日本列島こころの旅路

(第35回)「夜明け前」の舞台となった藤村の生地「馬籠(まごめ)」(その1)(2013,6,15)

文学史上名高い島崎藤村の「夜明け前」という作品は、「木曽路はすべて山の中である」という有名な冒頭の一文に始まる。そして、その文の少しあとには、「馬籠は木曽十一宿の一つで、この長い渓谷の尽きたところにある。西よりいる木曽路の最初の入口にあたる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山道をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側に一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる」という、当時の宿場の風景描写が続いている。一世紀余を経た現代では、急な坂道を挟んで建ち並ぶ民家の造りと風情こそ異なってしまってはいるが、馬籠集落の基本構造と旧宿場町に特有な雰囲気そのものは昔とあまり変わりがない。歴史的な観光集落地として景観の維持保存がしっかりとなされてきているからなのだろう。

明治5年3月25日、島崎藤村(本名・春樹)は、この作品の舞台となった旧中山道の馬籠宿で本陣、問屋、庄屋を兼ねる旧家の当主島崎正樹の四男として生まれた。ちなみに述べておくと、本陣とは諸大名の参勤交代や幕府役人、公家衆の通行に備えた特別な宿屋のことで、各宿場町でも草分け的な存在の名家が選ばれるのが常であった。参勤交代で江戸に上るのに東海道ではなく中山道を選ぶのを常とした島津藩や鍋島藩などは、馬籠宿やその隣の妻籠宿を定宿にしていた。以前は長野県木曽郡山口村の一部だったこの馬籠は、山口村の越県合併に伴い、現在では岐阜県中津川市に所属するようになっている。

9歳まで馬籠で育った藤村は、上京して泰明小学校に転入し、その後15歳から19歳までの多感な時代を明治学院で学び過ごした。自由な校風で知られた当時の名門明治学院には外国人講師が多数いて、物理学、化学、論理学、心理学、経済学などの講義も英語やフランス語で進められていたという。歴史学の講義などではグリーンの英国史の原書が用いられ、授業はむろん終始英語でおこなわれた。厳しい中にも自由闊達な雰囲気の漂う恵まれた教育環境のもとで、近代文学者としての藤村の資質が大きく磨き高められたであろうことは想像に難くない。時代柄、少数のエリートらに限られてはいたのだろうが、当時の若者らの知識欲と、それゆえの語学力の高さには今更ながら驚嘆を覚えざるをえない。

旧中山道は西側の美濃地方(岐阜県)から馬籠に至り、そこから馬籠峠を越えて妻籠宿へと続き、さらに木曽谷伝いに、須原、上松、木曽福島、藪原、奈良井、贄川、塩尻と伸び続き、塩尻峠を越えて諏訪方面へと達していた。馬籠は中山道六十九次の宿場にあって、東方の江戸から数えると四十三番目の宿場町にあたっていたようだ。明治と大正の大火により江戸時代の宿場の建物はほとんど焼失してしまったが、古い石畳の続く急坂の街路とその両側に立ち並ぶ民家の風情は、往時の宿場町の雰囲気を十分に偲ばせてくれる。馬籠集落の南側にひときわ美しく聳え立つ恵那山(2190m)の雄大な姿も印象的だ。

いまから40年くらい前までは、若葉の瑞々しい初夏や紅葉の燃え立つ中秋の頃ともなると、馬籠峠をはさんで馬籠と妻籠を繋ぐ旧中山道の隘路一帯は観光客や若いハイカーで溢れかえっていたものだった。しかしながら、海外旅行が主流となった昨今では馬籠や妻籠を訪ねる旅人は激減してしまった。そのためだろう、かつては繁盛をきわめていた峠の茶屋もすっかり影が薄くなってしまっている。また、そうでなくても、両集落を結ぶ道路は立派に拡幅舗装され、以前と違って車の通行もすっかり自由になっているから、旅人らは峠の茶屋で一服する必要など感じることなく、一気に峠を越えてしまうからなのだろう。

詩集「若菜集」で名声を博し、小説「破戒」で近代自然主義文学者としての確たる地位を築いた藤村は、56歳のときにこの馬籠一帯を舞台にした大作「夜明け前」の執筆に取りかかった。藤村の父、島崎正樹は藤村が15歳のとき他界した。享年56歳であったという。その事実からすると、56歳になった藤村が、その年、中央公論において「夜明け前」の連載執筆を開始したのは、けっして偶然のことではなかったのだろう。その小説の主人公青山半蔵の人物像は、彼の父親、島崎正樹の姿そのものだったことがそれを裏付けている。

明治維新にともなう近代化の波に戸惑う庶民の姿や、王政復古の旗印に托したおのれの夢とその現実のギャップに苦しみ挫折して果てる青山半蔵の生涯を、故郷の木曽路を背景にして描いたこの小説は、実は日本の伝統や歴史の本質そのものと、維新における社会の近代化の意味を鋭く問いかけた著作であった。平田篤胤らの国学思想に傾倒する青山半蔵は、王政復古の旗印を、「国政のありかたを神武の創国時にまで戻し、多くの国学者が夢見てきたような古代復帰の念願の実現を目指すものだ」とひたすら信じ、大きく胸をときめかせた。しかしながら、御一新の現実は民心や旧制度の長所をも徹底的に無視した急速な西洋化の促進であり、国学思想の理想とするところとはおよそかけ離れたものであった。

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