。中部地方を半ば縦断するかたちで南下し、夕刻までには豊橋市の加藤幸正宅に着かねばならない。加藤さんは米沢さんの長男のお嫁さんの父君で、我々三人を黒鯛釣りに招待してくださった御当人。栃尾温泉近くの酒屋で、民宿の主人推奨の地酒「神代」をお土産に購入。

栃尾から新平湯を抜けいったん平湯に戻り、丹生川沿いに高山方面へ下る。白銀を戴き陽光にきらめく乗鞍連峰の大きな山容は圧巻。あちこちに咲く白いコブシの花も見事。乗鞍スカイライン入口を過ぎしばらく行くと、円空仏の収められた祠のある日面地区にさしかかる。ここの明郷とかいう蕎麦屋の蕎麦は美味かったなあと思いながら通過。文学談議の好きなあの女将は健在だろうか。

そこからしばらく下ると、高山方面に向かって右手に大きな飛騨の古民家を改装したお店が現れた。小八賀園である。このお店には、昨年秋、ある雑誌から依頼された飛騨紀行の取材の途中でふらっと立ち寄ったが、落ち着いたお店の雰囲気、出された焼き肉定食の飛騨牛のうまさと通常の二倍はあるその量、その他の新鮮な素材の素晴らしさとこまやかな心尽くし、そして何よりもその値段の安さに感激した。店主の林崎藤治郎さん御夫妻もとても素敵な方々だった。今回は先を急ぐのでここも通過。

高山に入る少し手前で左に折れて市街を迂回、国道四七号に出たあと久々野町まで南下、そこから飛騨川沿いに朝日村方面へ向かう。万石の集落を過ぎたあたりから、前方に雪冠を戴き高々と聳える御岳山の姿が見えはじめる。朝日村、高根村、開田村一帯から眺める御嶽山は実に美しく、「東洋のキリマンジャロ」と呼ぶにふさわしい。

ただ、一言断っておくと、私はキリマンジャロの勇姿を写真や映画の画像でしか見たことがないので、ほんとうにその名がふさわしいかどうかには責任がもてない。どなたかぜひ確認のほどを……。普通、御嶽山というと木曽路を連想するのだが、地形の関係で木曽路方面からは御嶽山の全貌を眺めることはできない。御嶽山ファンはぜひ朝日村、高根村、開田村へ。

秋神ダム、権現トンネルを抜けて高根ダム、そして野麦峠へ続く道との分岐点へ。野麦峠越えの道は積雪のためまだ閉鎖中。女工哀史にもあるように、高山方面から諏訪、岡谷一帯の紡績工場へ向かう十代の若い娘たちは、かつてこの道をたどり、標高一六七二メートルの野麦峠を越えて木曽路の藪原や奈良井に入った。そしてそこからさらに、千五百メートルの権兵衛峠を越えて伊那谷に入り、伊那から谷伝いに岡谷方面へと向かったと伝えられている。

長峰峠を越え高根村から開田村へ。開田村一帯は、馬高は低いが足が太く馬体のがっしりした木曽馬の産地として知られたところだが、いまでは純粋種はもうほとんど残っていないという。当時テレビ出演したとかいう純粋種の木曽馬を十数年前にこの近くで見たことはあるが、その後の情況はわからない。国道三六一号の木曽街道から分かれて御岳山麓の開田高原を縫う県道開田三岳福島線に入る。朝日村の万石あたりからは前方に大きく聳え立って見えた御岳山が、右手車窓のすぐそばに迫る。高度が上がったせいもあって、周辺の木立はまだ冬の眠りの中。その分、見通しはきく。車窓左手には木曽駒ケ岳を中心とする中央アルプスの美しい峰々が見えてくる。むろん、中腹から上はまだ雪に覆われている。

米沢さんに運転を代わってもらうため道路脇に車を寄せ、何気なく時間を見ようとしたがどこにも腕時計が見当たらない。トランクの中のバックやナップサックを隅々まで探してみたがやはり見つからない。宿を出るとき忘れ物はないかとあれほど確認したのに、肝心の時計を忘れてくるなんて、どうやら我が身にもボケがまわってきたらしい。知人のシチズン中央技術研究所長からプレゼントされた特製試作品のエコ・ドライブ型腕時計だが、いまさら栃尾温泉まで引き返すわけにもいかないので、どこかで宿に電話し、見つかったら自宅に送ってもらおうと思う。

