日本列島こころの旅路

第3回 人生模様ジグソーパズル – 穂高町での奇遇が縁で

「これからどちらへ?」――信州安曇野のJR穂高駅前で観光案内板を眺めていた私は、いきなり肩ごしにそう声をかけられた。突然のことに、「はあ?」と呟きながら戸惑い気味に振り返ると、黒のサングラスをかけた一人の見知らぬ老人が、口元にいらずらっぽい笑み浮かべながら立っていた。一瞬言葉に詰まった私に向かって、謎の老人は、如何にも愉快げに「昨日もあなたとお会いしましたよ!」と追い討ちをかけてきた。生まれたばかりの樹々の緑が折からの西陽を含んでやわらかに光り輝く、晩春のある夕刻のことである。

さっぱり状況が呑み込めぬまましばし躊躇していると、その老人は不思議なまでの存在感を全身に漂わせながら、「あなたは昨日碌山美術館にいましたよね」とおもむろに言葉を繋いだ。たしかに、その前日、私は穂高駅に近い碌山美術館を訪ねたばかりだった。どうやら、私が美術館裏手の中庭の木製ベンチにすわり、深い旅の想いに耽っていたとき、老人は客人を伴ってその場を通り合わせ、こちらの姿を記憶に留めたものらしい。自分ではそんなつもりなどまるでなかったのだが、よほど情けない顔でもしていたのだろう。
遠来の客をいま駅のホームで見送ってきたばかりだが、こんな日の夜は独り暮しの身にはいささか淋しい。こういうときには、一夜の宿を供するふりをして道に迷ったうまそうな旅人をとって食うにかぎる――安達ケ原の黒塚伝説をも想わせるそんな意味のジョークを吐いた老人は、私の両眼の奥底を覗き込むようにしてにやりと笑った。相手が妖艶な美女に化けていないのは残念だったが、こちらもそれなりには人を食ってきた身、この際、人に食われてみるのも悪くないと、私はその誘いにあえて乗ることにした。
山裾の深い林の中にある洋風の屋敷には、見るからに異様な気配が立ち込めていた。老人は、上質の黒い毛布を二つ折りにして仕立てたという手製のドラキュラ風マントに着替えて奥の部屋からふいに現れ、一瞬私の背筋をぞくりとさせた。ドアに「WORKS CREATIVE」と記されたトイレの天井や四面の壁は、なんとも蠱惑(こわく)的な写真や前衛的デザインの造形物で覆い尽くされ、ご丁寧なことに、トイレットペーパーの表には英語のクロスワードパズルが印刷されていた。偶然のことだったのだろうが、遠くからフクロウの鳴き声が聞こえてくるというおまけまでがついた。「現代の魔宮」とでも喩えるべきその屋敷から無事生還を果たすには、どうやら、こちらも相手を化かし返すしかないようだった。

その晩、我々は夜を徹して奇妙な対話を繰り広げた。嘘のなかの嘘にもみえてこの世でいちばんの真実のような、大詐欺師同士の対決にも似て実は聖なる二人の清談のような、それはそれは世にも不思議な歓談であった。生涯に四十余の職業を体験したというその老人は、己の人生を系統立てて語るのは好みでないと嘯(うそぶ)き、どうしても自分の過去の経歴に興味があるのなら、ジグゾーパズルを解くように様々な話の断片を繋ぎ合わせ、勝手に全貌をつかめばよいと哄笑し、私を煙に巻き続けた。我々が出遇ったその日は、「穂高のドラキュラ」を自称する老人が昔からお気に入りだという「13日の金曜日」だった。それからというもの、老人から「府中のドラキュラ」と呼ばれるようになった私は、なるべく「13日の金曜日」を選んでは穂高町に出かけ、そんな前代未聞のジグゾーパズルに挑戦した。そして、その結果浮かび上がった老人の人生模様は、なんとも破天荒なものであった。

旧制福岡高校を卒業後に上京した若者は、本郷赤門前のカフェバーのボーイを振り出しに、数奇な運命に導かれるまま、国内各地、さらには戦前から終戦時にかけての天津、青島、大連、上海などを舞台にして、「事実は小説よりも奇なり」という諺そのままの人生を送った。さらに、終戦後、苦難の末に上海から日本に引き揚げた若者は、皇居前広場で当時のBBC放送極東総支配人のジョン・モリスと偶然に出遇い、それが縁となって、天運と才覚の赴くままに戦後初の民間日本人として渡英、BBC日本語部のアナウンサー兼放送記者となった。そして、エリザベス女王の戴冠式出席のため訪英した皇太子(現天皇)を、当時の松本俊一駐英大使と共に迎え、「ロンドン今日この頃」という自らの担当番組で女王の戴冠式関連の諸ニュースを日本に向けて放送するにいたった。のちにBBC放送を辞職し帰国した彼は、抜群の語学力を武器に、「シャーロックホームズ」や「野郎どもと女たち」などをはじめとする数々の英米文芸作品の名ゴースト翻訳者としても活躍し、著名な大学教授らの仕事を陰で支えた。ただ、自身はその人生哲学に従い、終始表に出ることをしなかった。

穂高町の自宅で2001年8月17日、85歳で他界した石田達夫というこの稀代の奇人の生涯を、私はそれから数年の歳月をかけ、「ある奇人の生涯」という原稿用紙1800枚にも及ぶノンフィクション作品に纏め上げた。そして、生前の不思議な縁を心底懐かしみながら、いまは松本市蟻ヶ崎墓地の信州大学医学部供養塔内に眠るその霊に献げたのだった。その作品は現在も私の「マセマティック放浪記」バックナンバー中に収録されている。

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