初期マセマティック放浪記より

12.アルコール攻防戦の果てに

甑島館の宴会場に集まった男女総勢十四人の中学同期生たちは、我が目を疑うばかりに変身を遂げていた。ある者は村の助役や収入役におさまって見違えるほどに貫禄がついていた。民宿経営や観光漁業で成功を収めた者もあれば、地元海運事業の共同経営者として才覚をふるっている者もあった。彼らの穏やかな表情の奥には、確固たる自信のほどが読み取れた。いまや名人漁師の呼び声高いある男の双眸は、黒く日焼けした顔の奥で、人の心を見通すような鋭い光を放っていた。

女性のほうもなかなかのもので、婦人会の会長として村の文化活動をリードする者もあれば、郵便局の有能なベテラン職員として要務に携わる者もあった。また、個人商店のオーナーとして村の物資流通に貢献している者などもいた。

島言葉での会話だったが、皆が皆、実に能弁で、言葉の一つひとつが機知とユーモアに富んでいた。歓迎される立場のこの身がもっとも存在感に乏しく、終始圧倒されっぱなしだったことは皮肉としか言いようがない。こんな弁のたつ連中が揃っているというのに、なんでいまさら自分が講演なんかしなければならないんだろうという思いが、一瞬胸をよぎったりもした。

でも、それら昔の仲間たちが、心の底から私の帰郷を歓迎してくれていことだけは確かだったし、甑島ならではの新鮮な魚料理も絶品と呼ぶにふさわしいうまさだった。また、懐かしい互いの昔話も尽きるところを知らなかった。ただ一つ問題なのは、甑島名産の「芋ジュース」攻勢からどうやって身を守るかということだった。彼らは皆、アルコールが滅法強い。こんなとき緩衝材の役目を果たすはずだった同行の息子は、父親の同期会に自分が顔を出すのは筋違いだと部屋にこもってしまったから、この際頼りにはならなかった。

甑島には「百合焼酎」という有名な芋焼酎がある。「芋ジュース」などど悪い冗談を書きはしたが、上質の薩摩芋のデンプンで造られたこの焼酎は、酒類の品評会で過去何度も最優秀賞をとった正真正銘の名品である。里村の塩田酒造が製造元で、生産量はそう多くはないが、知る人ぞ知る逸品として名高い。現在の塩田酒造当主は、塩田将史さんといい、いまの里村郵便局長の甥にあたる方である。

それでなくても共同作業や各種行事の多い半農半魚の村だから、当然、島育ちの誰もが、中学生にもなると少しづつこの焼酎を口にするようになる。私自身もその例外ではなく、機会あるごとに飲めるようになろうとずいぶん努力もしたのだが、天性のアルコール過敏体質がわざわいし、結局はどう頑張っても飲めるようにはならなかった。

しかしながら、すっかり盛り上がった仲間たち相手に、いまさらそんな言い訳は通用しない。無勢に多勢の第一次アルコール攻防戦で孤立無援の状態に陥った私は、朝日新聞ホームページ・コラム欄の共同執筆者で、いまは遠く南太平洋上を放浪中のアルコール科専門医、永井明ドクターにSOSを求めたい思いだった。アルコール性アレルギー反応が昂じて一種の喘息状態にでもなったりしたら、講演どころの騒ぎじゃなくなるから、こちらの防戦も必死だった。近くのカラオケ店に移行して第二次アルコール合戦を迎えることになった時点で、私は、皆の了解を得た上で息子を呼び出し、リリーフとして登板させざるを得なくなった。

予定外の登板となった息子は、絶え間なく行き交う魔法の水よりも、むしろ私が仲間たちとが交わす島言葉のほうに面食らったようだった。古語の宝庫とも古語の化石ともいわれる甑島の言葉は、よそ者にとって理解するのは容易でない。「刺し身」のことを意味する「ぶえん(無塩)」という言葉や、「~してほしい」ということを意味する「たもいもせ(給い申せ)」という言葉などに象徴されるように、古文の教科書に出てくるような古語がこの島の言葉には無数に織り込まれ、いまもなお息づいている。実際には、なかなかに雅びな響きのある、美しい言葉なのだが、初めてその言葉を耳にした人が、宇宙人の言葉みたいに感じたとしてもしかたがない。