ところがその時、何かに思い当たったような感じの米沢さんが、「これもしかしたら本田さんの……?」と言いながら腕時計をはずして差し出すではないか。そういえば、テーブルの上にあった米沢さんの時計と私の時計とは形や色がかなり似ていたなあと思いながら、その時計に見入ると何となく自分の物であるような、そうでないような……。その次の瞬間、時計の裏蓋をじっと見つめた米沢さんが、「あっ、これ、オレのじゃないや!」とストンキョウな声を上げる。米沢さんが自分の左腕を確認すると、なんとそこにはもう一個の腕時計が……。米沢さんは宿を出る前にうっかりして二個の腕時計を左手にはめたものらしい。米沢さんのスーパーボケ技に感謝、そしてまた感謝!

南木曽から馬籠宿へ



木曽福島と上松の中間にある元橋で国道十九号に合流し同国道を南下。高度が下がったせいで再び若緑の輝きが美しくなる。上松町、大桑村を経て南木曽町に入り、妻籠方面に分岐して妻籠宿脇を通過、緑の眩い馬籠峠を越えて島崎藤村の生誕地馬籠宿に向かう。青春時代馬籠から妻籠まで歩いたときには急峻な隘路しかなかったが、いまではバスも通れそうな立派な車道が通じている。さびれた感じの峠の茶屋前を通過しながら、車で通過する人がほとんどのいまはお客も激減したことだろうと想像する。

馬籠宿が近づくにつれ、前方に恵那山が大きな姿を現した。馬籠宿は石畳と階段の続く急坂の古道を両側からはさむ形で発達した集落からなっている。米沢さんも玉木さんも馬籠は初めてだというので、坂上側の集落入口で二人をおろし、私だけが車を運転して坂下側の駐車場にまわる。両側にこの地方特有の造りの老舗の立ち並ぶ急傾斜の路をのぼり、集落中央付近の島崎藤村記念館前で米沢、玉木両氏と合流。

藤村記念館は、藤村が生まれ育った馬籠の本陣跡に建てられている。本陣とは旅の途中の大名や貴人たちが逗留した宿場町の主家の屋敷で、各種文化情報や文物の集まる場所でもあった。藤村が文豪として大成していった背景には、幼児期木曽の豊かな自然の中で育ったということのほかに、当時としてはきわめて恵まれた文化的経済的基盤があったものと思われる。海外留学時の資料や諸々の作品の原稿や草稿など、その途方もない足跡には圧倒されるばかり。漱石や鴎外もそうだが、真のエリートとして国を背負い、強い義務感を抱きながら欧州に学び、帰朝して後輩の育成と文学界の発展に心身のすべてを捧げた明治の大文豪の気迫が時を超えて伝わってくる感じ。

藤村が愛したという東北学院時代の教え子佐藤輔子の写真と日記も展示されていたが、その知性美、達筆このうえない毛筆文字、簡潔ながらも的確かつ切れ味鋭い文体などは、さすが藤村が見初めた才女だけのことはある。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」と詠んだ相手のおゆうさんは、すでに妻籠の脇本陣の大黒屋にすでに嫁いでいたはずで、この頃にはもう藤村にとって遠い去の人となっていたのだろうか……まあ、そんなことは、よけいなことか。

面白かったのが、藤村の父、島崎正樹が若い頃の息子春樹、すなわち藤村に与えた戒めの一文。全体的には「盛り場や遊興の地への逗留を避け、山師や糸師、賭博師といった、一獲千金を夢見る詐欺師まがいの連中との交際を慎むように」といった内容の文書だが、その中に、「嫡子が生まれない場合をのぞき妾女は持たないように」との訓戒が記されている。ところが、そのすぐあとに、「ただし、このことはなかなか難しい問題なので、大体のところを記しておいた」という主旨の意味ありげな補足文がついているのだ。書いたあとで己のことを振り返り、ついつい付け足したのであろうが、人間島崎正樹の心の内が偲ばれ、にやりとさせられる。

展示館の一角には藤村が原稿執筆に使った机や座布団、火鉢などをはじめとする調度類を当時のままに配した部屋があったが、実に簡素なものだった。昔風の木机に背筋を伸ばして正座し原稿の筆を執った、在りし日の藤村の様子が偲ばれる。「そうだよなぁー、こうやって姿勢を正して真摯な気持ちで筆を執るんでなきゃ、良いものなんか絶対に書けないよなぁー」という米沢さんの感嘆とも溜め息ともつかない言葉が印象的。少なくとも我々三人はその時点でもの書きとして既に失格。

