初期マセマティック放浪記より

18.カラオケ撮影者との奇妙な遭遇

芦浜をあとにし下甑島北端の鹿島村藺牟田(かしまむら、いむた)へと向かう途中で、左に分岐する脇道に車を乗り入れ、八尻展望所に立ち寄ってみた。岬に近い高地の小広い草地に設けられたコンクリート製の展望台からは、複雑な海岸線をなして細長く北にのびでる鹿島村方面の特異な地形と、それを両側からはさみつけるようにして迫る紺碧の海とが一望できた。

東海岸の吹切浦と西海岸の鷹落浜の両入江にはさまれた地峡部分は、カブトムシの角状突起のなかほどみたいに極端に細くなっている。幅にして百メートルから百五十メートルくらいのものだろう。展望台が西方に大きく突き出た岬の高地に位置している関係で、荒々しい岩肌を剥き出して遠く連なる西海岸の壮麗な断崖壁や、その足元を絶え間なく洗い食む青潮のきらめきがはっきりと見てとれた。展望台の位置や視界の関係で全貌を見渡すことはできないが、藺牟田集落の裏手にある有名な鹿島断崖は、この断崖線の最先端部に位置している。

展望台の草地を取り巻く薮地には、茎の先に黒っぽい種子嚢をつけた自生の鹿の子百合が点在していた。初夏の頃にはこのあたり一帯も鹿の子斑(まだら)のピンクの百合の花で美しく彩られるのであろう。正直に言うと、少年時代の私には、島内のどこにでもある鹿の子百合などよりは、老いた祖父のお供をしてたまに訪ねる鹿児島の繁華街のネオンのほうが美しく見えたものだ。そんな私が、こうしていま、花もつけていない鹿の子百合を懐かしんでいる。よくよく考えてみると、それはなんとも不思議なことだった。

展望台脇の駐車場にとまっている大型のバンのほうを何げなく見やると、驚いたことに八王子ナンバーの車だった。向こうの中年の男性も、こちらのライトエースが多摩ナンバーであることに気づいてびっくりしたような顔をしている。すっかり日焼けした顔と自然な身のこなしに旅の年季を感じさせるその人物に近づき、話しかけてみると、相手はすぐに、鋭い瞳の輝きをそっと覆い包むような柔和な笑顔で応えてくれた。その人は、東映ビデオ株式会社第二企画制作部監督の相原義晴さんだった。挨拶を交わしながら窓越しに車の中を拝見すると、いろいろな撮影機材が積み込まれている。

相原さんは、カラオケの映像に適した風景を探し求めながら全国を旅なさっているところで、下甑島にはもう一週間ほど滞在し、撮影を続けているとのことだった。このあと上甑島に渡るという話だったので、上甑の情報を差し上げたり、相原さんの下甑島に対する感想を伺ったりしながら、お互いの奇遇を喜び合い、しばらくの間、雑談を楽しんだ。

旅と映像のプロだけあって、相原さんの感想は、案の定、なかなかに厳しいものだった。

「甑島は確かに素晴らしい自然の風景に恵まれています。しかし、島の人々は、それらをどう残し、どう活かすべきかをあまり深くは考えてはいないようです。ほんとうの意味ではそれらの重要さに気がついていないのかもしれません。道路を造り、港湾を整備し、新しい公共施設を建造して、日常生活の向上と近代化をはかることは理解できます。でも、それにはそれなりの進めかたや配慮のしかたがあるべきでしょう。島の人は、港湾や道路の整備が行き届き、本土なみの生活の近代化が進めば、都会から観光客がやって来てくれると思っているようですが、勘違いも甚だしい。いま都会の人々の心を強く惹くのは、そんなものなんかではなく、島の人々が何でもないと思っているもの、どうでもいいと思っているもののほうなんです。古いからこそ、不便だからこそ、人工的ではないからこそ感動を呼ぶものも多いわけなんですよね。このような調子でどんどん近代化が進んだら、この島の豊かな自然美はみんなだいなしになってしまいますよ」

相原さんの痛烈な言葉に耳を傾けながら、私も昨日の講演のことを想い起こした。島のことは島に住む者にしかわからないという考え方は、いまでは必ずしも正しいとは言い難いと述べた私は、講演後、一部の人からそれなりの批判も賜った。

島を離れ都会に出た者が、たまに帰省して昔の自然を懐かしむ言葉を吐くが、島には島の生活を維持向上させる必要がある。過疎化と高齢化が進んだいまでは、農作業ひとつするのにも車は絶対欠かせない。車が走れるようにするには、畦道や川の土手を舗装し、隅々にいたる水路の三面をコンクリートで強化し、さらには川を暗渠(あんきょ)にして道路を確保する必要がある。山仕事には車の通れる林道も欠かせない。生活の安全と向上をはかるためには港湾の整備や護岸の強化も必要だ。そのために各種の生物や自然美が損なわれるとしても、それは仕方のないことだ――要約すると、そのような批判であった。

