日本列島こころの旅路

第21回 原子力発電所災害に思うこと(その11)(2012,03,15)

ジェネラルエレクトリック社やウエスティングハウス社などによって原子力発電技術が開発されると、米国は将来的な原発ビジネスを睨んで周到な戦略を立て、各国にそのセールスを展開し始めた。なかでも戦後急速な経済発展を遂げつつあった日本などはその格好のターゲットとなった。原子爆弾という凄惨な兵器に用いられた巨大エネルギーが電力という平和でクリーンなエネルギー生産に転用できるというアピールは、日本の政財界やマスメディア界の指導者たちの心を捉えた。原爆の唯一の被爆国民として核エネルギーの恐怖を熟知していただけに、その核力を平和利用できるというアピールが返って日本人の心理を微妙に揺すぶった節もなくはない。日本の科学者たちの中にもそのアピールを肯定的に受け取った者が多かったという事実がそのことを何よりもよく物語っている。

終戦から10年ほどが経った頃、政財界の指導者の間には「夢のエネルギー」を日本にも導入すべきだという機運が高まり、なかでも読売新聞社の社主でもあった正力松太郎はその実現のために積極的に動いて政財界の意向を纏める役割を果たした。その流れを受けて昭和31年5月には原子力委員会が立ち上げられ、科学技術庁をはじめとする関係省庁は原子力行政を担当する特別な部課を設けて、原子炉とは何か、原子炉を導入に際して行政的には何をやるべきなのかについての検討を開始した。そして、東芝は沸騰水型原子炉の、また三菱は加圧水型原子炉の導入とそれに付随する技術研究を担当するようにとの取り決めが定められた。さらに、燃料となる濃縮ウランは米国より輸入し、重水や減速材として不可欠な黒鉛などの原子炉材料の研究を国内でも促進するようにとの初期方針の決定がなされた。この時期、米国大統領のアイゼンハワーは原子力の平和利用を国内外に向かって強く提唱しており、それを受けた日本などでは、政財界も科学界も原子炉というものを肯定的に捉えていた節がある。今からすれば信じ難い話だが、この時点では誰もがその負の側面を十分には理解していなかったということなのだろう。

米国は原子炉技術を世界に普及させるため、国立アルゴンヌ研究所にアルゴンヌ原子炉学校を開設し、世界中から集まる研究者や研修者に一連の原子炉技術の指導を行っていた。そこで、我が国からも関係省庁の技術官僚や大学の研究者、メーカーの技術者などが原子炉技術修得のためアルゴンヌ原子炉学校に派遣された。この学校には世界の28ヶ国から研修者が参加し、1クラス10名からなる組分けをして研修指導が進められた。日本からの研修参加は10期にわたり、参加者総数は29名で、その内訳は大学研究者3名、行政官7名、日本原子力研究機構関係者9名、電力会社技術者3名、メーカー技術者7名であった。

現在80代半ば過ぎで、旧科学技術庁から第1期生として同校に派遣された人物の話によると、当時の日本にはまだ原子力工学や原子炉工学なるものが存在しなかったので、渡米後は文字通りゼロからスタートし、原子力の世界のイロハを勉強しなければならなかったらしい。本来は船舶工学が専門だったこの人物をはじめとする日本人研修者らは、原書を山のように買い込み、死にもの狂いで猛勉強を重ねたのだという。国を背負っているという意識に加え、各国から派遣された優秀な研修者との競合という一面もあったから、善し悪しはともかく、実際その勉強ぶりは身体を張った凄まじいものであったらしい。

国立アルゴンヌ原子炉学校において、研修者らは、原子炉の燃料であるペレットの造り方、核分裂反応減速材の製法等の修得に始まり、実験炉を実際に操作することを通して一連の原子炉技術を体系的に教え込まれた。また、それと並行して放射線の遮蔽実験や、犬を用いてプルトニウムの影響を調べる研究なども参加したという。ただ、現在とは違って、当時は人体に対する放射線の被曝許容基準量などもまだ明確には定められていなかったので、研修者らが各種実験や技術研修の過程で浴びた放射線量なども不明というのが実状であった。日本から参加した研修者は皆男性であったが、放射線被曝の影響で一種の無精子症的な症状を被り、そのうちの多くの者が結婚後10年くらいは子供ができない事態に直面することになった。ただ、原子炉技術開発黎明期のことでもあったので、新技術修得への期待感のほうが優先され、その種のリスクは職務上のことゆえやむをえないと受け止められていたようである。

世界各国から集まる研修者に対する米国側の対応はきわめて鄭重で、研修費や交通費、滞在費はすべて米国から支給されたほか、様々な実験や調査を遂行するための研究環境や宿泊滞在先をはじめとする生活環境にも最大限の配慮がなされていた。現在とは違って原子力関係の最先端技術の公開や提供にも米国側は積極的だったし、原子力行政に関する実務的研修についても極めて協力的であったという。各国から来た研修者を介してそれらの技術が自由に国外に広がることを容認することによって、間接的に政治経済面で世界を支配できるという考え方が当時の米国にはあったからでもあるらしい。

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