中学の修学旅行で北九州方面を訪ねたとき、我々の会話を耳にして一時的に錯乱状態に陥った人々から、いったい君たちはどこの国の人だと真顔で訪ねられ、困惑したりしたものだ。むろん、標準語は普通に通じるし、島の人も必要なら標準語で応じてくれるから困ることはまったくないが、いきなり島言葉の会話のなかに飛び込んだ旅人などは、別世界にワープないしはタイムスリップしたように感じたりもするだろう。かつて甑島を訪れた柳田国男は、島言葉を本気で習得しようとしたというから、さすがに民俗学者だけのことはある。

酔った勢いに任せてあれこれと島言葉で話しかけ、次々に盃を繰り出す強者相手に、リリーフ役の息子は涙ぐましいばかりの健闘をみせてくれた。お陰で、先発した私のほうは焼酎シャワーからは解放されたが、かわって今度は、講演の際これこれのことを話すようにという、勝手な注文が飛び交いはじめた。しかもその注文の中身が相手によってまるで違うときているから始末が悪い。

格好をつけた難しい話などするなという者もあれば、せっかくだから少しは文化的な話をせよという者もある。村政を批判しろと煽る者もおれば、そんなことはしないほうがよいと忠告してくる者もいる。懐かしい昔の想い出話中心でいけという意見もあれば、いまのおまえの状況を詳しく語れという要望もある。集まってくれた昔仲間には申し訳ないが、おまえが何をしゃべるか村中の者が注目しているからと強烈にプレッシャーをかけられるに及んでは、もう、「ダーツーヤイモセ(さようならという意味の丁寧語)」という島言葉の一言を残して、翌朝のフェリーで密かに退散してしまいたい気分だった。

アルコールが全身にたっぷりまわり、精神状態が異常に高揚してくると、なかには勝手な思い込みや妄想に近い話などを持ち出す者もあらわれた。ある者などは、小学生の頃、おまえは身体が弱かったから、俺は学校の行き帰り毎日のようにおまえのカバンをもってやったが、そのことを憶えているかと迫ってきた。

けっして頑健なほうではなかったが冒険心などは人一倍強く、海や山を駆けめぐるのが大好きで運動も得意だったから、実際にはそれほどに虚弱だったわけではない。年に何度かは、風邪をこじらせ熱を出したり、扁桃腺を腫らしたりして、ひどく体調をそこねることはあったから、そんな折、学校の行き帰りにカバンをもってもらったことはあったかもしれない。だが、毎日のようにカバンを運んでもらっていたなんてことがあるわけない。それどころか、こちらだって相手のカバンを一・二度は運んでやった記憶があるのだ。

不登校もよしとする昨今の風潮のもとではとても考えられないが、なにしろ、無理をしてでも学校に行くのが美徳とされ、クラスの半数以上が皆勤賞をもらっていたという時代のことである。体調が悪ければ皆勤賞など気にせず学校を休んでいた私が、周囲の目にはよほど病弱に映ったのかもしれない。もっとも、休んだといっても年に四・五日のことだったし、中学卒業までに私も何度か皆勤賞や精勤賞をもらったりしたのだから、恩の押し売りも甚だしいことこのうえない。

俺はおまえに、将来、この村の村長になれと話をもちかけ、おまえもそうすると約束したはずだなどと、どう考えてみても身におぼえのないことを言い出す者まであらわれた。冗談じゃない、そんな約束するはずがないし、第一、俺にはそんな才覚もそんな気持ちも毛頭ないと反論すると、相手は長年の期待を裏切られたとでもいうような、なんとも複雑な表情を見せた。

極めつけは、なかの一人が、昔私が島を出て本土に向かうとき、数万円もの費用を工面してやったと言い出したことだった。ちょっとアル中気味に見える彼は、私に向かってじかにそう言ったのではなく、私が知らぬ間につかまえた息子を相手に、昔の秘密だとか称してそんな話をしたらしい。息子からあとでその話を聞いて、私は思わず吹き出してしまった。私が甑島の中学を卒業し鹿児島市の高校へと進んだのは、十五歳の春である。貧しい村の中学を卒業したばかりの同い年の少年に、費用を工面してもらうことなどあろうはずもない。しかも、当時の数万円というば、相当な大金である。

酒の勢いなどもあって、最後は、芥川龍之助の「薮の中」の話みたいなことにもなりかかったが、同期の仲間たちがこの愚かな身を心から温かく迎えてくれたことに変わりはなかった。最後に私から一人ひとりにお礼を述べ、歓迎会は十一時過ぎに無事お開きとなった。長旅の疲れも重なり、さすがにぐったりとなった私と息子は、甑島館に戻ると、シャワーも浴びずにそのままベッドに倒れ込んだ。
1998年12月30日

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