日本列島こころの旅路

(第29回)大川小学校の惨劇を再考する(2012,11,15)

東日本大震災発生以来、岩手、宮城、福島の被災地一帯を数度にわたって訪ね廻り、その惨状の詳細を目にしてきた。毎回出向くごとに岩手から福島に至る450km余の海岸線を南下あるいは北上するかたちで車を走らせ、筆者なりに取材を続けてきたのだった。大震災発生からまだ間もない2011年4月末に同地を訪ねた時などは、国道を繋ぐ橋梁のほとんどが通行不能になっており、海岸沿いの国道も至る所で寸断されていた。だから、細長い入江や河口を挟む対岸へと渡るにも、いったん20kmから30kmも内陸へと入る迂回路を辿り、再び海岸線へと戻るという行程を何度も繰り返す必要があった。また、被災集落の路面は瓦礫や廃材が散乱したり地盤低下で冠水したりしている所が多く、ノロノロ運転をせざるをえない状況だった。それゆえ、最初に出向いた折などは、岩手県岩泉町小本から福島県南相馬市小高付近まで走るのに数日間を要し、実走行距離も700km余に達した。

被災地の状況については既に各種メディアで詳細な報道が重ねられてきたし、筆者自身も他誌で長期連載の筆を執ってきたから、ここで改めて触れることはしない。ただ、今年9月の石巻市立大川小学校再訪時に感じたことだけは、是非とも書き留めておきたいと思う。追波湾に向かって大きく広がる北上川河口から4kmほど上流に新北上大橋が架かっている。東日本大震災の津波で破損したこの橋の右岸側たもとから200mほど離れた、北上川堤防後背地に大川小学校は位置している。大津波に襲われ、当日登校していたこの学校の学童108人中の74人と、教員11人中の10人が死亡ないしは行方不明になったことは記憶に新しい。大震災直後は一帯には厳しい規制が敷かれており、一般人は近づくことができなかったが、現在では誰もが自由に悲劇の現場を目の当たりにすることができる。

被災後しばらくすると、教師らの的確な避難誘導がなかったから多数の生徒が犠牲になったとし、その責任を厳しく問う声がメディア界を中心に湧き起こった。犠牲者遺族からの訴えもあり、責任問題は目下係争中であると聞くが、現場に居合わせた教師らが1人を除き他界した今、事実関係の解明やそれに基づく告訴事項の裁定は容易ではないだろう。遣り場のない痛みを癒すためにも責任の所在を何処かに求めたい遺族の気持ちはわかるのだが、実際に現地を訪ね具に周辺状況を調べてみると、一概に教員のみを非難するわけにもいかなくなってくる。宮城県が作成した従来の津波浸水予測図に基づくと、大川小学校は浸水想定区域から完全に外れ、学校自体が津波の際の住民避難場所に指定されてもいたのである。昭和三陸大津波レベルの津波であっても大川小学校には直接的な影響はないとの公の判断があり、今般のような大津波の来襲はまるで想定されていなかったのだ。北上川河口岸一帯の広大な緩衝地形と下流域の高く頑強な堤防がこれまで津波被害を阻止してきたことに加え、奥深い湾にもまがう広い川幅の北上川が、流れに逆らって30km余も遡上する津波のエネルギーをその都度吸収相殺してきたからなのである。

大川小学校の校舎はドイツ様式の洒落た2階建ての造りで、その屋上は100mほど離れたところにある北上川の堤防と同じくらいの高さだったが、桁違いの大津波はその屋上をも呑み込んでしまったのだ。校舎の設計者が津波のことを考慮していなかったとは思われないから、文字通り想定外の事態だったに違いない。避難誘導の不手際を批判されている教師たちだが、学童を守るために彼らがそれなりの努力を怠ったとは考えにくい。11人中10人の教師が死亡したという事実に鑑みても、的確な判断や迅速な対応の難しい何かしらの事情があったのではと推測される。学校の裏山に避難所はおろか、まともな山道さえ設けられていなかったこと自体、それほどの巨大津波の来襲など夢想すらされていなかった証である。問題の裏山にも実際に登ってみたが、足場の悪い泥炭層からなる急斜面のうえに樹木が密生していて、校舎の屋上を眼下に望む位置にまで達するにはそれなりの労力を要した。裏山にはまともな小道すらないうえに、大震災当日は雪が積もり滑りやくなってもいたというから、総勢120人ほどの教師と学童が樹林を掻き分け急斜面を登るのは困難だとした判断は、やむを得なかったのだろう。何とか登ったとしても、密生した急傾斜の樹林中には全員が身を寄せるスペースなど無かったから、あとの対応にも窮したと思われる。津波の際、裏山に緊急避難するという発想自体が市当局や住民間にもなかったわけだから、教師らの判断を一方的に責めるわけにはいかない。

いま大川小学校には犠牲となった74人の学童らを弔う「被災学童鎮魂供養塔」が建立されているのだが、そこには犠牲となった教師10人の魂を慰霊する碑文は見当たらない。物言わぬ彼らの霊魂は、一方的にその非を責める声をどのように受け止めているのだろう。小中学校生徒の被災が僅かですんだ「釜石の奇跡」と対照的に扱われがちな「大川小の悲劇」だが、津波浸水想定区域の直中にあり、背後の高台に向かってごく普通の生活道路がのびる釜石のケースと比較するのはもともと無理な話なのだ。

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