それにしても、ワープロやパソコンで原稿を書くのが当然のことになってしまった現代の作家たちは、先々、原稿を書くのに使ったワープロやパソコン、プリンター、フロッピーなどを自らの文学資料として残すのであろうか。これは作家の誰々先生のお使いになったパソコンとプリンター、それにフロッピーディスクです……なんてことになったら、誰も文学記念館などには行く気がしなくなるに違いない。現代作家の文学記念館のようなものが後世成り立つかどうかは疑問である。将来自分の記念館が建てられることを願う現代の大先生方は、ワープロなどには頼らず、せいぜい手書きの原稿でも残すように心がけておくがよかろう。中身はたいしたことなくても、手稿が残っているというだけで高く評価されることは……まあ、たぶんないだろうな。

木曽から三河地方へ



藤村記念館を出たあと、近くの蕎麦屋で昼食。なかなか美味しい蕎麦だった。信州名物の野沢菜入りお焼きを頬張りながら坂を下って駐車場へ。馬籠からいったん中津川市に出たあと、岩村方面へと続く道に入る。奥三河の山中を縫って豊川、豊橋方面へと南下しようという魂胆。またまた深い山岳地帯に分け入るも、樹々の緑の輝きは一段と艶やかさをます。一帯はすでに初夏の気配。岩村、上矢作、稲武、設楽、新城と、それぞれに趣のある村々や町々をつなぐ深い谷筋伝いの道をひたすら南へ。関東方面からの旅人で奥三河の山中を訪ねる人は少ないが、四月中旬から下旬にかけてのこの一帯の自然の美しさは推奨に値する。今回は立ち寄らなかったが、東方に南アルプス連峰を、さらに南方から西方にかけて奥三河の山並みを望む茶臼山周辺の景観はとくに素晴らしい。

新城から豊川を経て豊橋市の加藤幸正宅へ午後六時前に到着。加藤御夫妻に温かく迎えられる。明朝は三時起きなので、加藤宅に着いてすぐに釣りに出かける準備をすませる。心配なのは天候。我々の破天荒な事前行動に呆れ果てたお天道様がとうとうヘソを曲げたのか、見上げる空はなんとも怪しい雲行きに。天気予報でも、低気圧が近づいており、明日は海は荒れ模様とのこと。今朝だったら最高の条件だったのになあ、と加藤さん。その時刻、我々は岐阜の山奥、新穂高温泉峡の民宿の布団の中で黒鯛の釣れる夢を見ていたのだから仕方がない。

伊良湖沖の海中に黒鯛の祈祷者がいて、念力でお天道様と掛け合い低気圧を呼び寄せたのだろうか。釣るというよりは、相手が釣れてくれるのを待つといった程度の腕前の御一行様ともいえないことはないのに、なんとも御苦労様なことだ。

風呂にいれてもらい一段落したあと、奥様の手になる豪華な料理に舌鼓を打つ。地元で獲れた生きのよい魚の刺し身も美味かった。刺し身皿に次々と箸を伸ばしながら、黒鯛を釣る前にこれでは順序が逆じゃないかとも思ったが、美味しいものの誘惑には勝てるわけもない。食後は、加藤さんと米沢さんの初孫、滴(しずく)ちゃんの近況などを交えた話に花が咲く。リビングルームの飾り棚には滴ちゃんが誕生してほどなく、加藤さんが釣り上げ、東京練馬の米沢宅にお祝いとしてそのまま送られたという一メートルに近いお化け真鯛の写真もあった。

ヤマハで音楽インストラクターをやっていた加藤さんの上のお嬢さんが米沢さんの長男のお嫁さん。加藤さの次女、加藤訓子(かとうくにこ)さんは、桐朋音大を卒業後、パーカッション(打楽器)の有名な若手演奏者として世界を股にかけ活躍中。現在はロンドンに在住、ヨーロッパを中心に音楽研究と公演とに多忙とのこと。過日、東京お茶の水のカザルスホールでのコンサートを拝聴したが、音のでるものなら何でも、たとえば自らの身体さえも見事な楽器に変えてしまうその迫力と独創性に驚嘆したことがある。

天候は荒れ模様になり、明日は百パーセント雨天とのことだが、案内してくれる漁師はともかく出船してみよう言っているとのこと。午前三時起床なので、ともかく寝ようということになり、午後十時過ぎに就寝。

黒鯛はセイゴとコチに化けた!



