日本列島こころの旅路

第9回 古都奈良から月下の大台ケ原へ(その3)

特別講演者としてこの日最後に壇上に立ったのは吉村作治早稲田大学名誉教授だった。「科学の力で歴史の謎を解く」という演題のもと、飄々(ひょうひょう)とした姿で話し始めた吉村教授が強調したのは、「本来、考古学や歴史学は文系の学問ではない」ということであった。

――遺跡から出土した遺物や古代の人々が書き著した文献を検証し、当時の事実を探り明かすのが目的の考古学や歴史学は、昔から科学技術の力を基に研究を進めてきた。欧米では考古学などは理系に分類されているのだが、日本の場合には文献学中心の歴史学が先行したので、後発の考古学はその下請け分野であるかのような誤解が生じ、文系視されるようになってしまった。実際の考古学は学問のゼネコンみたいな存在で、理工学系の知識や技術を基盤にしている。端的に言うと、考古学者とは科学知識を武器にして古代人の足跡やその奥に秘められた諸事実を黙々と追い洗う刑事のようなものである。むろん、人類の明日に役立つために――吉村教授が述べ語った話の要点はおよそそのようなものであった。

クフ王のピラミッド基底部から出土した「太陽の船」を目にした吉村教授は、その発見位置と対称な地点の地中に「第2の太陽の船」が眠っているのではないかと考えた。そこで日本の科学者の協力を得て特別に開発した小型電磁波探査レーダーを現地に持ち込み、狙った地点を精査して、未発掘の地下室らしいものがあることを突き止めた。だが、日本の科学技術力に対するエジプト政府の信頼度は低く、容易には発掘許可がおりなかった。そのため、吉村教授は放射光X線分析の専門家の中井泉東京理科大教授らに協力を求め、エジプトの遺跡から出土した埋蔵品の顔料やガラス質の分析、年代測定などを行い数々の実績を挙げる一方、200体にも及ぶミイラマスクなどの検証や修復に尽力した。さらに、偏差重力計、電気探査機、人工衛星撮影の画像解析などの物理探査法を駆使して遺跡調査に精魂を傾け、ダハシュール北遺跡などを含む4基の未盗掘墳墓の発見を成し遂げた。

それら一連の実績を重ねる過程で日本の科学技術に力対するエジプト政府の信頼を勝ち得た吉村教授らの調査隊は、第2太陽の船が眠ると推定される地点の発掘をようやく許可された。一抹の不安もあったというその先行試掘は見事成功し、ファイバースコープ等による観察により、第2太陽の船のバラバラになった部材が多数発見された。そこに至るまでに、なんと20余年もの歳月を要したのだという。講演中では、試掘時に撮影されたという貴重な現場写真や第2太陽の船の予想再現模型写真なども紹介されたが、吉村教授らの長年の苦労のほどが偲ばれ、なんとも感動的であった。2011年には本格的な発掘が行われ、4500年ぶりにその全貌が明らかになるという。発掘された部材をもとに、精巧な復元作業も遂行されることになっている。

講演終了後に開かれた懇親会でしばし関係者一同と歓談したあと、煌々と輝く満月間近の月光に導かれるまま、黒々と聳える興福寺五重塔の前に立った。九輪の塔の頂きに青く冴え澄んだ月影が差し掛かるところであった。それは、随分以前に、「冴えざえと五層の塔の頂きに棲むこの月を仲麻呂も見き」という拙歌を詠じた折とまったく同じ光景だった。

車に戻った私は直ちにエンジンを始動すると、一気に奈良盆地を南下した。そして、桜井付近を走り抜け、談山神社東側を通って吉野町に入り国道169号に合流した。妖しくさえもあるこの夜の月光の誘いに乗って私がひたすら目指したのは、奈良と三重の県境に位置する標高1600mほどの大台ヶ原山だった。川上村と上北山村の間にある新伯母峰トンネルの手前まで夜道を一息に疾走すると、右手に分岐する大台ヶ原山ドライブウエイへとハンドルを切った。カーブの多い隘路のうえに積雪で路面が凍結するので、冬季は通行止めになるのだが、幸い、この気まぐれな夜間走行に挑んだのは、道路閉鎖の10日ほど前のことであった。

高度が上がるにつれて、幾重にも重なり波打つようにして視界の果てまで続く山並みの影が浮かび上がった。その光景は月光のもとに揺れ動く大海原をも連想させた。月下の海面を覆う無数の波浪のうねりを彷彿(ほうふつ)とさせるその連山の有様を形容するには、山並みというよりは「山波」という表現を選んだほうがよりふさわしいようにも思われた(写真)。かつてこの地一帯にはニホンオオカミが生息していたが、大台ヶ原山に近い東吉野村の猟師が明治38年に捕獲した若い雄オオカミが国内最後の目撃事例となった。その剥製は今も大英博物館に保管されている。2003年2月の満月の夜のこと、私は、厳寒の中を押してこの地を訪ね、今は亡きニホンオオカミらの最期の姿を遠く偲びながら、「友呼ばふ孤狼の悲魂弔ひて大台ヶ原に冬の月照る」という歌を詠んだ。過去何度かこの地には足を運んだことがあるのだが、8年前のその日のことはとりわけ心に残っている。

昨秋のその夜とても印象的だったのは、ライトをアップした車の前に次々と立ち現れる我が物顔のシカたちの姿だった。天敵だったオオカミが絶滅し、猟師の数が激減するのに伴い、一帯のシカの数は激増した。その結果、大台ヶ原周辺ではひどい食害が生じ、半世紀前までのような鬱蒼とした森林や苔むす地肌をもつ土地が急激に減少してきているという。

青々と澄み輝く月光が降り注ぐ大台ヶ原駐車場に着いたのは、午前零時を少し回った時刻だった。4℃の冷気に独り身を委ねながらしばし月光浴を楽しんだあと、車中に戻り、寝袋にくるまって翌朝まで仮眠をとった。大台ヶ原・日の出山の美しい御来光を期待しながら……。

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