日本列島こころの旅路

(第40回)宮沢賢治の手紙(1)(2013,11,15)

もう10年ほど前のことになるが、東京府中市の生涯学習センターにおいて市民講座の講師を務めたことがあった。その折に講座の中で少しばかり宮沢賢治の世界観に触れてみようかようと思い立ち、書架の文献を漁っていると、ずいぶん昔に知人を通して入手した賢治直筆の手紙のコピーがみつかった。そんなものが手元にあったことなどすっかり忘れていたのだが、偉大な詩人作家を偲ぶにはまたとない資料なので、何かの参考までにと受講ににえた人々にもそれを紹介してみることにしたのだった。

宮沢賢治に関しては先人達によって数々の優れた研究がなされており、今更筆者などが私見を述べるような余地など残されてはいないのだが、なかなかに興味深い手紙ではあるので、この場を借りて読者の皆様にもその概要をご披露しておくことにしたい。

それは、昭和6年2月に、宮沢賢治が当時東京の「西ヶ原」というところにあった農林省農事試験場勤務の関豊太郎という人物に宛てた便箋3枚ほどの私信のコピーであった。宮沢賢治の年譜を調べてみたところ、関豊太郎は賢治が盛岡高等農林学校研究科に学んでいた頃の恩師であることが判明した。農学博士であったこの関豊太郎指導のもとで、まだ二十二歳の向学心旺盛な青年だった賢治は、地質・土壌や肥料の研究に携わり、岩手県稗貫郡の土壌調査を委託されたりもしたようでる。この手紙の書かれた昭和6年には賢治は35歳になっているから、恩師関豊太郎に指導を受けていた頃からその時までに13年の歳月が流れ去っていたことになる。

この手紙の筆跡にみるかぎり、賢治の字はたいへんに個性的であったと言える。当時の知識人の多くが用いた草書あるいは行書による連綿体の文字ではなく、多くの現代人の筆跡同様、どちらかというと楷書体に近い感じで一文字一文字が分かち書きにされている。独特の丸みを帯び、大きくてかなりアンバランスなその文字は、お世辞にも達筆とは言えそうにない。当時のことだから、表面的なものの見方しかしない大人たちなら、いい歳をしているのになんとも稚拙な文字を書くものだなどと陰口を叩いたりもしたに違いない。しかしながら、よくよく眺めてみると、それらは不思議に温かみのある文字なのである。

天才と呼ばれる人間にままありがちなそんな字体で、賢治は便箋3枚にわたるその手紙文を一息に書き上げたようである。かなり息の長い手紙文の流れからも、また最後までまったく段落も改行もなしに文章全体が綴られていることからも、そのことを窺い知ることができる。したためるべき文章の要旨を瞬時に頭の中で構築し、便箋をまえにしてすらすらと筆を運んだのであろう。もしかしたら、無段落で手紙文を綴るのは賢治にとって習慣的なことだったのかもしれない。折角の機会だから、その手紙の全文を以下に記載しておくことにしたい。手紙文中のフリガナと補足説明は筆者の手によるものである。

 

永々ご無沙汰いたし居りました(ところ)、本年は寒さ(こと)の外嚴しく悪性の感冒などもしきりでございましたが先生並びに皆様にはお(さわ)りございませんでせうか。(つつし)んでお伺ひ申しあげます。(さて)紙面を以ってまことに恐り(原文のまま)入りますが、年来のご海容(かいよう)に甘えお指図を仰ぎたい一事は本縣松川村東北砕石工場より私に同工場の仕事を嘱托(嘱託に同じ)したいと申して参りました儀でございます。同工場は大船渡松川駅の直前にありまして、すぐうしろの丘より石灰岩(酸化石灰五四%)を採取し職工十二人ばかりで搗粉(とうふん)石灰岩末及壁材料等を一日十(とん)位づつ作って居りまして、小岩井へは六七年前から年三百噸(三十車)づつ出し昨年は宮城縣農會の推奨によって(にわ)かに稲作等へも需要されるやうになったとのことでございます。(つきまし)てこの際私に嘱托として製品の改善と調査、広告文の起草、照會の回答を仕事とし、場所はどこに居てもいいし給年六百円を岩末で(はら)ふとのことでございます。それで右に(おう)じてよろしうございませうか、農藝技術監査の立場よりご意見お漏し下さらば何とも幸甚に存じます。(なお)石灰岩末の効果は(もっぱ)ら粒子の大小にあると存じますが稲作などには幾ミリ或は幾センチ位の(ふるい)を用ひてよろしうございませうか、いづれにせよ夏までには参上拝眉(はいび)いたしたく紙面を以って失礼の段は重々お(ゆる)しねがひ上げます。ご多用の場合かとも存じ同封葉書封入致し置きました。単に一方で抹消下さる迄でもねがひあげます。まずは。

昭和六年二月廿五日

宮沢賢治

關豐太郎先生

 

恩師関豊太郎に仕事上の判断を仰ぐきわめて実務的な手紙ではあるが、この手紙をしたたためてから二年半後に賢治が他界したことをおもうと、深い感慨を覚えざるをえない。稀代の大作家はこの頃まで実務に追われていたのである。

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