日本列島こころの旅路

第5回 青木ヶ原樹海での人間教育(その1)

私は闇というものを少しも怖いと思わない。新月前後の夜になると漆黒の闇に包まれるのが常だった九州の離島で幼少期を送ったせいもあって、深い闇には親しみをさえ覚えるほどである。私の五感は星闇の下で培われ、研ぎすまされたと言ってもよいだろう。そんな育ちだから、不気味な噂が立つ場所などを夜歩くのも平気で、これまでも幾度となくそのようなところを暗闇などものともせず訪ねまわったりもしている。深夜などに独りで旅をするにあたって、そのような生来の習性は大きな武器ともなっている。

4年前のある秋の日の夕暮れ時、私は、ちょっとした意図があって、いまは都内の医大に通う知人の息子Kを伴い青木ヶ原へと向かった。青木ヶ原樹海は相当に広いが、いまでは国道や地方道、さらには各種農道や自然探索路などが樹海を分断するかたちで縦横に走っている。だから、「一度迷い込んだら出られない」とか、「磁石がきかない」とかいったように面白おかしく喧伝されているような危険はない。密生する樹林に溶岩台地特有の凹凸が加わり見通しの悪い複雑な地形になっているのは事実なので、山歩きなどに不慣れな者が遊歩道を外れ不用意に樹海の奥まで入り込んだりすると、同じ場所を幾度も徘徊するリングワンデリングに陥ってしまうおそれはある。だが、テープなどでマークをつけながら冷静に行動しさえすれば、たとえ初心者でも樹林から脱出不能に陥るほど迷うことはない。方位磁石だって問題なく使える。そもそも東海自然遊歩道の一部などは、青木ヶ原樹海の中を縫うようにのびており、人々の自然体験学習などに大きく貢献してもいる。

ただ、一帯では過去に多くの自殺者が出たということもあって、青木ヶ原にはなにかと不気味な噂が立つようになった。人間とは奇妙なもので、ある場所で自殺者が多いという話が広まったりすると、自ら命を絶とうと思う人間は、進んでそこへと足を運ぶきらいがある。無意識のうちにも自らの死を物語化しようとする思いがはたらくからなのかもしれない。青木ヶ原で道に迷ったことが原因で死に至った人は、実際にはきわめて少ない。

日没時に合わせてわざわざKを青木ヶ原に連れて行ったのは、青木ヶ原は怖いところで、お化けの類が出たり超常現象が起こったりすると信じ切っているらしい彼に、もう少し理性的に物事を考えて行動するように促したかったからである。医者を志そうという者がそんなことでは話にならないというのが私の正直な思いでもあった。鳴り物入りで青木ヶ原を怪奇現象の起こる心霊スポットだなどと紹介しているテレビ番組などの影響で、その名を聞いただけで臆してしまう者も少なくない。死者の怨念がそんな現象を惹き起こしているというのなら、多くの死者の屍の上に再建された東京、広島、長崎などの都市や、度重なる合戦や疫病、飢饉などのために死体が累々と折り重なりもしていたという京都、奈良、鎌倉などの歴史文化都市は、それこそ幽霊の巣窟や心霊現象の多発地帯になってしまうはずなのだ。だが、そこでは何事もなかったかのように多くの人々が日々生活を送っている。

手始めに、私は本栖湖方面に向かう国道の路肩に駐車し、左手に広がる樹海の中へと足を踏み入れた。「青木ヶ原樹海」と記した標識のあるあたりである。薄暗くなった樹海の中へと分け入る私のあとを、Kは怯えきった表情を見せながら仕方なさそうについてきた。

「僕、なんだかゾクゾクしてきましたよ。このへんでも誰か死んだんですかねえ?」

「そりゃまあ、過去何百年の間には、一人くらい死んだ人もいるだろうさ。でもさぁ、君の住む荒川区あたりのほうがずっとたくさんの人が死んでるよ。戦争の時なんかにはね」

「まだ奥までいくんですか?……なんだか恐いんですよ。ほんとうに帰れるんでしょうね」

「何を言ってるんだい。ここはまだ国道から百メートルも離れていないところだよ。一キロも二キロも奥に入ったところならともかくとしてね」

そんなたわいもない会話を交わしながら、私は樹の枝を掻き分けてはさらに奥へと進んだ。Kは一段と不安そうな様子を見せつつも懸命に私の後を追いかけてきた。しばらくすると、深い樹林の中を緩やかに縫う幅2~3メートルほどの岩だらけの小道にぶつかった。

「君さあ、これ東海自然遊歩道なんだけどね。ほら、案内標識もあるだろう。この道を鳴沢氷穴まで歩いてみないかい。僕は車で先に行って氷穴の駐車場で待ってるからさ……」

もちろん、からかい半分に発した言葉にすぎなかったが、それを耳にしたKの慌てぶりは相当なものだった。その様子を横目で窺いながら、内心私は噴き出しかけた。

「先生、それだけは勘弁してください。こんなところ独りで歩くの死んでも厭ですよ!」

「死ぬよりはマシだと思うんだけどね。そもそも何が怖いわけ?、樹林の中を縫って小道が続いているだけで、お化けが出るわけじゃないだろう。もっと冷静になんなよ。これから医学やろうっていう人間がそんなことじゃ話にならないよ、しっかりしないとね。君は知らず知らずのうちに自分の心がつくりだした妄想に怯えているだけなんだからさ!」

実を言うと、Kに対するこの夜の特訓はまだ始まったばかりであった。

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