日本列島こころの旅路

(第45回)松本城鉄砲蔵(1)(2014,04,15)

松本市の中心部を経て浅間温泉方面へと抜ける途中で松本城の近くを通りかかったので、久々にその天守閣に上ってみることにした。今からおよそ400年前の文禄2年から3年(1593年~1594年)にかけてその天守閣が築造されたという松本城は、姫路城、彦根城、犬山城と並んで国宝に指定されている数少ない城の一つである。小ぶりながら昔のままの平城(ひらじろ)(山城に対比される平地の城)の構造をほぼ完全なかたちで残しており、歴史的建造物としてのその文化的価値はきわめて高い。

頭を梁にぶつけないように注意しながら、ひどく傾斜の急な狭い木造階段を何度も繰り返し上っていくと、厚板張り、方形の見晴らしのいい天守閣へと到る。梁が低いのは、昔の日本人の背丈に合わせた設計がなされているからだろう。天守閣に上がると、大気の澄んだ日などには、その四方の格子窓から、松本の街並みはいうに及ばず、常念岳をはじめとする北アルプスの山々や、鉢伏山、美ヶ原方面の山並みなどを一望のもとにおさめることができる。

戦乱時の篭城(ろうじょう)をも想定して築造されたこの城の各階の壁面には、鉄砲(てっぽう)狭間(さま)や矢(や)狭間(さま)と呼ばれる正方形や長方形の壁穴(銃眼や射矢口)が多数設けられている。当時はすでに火縄銃が主要な武器となっていたこともあって、それぞれの壁面は、敵の銃弾に耐えられる厚い塗り込め壁に仕上げられていたのだという。城を取り巻くお堀の幅なども当時の鉄砲の性能を考慮して決められていたらしい。よくよく考えてみると、たとえどんなに防御に工夫を凝らした城であっても、その防御設備が役立つのは、結局、戦況が城を守る側にとって不利なときである。いったんそんな状態に陥れば、城全体が無傷ですむということはまず考えられなかったに違いない。築城後も直接戦火に巻き込まれることなく、いまもなお昔ながらの姿を留めている松本城は、大変幸運な城の一つであったと言ってよいだろう。

もっとも、この美しい城にも一度だけ存亡の危機があったらしい。明治維新当時、日本各地で廃城やそれに伴う城の移築解体が相次ぎ、そんな時流の中にあってこの松本城もいったん民間に売りに出されかけたのだという。幸いなことに、その折、松本市民を中心とした多くの人々の間に熱心な保存運動が起こり、城の保存費用の調達に成功、そのお蔭で松本城は貴重な歴史建造物として現在に至るまでその姿を留め伝えることになったのだった。

ところで、国宝松本城の景観もさることながら、その城内においてはいまひとつ意外なものを目にすることができる。「松本城鉄砲蔵」と呼ばれる各種の種子島銃とそれらに関する貴重な歴史文献のコレクションがそれである。このコレクションを松本市に寄贈した赤羽通重氏の名を冠して、「赤羽コレクション」などとも称されているようだ。松本城の見学者は、城の入口から天守閣へと上る途中と、天守閣から出口へと下る途中で、自然にそれらの展示資料に目を通すことができるようになっている。こんなところで国内でも第一級の種子島銃関係の展示資料を見ることができるなどとは、初めての訪問者のほとんどは想像すらしていないから、その見事なコレクションを眼前にして少なからず驚かされることになる。

この日久しぶりにこの種子島銃の展示資料を眺め歩くうちに、種子島銃についてはほとんど知識など持ち合わせない身であるにもかかわらず、不思議なほどに想像力を掻き立てられることになった。以前に個人的な旅と取材を兼ねて種子島宇宙センターを訪ねた際に、初めて我が国に鉄砲を伝えたポルトガル人や倭寇の頭領で中国人の王直らの乗る唐船が漂着した浜辺にも立ち寄ってみたりしたことはあるが、これまでその歴史的意義や鉄砲が果たした大きな役割についてあまり深く想いをめぐらすことはなかった。せいぜい、長篠の戦いで3千挺の火縄銃をそなえた鉄砲隊と特殊な構造をもつ野戦陣地を巧みに駆使し、織田、徳川の連合軍が武田の騎馬軍団を打ち破ったという史話を、頭の片隅に辛うじて留めていたくらいのものである。

しかし、どういうわけか、この時ばかりは自分でも意外なほどに連想力が働いた。ひとつには、たまたまこの日の見学者が少なかったこともあって、あれこれと想いを馳せながら、じっくりと展示資料を眺めることができたせいでもあろう。これからその折に考えたことを少しばかり書いてみようと思うが、あくまでも素人の想像力と直観に基づく考察と推測だから、軽く読み流すつもりでお付き合い願いたい。

種子島の最南端にある門倉岬直下の砂浜(現在は荒磯に変わっている)に中国人倭寇・王直の指揮する唐船に乗って到来したポルトガル人によって、初めて我が国に鉄砲が伝えられたのは、天文12年(1543年)のことである。渡来人一行は半年ほど種子島に滞在したといわれているが、領主が彼らから入手した火縄銃を手本に、種子島の刀工、八板金兵衛(清定)は、翌年の天文13年には早くも自力による鉄砲の製造に成功した。当然、鉄砲伝来の噂は日本本土各地に広がっていったが、驚くべきはその情報伝達の速さと、その直後に各地の刀工たちがみせた鉄砲製造技術の習得に対する異常なまでの熱意である。

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