日本列島こころの旅路

(第31回)坊津(ぼうのつ)~鑑真和上渡来の地~(2013,01,15)

753(天平勝宝5)年12月20日、薩摩国阿多郡秋妻屋浦(現在の鹿児島県南さつま市坊津町秋目浦)に1隻の遣唐使船が難破寸前の状態で漂着した。そしてその船から、1人の盲目の僧侶がお供の者に手を取られながら浜辺へと降り立った。その名は鑑真、当時の大国・唐においても一、二を争う高僧であった。日本も唐にならって律令国家体制を整え、その根幹をなす仏教も隆盛を極めつつあったが、仏教本来の厳格な戒律にのっとり授戒を施すことのできるような高僧は皆無だったので、聖武天皇は鑑真の元に使者を送り、同師に日本渡航を要請したのだった。現代なら超一流の学者に相当する高僧の流出を防ぐために、唐王朝は厳しい規制を敷いていたが、大和朝廷の度重なる要請に意を決した56歳の鑑真は、743年、果敢にも日本への密航を企てた。不運にもこの最初の渡航計画は弟子のひとりの密告により挫折のやむなきにいたったので、鑑真は同年の12月に真冬の東シナ海の荒波をついて2回目の日本渡航を試みた。だが、天運はなおも鑑真に味方せず、狼溝浦というところであえなく遭難、再び密航は失敗に終わった。そのさらに1年後の744年、鑑真は3回目の渡航計画を慎重に練り上げたが、またもや密議が発覚、先導役の日本人僧栄叡が捕らえられ計画は頓挫した。それでも懲りない鑑真は同年の冬に天台山巡礼を表向きの理由として揚州から南下、東シナ海沿いにある日本帰航船の待機地に回って出国を図ろうとした。ところが、厳重警戒中の唐の役人に身柄を拘束され、再び揚州へと護送される羽目になった。

4度目の渡航失敗後も機を窺っていた鑑真は、748年6月密かに揚州を離れて9月に暑風山に到着、風待ちをしていた船に乗って奄美、沖縄方面を目指した。だが、東シナ海で船は激しい嵐に遭遇、航行能力を失って1ヶ月ほど海上をさまよったあとヴェトナムに近い海南島に漂着した。容赦ない潮風と強烈な太陽に加え、食料や飲料不足の伴う苛酷な漂流によって体力を消耗した高齢の鑑真は、その航海中に失明してしまう。5度目の渡航失敗から5年を経た753年10月、遣唐使正使の藤原清河らは揚州延光寺を訪ね、帰国船に同乗して日本へ渡航してくれるよう鑑真に要請、極秘のうちに揚州を出た鑑真は、11月16日の出航に備え蘇州黄泗浦に停泊中の遣唐使船団第2船に乗り込んだ。無論それは密出国だったから唐との関係悪化を懸念する遣唐使らの間にも計画決行には躊躇いがあったという。

遣唐使船団は4隻編成で、この時の第1船には正使藤原清河のほかにあの有名な阿倍仲麻呂が乗船していた。鑑真は監視の目を忍ぶため、要人用の第1船ではなく第2船に乗り込んだが、結果的にはそのことが幸いした。出航直後に第1船は東シナ海で遭難、かつての鑑真の場合と同じく海南島周辺に漂着した。また、暴風と黒潮の流勢に翻弄されて太平洋側に迷い出た第3船は紀伊半島南部の田辺付近に無残な姿で漂着、第4船は薩摩半島南端付近の荒磯に難破船の残骸となって打ち上げられた。船体構造や操船技術に難点のあった当時の帆船は風まかせの航海をするしかなかった。そのため、帰国する遣唐使船は、晩秋から冬期に吹く北西の季節風に乗って中国大陸を離れ、いったん琉球諸島や奄美諸島のどこかの島かに立寄ったあと、黒潮や対馬海流に乗って種子島・屋久島などの薩南諸島周辺まで北上、天候を見はからって坊津に入港するのがお決まりのルートになっていた。揚子江河口の真東に位置する坊津への直行は不可能だったのだ。鑑真らの乗る第2船は沖縄に着いたあと島伝いに無事屋久島まで北上した。だが屋久島から坊津への航行中に嵐に遭遇、太平洋側に流されかけたが辛うじて遭難を免れ、難破寸前の状態で坊津秋目浦に着岸したのだった。

坊津が良港とされたのは、琉球諸島西沖で黒潮から分岐して北上する対馬海流がその沖合いを流れていることに加え、同地が特殊な地形を持つからであった。一口に坊津というが、北側から順に、秋目浦、久志浦、泊浦、坊浦と、西に向かって開ける複雑な形の4つの入江の総称が坊津なのである。5本の指を広げたような地形の4つの指間に相当する部分がそれぞれ入江になっており、さらに各入江の奥には船の停泊に適した二重、三重の小さな入江が形成され、外海の風浪から停泊船がしっかりと守られる構造になっていた。満足な海図や羅針盤などない時代の波風まかせの小型帆船にとって、4つの浦のどれかに辿り着きさえすれば安全が保証される坊津は願ってもない港であった。開聞岳や野間岳のような航海の目印となる特異な山々が近くにあったのも古代の舟人には幸いなことだった。

坊津秋目の地を踏んだとき鑑真は既に66歳になっていた。仏教の教義にある大勇猛心の化身のごとき鑑真は、苦難の末に降り立った異郷の地でいったいどのような感慨に浸ったことだろう。坊津で修理と補給を終えた船は鑑真一行を乗せて九州西岸沿いに航行し、有明海の最奥にある現在の佐賀県久保田町付近の浜辺へと到着した。そのあと鑑真らは陸路大宰府入りし、博多津に出て再び用意された船に乗り、瀬戸内海を通って難波津に入港した。そして唐を出立した翌年の2月4日に聖武天皇の待つ平城京入りを果たしたのだった。故郷揚州を立ってから平城京に到着するまで実に3ヶ月半にも及ぶ長旅であった。

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