日本列島こころの旅路

(第34回)国宝渡岸寺十一面観音を訪ねて(その3)(2013,5,15)

本来は如来相であるべき頭上中央の頂上仏は、これまた何故か如来形ではなく菩薩相面になっていた。他の十一面観音像にも見られる正面の小さな如来立像はむろん化仏(如来の仮の姿)ではないから、化仏の数は合計十個で、本面と合わせてまさに「十一面観音」と言いたくもなるのだが、破格はあくまでも破格ということになるのだろう。ただ、そんな型破りの構成をもつがゆえに、この十一面観音の化仏は他の十一面観音像のものに較べて一回り大きく表情も豊かで生気に満ち満ちていた。しかも個々の化仏の宝髻(ほうけい)は高く大きく盛り上がり、化仏自体の存在感をひときわ大きなものにしているのだった。個々の化仏の宝髻の前面に後光をもつ如来坐像が一体ずつ彫り込まれているのも特徴的だった。いっぽう、腰下から蓮台上に立つ両足先へ向かってすらりと伸びる両脚のラインも息を呑むほどに美しかった。均整のとれたこの観音像の脚線美の背後に、これまた遠い異国の文化の影が色濃く落ち潜んでいるのは素人目にも明らかであった。それにしても、観音像本体はむろん、蓮台の蓮肉の一枚一枚にいたるまでが一木造りだというのだから、それはもう驚きの一語に尽きた。

もともとは全身が金箔で覆われていたらしいが、いまでは水瓶や天衣の一部などにその名残が見られるだけである。長い年月の洗礼を受けて、全体的には下地の黒漆が表面に現れ、ブロンズ像の重厚な輝きにも似た感じの黒光を発しているのだが、それがまた言葉では形容し難い品格と崇高さとをこの十一面観音にもたらしているようでもあった。

――私は直接にあなたがた人間の苦悩を救うことはできません。でも、あなたがたの陥る迷いの数々や犯すであろう諸々の過ちは、それをけっして責めたりせず、すべてを包み赦してあげましょう。そして、永遠の微笑みと慈眼をもってあなたがたの生をいつまでも見守り、その道行きを祈り讃えてあげましょう。詰るところ、生きるのはあなたがた自身にほかならないのですから――無言のうちにそんな言葉を語りかけでもするかのように佇むこの国宝十一面観音には、しかしながら、隠れた受難の歴史が秘められていたのである。人間の業の生みもたらした戦乱の渦中で、この観音像は戦火に身を焦がし焼失の危機にさらされながらも、自らを悲惨な状況へと追い立てたそれら愚かな人間のためにひたすら救済の祈りをささげつづけてきたのである。

元亀元年(1570年)、織田信長は小谷城主浅井長政を攻めた。そして姉川の合戦とそれに続く小谷城攻防の激戦のなかで、湖北一帯に位置する数々の古刹の堂宇が焼き払われ、その寺領のほとんどは次々に没収されていった。信長の怒りを買っていた比叡山延暦寺傘下の渡岸寺にその法難から逃れる術のあろうはずもなく、堂宇はことごとく灰燼に帰し、渡岸寺そのものも廃滅した。その戦乱のさなか、この十一面観音を深く信仰していた地元の民衆は、兵火が堂宇を襲うのをものともせず猛火を冒して堂宇に入り、観音像を救出したと伝えられている。しかも、なんとか搬出はしたものの、それを織田軍将兵の目から隠し守る場所がなく、やむなくして土中に埋蔵し観音破壊の暴挙を回避したのだという。

織田信長と浅井長政といえば、歴史ドラマなどにおいて稀代の英傑として格調高く描き出される両雄ではあるが、現代の政治家らが皆そうであるように、多分その実像は、戦場となった一帯に住む民衆のささやかな生活や日々の敬虔な祈りなどにはおよそ無縁な存在であったに違いない。その時代を左右したといわれる彼らの戦いの意義は四百年余の歳月のなかで風化して最早跡を留めないが、両雄にとっては無意味に過ぎなかったであろう民衆の観音救出という隠れた抵抗行為のほうは、長い年月を経たのちに、結果として、この国が世界に誇る仏教文化と仏教芸術の維持保全に寄与するところとなった。歴史というものは実に皮肉なものである。戦乱がおさまった翌年、井口弾正が一帯を領するに及んで、辛うじて雨露が凌げる程度のささやかなお堂が設けられた。そして、土中から掘り起こされた十一面観音像はそこに安置され、世の殆どの人には知られぬまま、代々地元の民衆の手によって守り伝えられてきたようなわけだった。金箔がすっかり剥落し、黒漆の地塗りが表面に出てきているのも、そのような背景があったからだと伝えられている。

受難の日々に耐え、北琵琶湖畔の地で長い不遇の時を送っていたこの観音像が稀代の貴仏として世に知られるようになったのは近世になってからのことである。奈良や京都の高名な寺院にあって古来それなりの扱いをうけてきた他の国宝十一面観音像とはその点でも大きく異なっている。明治21年の宮内庁全国宝物取調局の調査ではじめてその真価を見出されて日本屈指の霊像として称賛されるようになり、明治30年になってようやく国宝の指定を受けた。そして大正時代になってから現在の観音堂のもとになる建物が建立され、昭和28年に新国宝として再指定をうけるに及んで、その掛け替えのない価値があらためて深く認識されるところとなった。幸い、それ以降は多くの心ある人々手で厚く祀り伝えられてきたのである。渡岸寺の山門をあとにしてからも、繰り返しくりかえし私は渡岸寺十一面観音の高貴な姿を噛みしめ想い起こしていた。

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