翌朝は午前三時ぴったりに起床。直ちに加藤さんの車に乗り込み、小雨の中を四十キロほど離れた伊良湖岬へ向かって出発。伊良湖岬に着く頃には風も強まる。黒鯛釣りのポイントは伊良湖岬をまわって外海に出た遠州灘の沖。秋には真鯛の釣れる場所だが、この季節はそこが黒鯛の釣り場になる。

米沢さんと私とは過去何度か伊良湖沖の真鯛釣りや黒鯛釣りに招待されたことがある。伊良湖の鯛釣りは独特で、ウタセエビ、アカセエビといった三河湾、伊勢湾周辺で獲れる生きた小海老を餌にする。針先に掛けて海中に投じても海老が生きたままでいるようにするのがコツだが、これが結構難しい。釣り方は胴釣りで、錘をいったん海底に着床させたあと、二~三メートル引き上げた状態で当たりを待つ。文字通り「海老で鯛を釣る」わけだ。ときには鯛のかわりに大きなハマチが釣れたりもする。以前の真鯛釣りの際には、私の竿にも六十センチほどのハマチが掛かった。

伊良湖岬に着くとすぐ長靴をはきカッパを着て迎えの船の到着を待つ。見おぼえのある船頭さんの操る小型漁船が着岸すると直ちに乗船。今日は外海の遠州灘は風浪が激しく黒鯛釣りは無理との船頭の言葉に従い、急遽釣り場と釣りの対象魚を変更。三河湾と伊勢湾を隔てる知多半島突端の沖合にある日間賀島周辺に向かう。「テメーがその気なら誰が釣ってやるもんか」と黒鯛に悔しまぎれの捨てぜりふを吐いて、狙いを出世魚のスズキのこどもセイゴに変更。新鮮なセイゴの刺し身は美味い、黒鯛よりも美味い!……と自らに言い聞かせる。

乗船して三十分ほどで日間賀島沖に到着。内海のため風浪はそう激しくないが、それでも結構船は揺れる。島育ちの私は船酔いには無縁だが、雨風はないほうがよいにきまっている。三時間ほど釣り続けたが釣果はまるでかんばしくない。船頭共々五人がかりでセイゴとコチ合わせてわずか四、五尾。私の隣で釣っている腕のいい船頭さんも小ぶりのセイゴ一尾を釣っただけ。
  この日一番の大物を釣り上げたのは初めて参加の玉木明さん。五十センチほどはある大型のセイゴを一尾釣り上げた。「よかったね!」と声を掛けると、ご当人は、釣ったというより相手が勝手に掛かってくれた感じだと、なんとも憮然とした表情。

しかし、玉木さん以上に途方もない大物を引っ掛け糸を切ってしまったのはこの私。なにしろ地球を二尾も釣りそこねたのだから大変なものである。私が座った位置の海底はたまたま根掛かりしやすいところだったらしく、何度も根に引っ掛かり、二度も糸先が切れてしまった。

そうこうするうちに風雨がいちだんと激しさを増し、海面も大きく波立ちはじめた。もうこれ以上は無理だということになり、伊良湖岬へと引き返すことになる。シャワーのような雨に加えて、何度も潮水を頭からかぶりながら伊良湖岬着。黒鯛釣り騒動は「泰山鳴動して鼠一匹」の諺そのままの結果に終わる。気の毒がった船頭さんは、自分が前日釣って船倉に生かしてあったセイゴやコチを我々が釣ったものに合わせてプレゼントしてくれた。総数で十五尾ほど。

加藤宅に戻ったあとは、睡眠不足を補うべくもっぱら昼寝。それにしても豊橋まで昼寝に来るなんて考えてもみなかった。結局この日は加藤宅にもう一泊。翌日午前中に豊橋を発って東名高速道経由で東京に戻る。豊橋から東京まで大雨に降られっぱなし。家に戻ったあと、お土産にともらって持ち帰ったセイゴとコチをさばき、刺し身にして食す。美味かった……黒鯛の何倍も何十倍も!……だけど、喉元のどこかに釣り針の形に似た「?」マークが引っ掛かったような感じがしてならなかった。
1999年4月28日、5月5日

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