しかし、昔の段々畑や棚田をはじめとする村中の耕地の大半が荒れ地と化し、経済的価値を失った山林の多くが放置されたままになっている現状を目にした私には、その言葉は説得力に乏しいように思われた。

コンクリートの三面側溝や暗渠と化した各集落周辺の川の水質は無機質化し、魚貝類や海草、珊瑚などの海中生物の生育に欠かせない良質の植物性プランクトンや適量の有機物が陸部から補給されなくなってしまう。また、逆に、過度の有機物や有害化学物質を含む生活排水が川に放出されると、それらを吸収分解する水底土中のバクテリアや水辺の植物が存在しないため、それらはいっきに海中に流れ込む。すると今度は、海中の有機物が過剰になって海水を汚染し、有害化学物質も許容量を超えてしまう。

そうなると、昔は豊かだった集落周辺の魚貝類も魚礁の海草や珊瑚も激減し、ついには絶滅の危機に瀕することにもなりかねない。海の水だけは青く澄んでいるが、かつてびっしり海草の生えていた集落周辺の磯の岩がつるつるになってしまっているのは、明らかにその影響の一つである。ほんとうにこれでよかったのだろうか。大小の川を仲立ちにして、陸部の動植物の生態系と海の動植物の生態系とは密接に結びついているのだが、いったい、そういったことがどれほど理解されていたのだろう。

景観の保存のありかたについての相原さんの指摘もなかなかに辛辣だった。たとえば、私たちも翌日に訪ねてみる予定でいた西海岸の瀬々野浦の名勝、ナポレオン岩について、次のような感想を語ってくれた。

「西海岸に向かって急角度で落ち込む山の斜面をくだりながら、瀬々野浦集落とその向こうに広がる荒磯を目にしたとき、ここならきっとよい写真が撮れるに違いないと期待したんです。しかし、私が思った通りにはいきませんでした。ナポレオン岩や鷹の巣岩そのものは豪壮で、確かに素晴らしいんです。ところが、海岸に出てナポレオン岩を撮ろうとすると、どうアングルを変えても不格好な消波ブロックが写ってしまうんですね。ナポレオン岩がどんなに素晴らしくても、それだけ写したんじゃよい映像にはなりません。それを取り巻く海岸や集落の風景と、ポイントとなる奇岩の光景とが調和していなければ、なんの意味もないでしょう。地元の人たちは、直接的な観光の目玉部分だけを切り取って残しておけばよいと思っているらしいけれど、とんでもない誤解ですね。もし観光で本土から人を呼ぼうと思うなら、自然に詳しい島外の人々の意見なども取り入れながら、もっとそのへんのことを深く考えてもらいたいですね。消波ブロックを設けるにしても、景観を損なわないようにするうまい工夫が何かあるはずなんです」

甑島育で育った私にすれば、島の人々の生活の近代化に対する憧れは痛いほど理解できたが、それにもかかわらず、相原さんの指摘は的を射ていると感じざるを得なかった。率直にそんな胸の内を相原さんに伝えると、

「ナポレオン岩を望む瀬々野浦の前の平展望所にしろ、この八尻展望所にしろ、お金をかけている割りにはあってもなくてもいいような中途半端な構造で、しかも周辺の景観とマッチしない不自然なコンクリート製ですよね。どうせ造るなら、道路や港湾開発の費用を削ってでも、もっとデザインが高く機能的で、周辺の景観とも調和したものにしてほしいですよ。そうでないなら、下手な展望台などないほうがいい……」と、さらに厳しい言葉が続いた。

「そうですね、どうせなら、非常時には誰でも自由に泊まれるような、無人避難小屋を兼ねた造りにするなどの工夫もあってもよいと思いますよ。それに、これは逆転の発想なのですが、ログハウスのような思いっきり頑丈な構造の展望台にしておき、猛烈な台風の時などに、想像を絶するほどに凄じい風雨や耳をつんざくような雷鳴、牙を剥き出して荒れ狂う海の光景などを体験してもらうのもよいですよね。台風の猛威を体感できる展望所などというものを本気で考え、宣伝したら、都会の人などにはずいぶんとうけるだろうなと思ったりもするんですよ。台風そのものもドラマだし、台風前後の海辺の光景などは、思わぬ発見もあったりして、都会人には一見の価値はありますからね。ただ、台風の襲来にタイミングを合わせて島を訪れるのは、忙しい人には無理かもしれませんけれど……。そんな展望所があったら、私は真っ先にやってきますね。晴天の夜などには、煌々と輝く満天の星々を仰いだり、月光に輝く神秘的な海面(うなも)を眺めることだってできますしね」

いささか調子に乗った私は、半ば冗談を交えながら相手の言葉を受け流した。

よりよい映像の撮影を狙って風光の微妙な変化をじっと窺う相原さんを八尻展望所に残した私たちは、折角の機会でもあったので、なお延々と続く林道を奥まで詰めてみることにした。くねくねと曲がりながらもほぼ水平に急峻な西斜面を縫うこの林道は、実際に走ってみると、なんとも野趣に富んでいた。深い樹林に覆われたその一帯には、集落はむろん、人の気配もまったくなく、どこか神秘的な感じさえも漂っていた。時々眼下はるかに見え隠れする由良島や、下甑島西海岸線の一部を形成する八尻浜、大崩浜などの荒磯の景観も、想像以上に素晴らしかった。

林道の両側に広がる常緑の照葉樹林は実に見事なものだった。シイ、マテ、カシ、シラカシ、ヤブツバキなどの喬木が、すき間もないほどに鬱蒼と生え茂るその樹林帯は、かつて訪ねた屋久島西部の照葉樹の原生林をも連想させた。甑島の人々は、かつては、島の一帯に広がるこれらの照葉樹林の樹木を薪として大量に切り出していた。私が中学生の頃までは、一年に一・二度は皆が遠くの山まで薪を切り出しにでかけたものだし、中学生のときなどは、学校行事の一環として学校林での薪の切り出し作業なども行われていた。

毎年違う場所を順々に切っていき、前に木を切り出した跡地が再び樹林に覆われる頃、また、はじめの場所を伐採するという繰返しが遠い昔から幾度となく続けられてきた。だから、一度も斧がはいったことのないという厳密な意味での原生林は、たぶん甑島にはごくわずかしか存在していない。しかし、いま目の前に広がるこの深々とした照葉樹林は、原生林といってもおかしくないくらいであった。甑島でも化石燃料の使用が一般化すると、薪が不要となり、昔みたいに照葉樹林が大量に伐採されることもなくなった。そのおかげで、一帯の照葉樹林がかくも見事に復元したものらしい。皮肉なことだが、こればかりは、島の近代化がもたらした望外の恩恵だと言っていいのかもしれなかった。

これほどに豊かな樹林が形成されると、様々な小動物や野鳥類、昆虫類が繁殖し、各種の微生物や植物性プランクトンなどが大量に発生する。そしてそれらの動植物が生み出す有機物の一部や良質のプランクトン類は、大雨や台風の時などに沢を伝って海岸線へと流れ出す。海中に流入したそれらの有機物や微生物は、当然、魚貝類や、海草類、珊瑚などの絶好の栄養源となるから、周辺の海々は豊かさを取り戻す。ハンドルを左右に切りながらそんなことを考えるうちに、私はなんとも妙な気分になってきた。むろん、近代化のもつ予想外の効用に一種の戸惑いを覚えたからだった。

現在、島の人々が見向こうともしないこの照葉樹林を森の体験学習や自然観察ツアーに活かすなどということも考えられるかもしれない。都会からやってきた人々に、単純に木を切る経験をさせたり、切った樹木の様々な利用法を教えたりするのも面白いかもしれない。昔はこれらの樹木をもとに良質の炭が焼かれていたことだから、いま一度炭焼き窯を復活させ、訪れる人々に炭焼きの体験をさせるのもよいかもしれない。指導料を徴収しての体験学習の炭焼きなら、炭の生産そのもについての採算は度外視できる。もし少量でも良質の炭が焼けるなら、炭ブームにわく都会の人々は喜んで買ってくれるだろう。販路がなければ、インターネットで購入希望者を募り、代金引き換えで直送すればよい。

専門家などに広くアイディアを募れば、ほかにもいろいろな照葉樹林の活用法が考えられることだろう。こういったことは、漁業、農業を含めた甑島の諸々の生活全般に当てはまることである。最初は大変かもしれないが、着実に段階を踏まえて進み、PRの仕方をしっかり工夫しさえすれば、島の自然を活かす道はきっと見つかるに違いない。

大崩浜のはずれに位置する赤崎の上部付近まで林道はのびていたが、そこから先は現在新しい林道を造成中のようだった。とりあえず林道の終点を見極めた私たちは、そこでUターンし、いま一度八尻展望所のそばを通り抜けて鹿島村藺牟田へと続く主道へと戻った。そして、東海岸に位置する吹切浦や中山浦の静かな浜辺を右手に見下ろしながらしばらく走ると、整備のよく行き届いた里道の浜に出た。シーズン・オフとあってか人影はまったく見られない。心地よい潮風を切り分けるようにして海岸伝いの道をひたすら進むと、ほどなく鹿島神社のそばに出た。鹿島神社を過ぎると、下甑島最北の集落、藺牟田はすぐ目の前だった。
1999年2月17日

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