執筆活動の一部

46. 《言葉の世界にみる数学的想い》 3/4
(茨城県公立高等学校数学科教員研修会にて:2006年6月23日)

いまひとつには、そういう事を考えるいっぽうで、いくらか文芸的な仕事をやりたいものだと考えまして旅をする様になりました。なれてもせいぜい三流ライターの身ですから旅行といっても文字通りの貧乏旅行ではありましたが、ともかく自分の感性を最大限に生かしていろいろなものを見る旅がしたいと思いました。そこで私は一日における通常の行動パターンを無視した旅をしようと考えました。私は甑島という本当に辺鄙な土地で育ちましたが、当時、そこは真っ暗な闇の世界がある所でした。そのかわり星空がとても綺麗でした。今とは違って、真夜中でも子どもが一人で外を歩くことも許されていました。現代なら、危ないからそんなことは駄目だと、すぐに規制されてしまうことでしょうが……。まあ、そんなわけで、夜に星を眺めたり、人魂まがいのものを追いかけたりと、文字通り闇で五感を磨くような生活をしてきたものですから、大人になって旅をする時でも、夕方何時になったら宿泊先に入って食事をとって、朝は何時になったら起きて食事をとってといったように、無意識のうちに時間に縛られた行動をするのが好きではありませんでした。そこで、車の中で寝泊りできるようにしたり、そのほか何処にでも泊まれるような態勢を整えたりしたうえで、一日24時間をベースにした行動パターンを捨て去って旅をしようと思いました。そして、そんな旅から何が見えてくるか考えてみよう……、さらには、そうやって見えたものを自分の言葉で表現してみようと……。それは結局、言葉の根っこ、表現というものの一番の根っこというものを自分なりに考えてみようということでしたから、つまるところ、かつて数学の定義にこだわっていた自分の思いが無意識のうちに姿と形を変えて再び現れてきたのだと言えないこともありませんでした。まあ、ともかくも、そういう風に旅をする様になってきたわけなのです。おかげさまで、そんな旅をしながら駄文を綴り、奥の細道文学賞なるものを頂戴することになったようなわけなのですが、だからと申しまして、別に芭蕉の研究をしたわけではありません。紀行体の文章を書きはしましたが、その中には芭蕉の事など一言も書いてはおりません。

ただですね、3年ほど前のことですが、芭蕉の奥の細道という作品について――まあ国語の先生にこんな事をお話すると叱られるかもしれないのですが――それまで教わってきたここととは違う見え方がしてきたのです。これまた、実際の旅を通して見えてきたことではあるのですが……。奥の細道の作品の中に、「尿前の関」という項があります。現在の宮城県鳴子温泉から山形方面にすこし行ったところです。そのあたりの旅の様子を綴ったその「尿前の関」の記述の中に、「蚤虱馬の尿する枕もと」という有名な一句がおさまっています。その時、芭蕉と曽良は封人――その地の庄屋と関所役人を兼ねた人物のことなのですが――その封人の家に泊まったと言われています。が、それ以前に、芭蕉はいまの釜石にも立ち寄っているのですが、その時にはその地の豪商の家に泊まっているのです。それなのに、奥の細道のなかではとても貧しい民家に泊めてもらって、次の日も道なき道をほそぼそとした思いで旅を続けたというふうに書き述べています。あきらかに事実とは異なっているわけなのです。なんで?――とそのことは以前から私の心に引っかかっていました。そのようなことがあったものですから、「封人の家」なるものについても、少々気になってはいたのです。幸い、いまもその建物は残されているというので、そこを訪ねてみることにしました。それでなくても、なにかあると、自分尾目でしつこく現場を確認してみないと気が済まないたちなものですから……。

(板書)それは立派な茅葺きの家屋でして、ここは馬が数頭ほどは飼える馬屋になっています。そして、そのこちら側に30畳ほどの広い土間があります。馬が飼われていたのはその土間のはじに隣接する馬屋だったわけです。いぽう、その広い土間の馬屋と反対側には大きな部屋が表と裏とに並んで3部屋づつ、合計6部屋もあり、芭蕉が宿泊したのはそのうちの奥から2番目の表側の部屋だったと言われています。一番奥の二つの部屋は大名などのような身分の高い人物が泊まったのだそうです。さて、馬屋から芭蕉が泊まったといわれる部屋の端までは11メートル以上もあります。結構離れているんです。「蚤虱馬の尿する枕もと」というこの句を読んだかぎりでは、馬がジャージャーとオシッコをするすぐそばで、蚤と虱だらけのボロ布団に身をくるんで寝ていたような感じを受けるのでが、実際にはそうではなくて、馬からは相当に離れた所にある立派な部屋で、おそらくはそれなりに立派な寝具にくるまれて寝ていたはずなのです。しかもこの馬は「小国駒」と呼ばれていまして、当時の大名たちに献上した最高級馬だったわけですから、買主から我が子の様に可愛がられて育てられていたわけです。駄馬なんかではありませんでした。そうすると全然話が違うじゃないかということになってくるのです。さらにそのあと、芭蕉一行は山刀伐峠という凄い難所――奥の細道一番の難所として記述されているわけですが――にさしかかり、道無き道を掻き分け掻き分けその峠を越えて出羽の尾花沢に辿りつくという話になっています。

ところがですね、また細かく調べてみますと、彼らが滞在した堺田の封人の家のあるあたりと山刀伐峠の最高地点の標高差って実は200メートル足らずなんですよ。180メートルぐらいのものでしょうか。しかも、そこを通る道がほんとうに道無き道の状態になっていたかというと、そんなことはなくて、ちゃんと出羽街道というのがあって、芭蕉の時代には通行量もそれなりにあったらしいんです。ですから、先導に立つ屈強な若者にナタで藪を払ってもらい、そのあとをなんとかついて行くような峻険な道ではなかったということがわかってきました。では芭蕉はなぜそんな記述をしたのか?……。いろいろと考えてみているうちに、そうかと閃くものがありました。そのとき私の頭に閃いたのはほかならぬあの円錐形と漸化式だったんです。歴史的な事実を考察する場合、私たちはついつい無意識のうちに自分がいま生きている現代の物差を当てて考えてしまう。現代の物差を無意識にあてて昔のことを測ろうとするから間違ってしまうわけなんです。円錐形の底面側、即ち、現代の側から、円錐の頂点、即ち、過去の時代のほうを眺めるために、時々、大きな誤解をしてしまうわけなんです。そこで、極力想像力をたくましくして、過去のほうに視点を置き過去の物差で――言うなれば、円錐の頂点側から底面側を照らしてみれば何が見えてくるだろうかと考えました。それからまた、原理的には同じ過程を何度も何度も繰り返し繰り返して行くと時に、いうなれば、漸化式風に過去から現在に向かって思考を広げていく時に一体何が見えてくるのだろうかとも考えました。

そして、実際にそうするうちに、はっと気づいたのです。現代では「紀行文」というのは旅の途中で起こったことや体験したことを事実にそくしてそのまま書き記すものだと考えられています。しかし、芭蕉の紀行文は現代の紀行文とはその意図も手法もまったく違っていたんじゃないかと思ったわけです。端的に言えば、旅の体験をベースにはしているけれども、それをそのまま忠実に記録したものではなく、印象派の画家にも似た心象風景として仕上げたものなのではないかと……。別の比喩を用いれば、風景写真ではなくて上質の風景画みたいなものだと考えれば良いのではないかと思ったのです。芭蕉という人は元禄時代に、能因法師とかもっと以前の西行法師とかが陸奥を歩いたことを知り、その足跡を辿ってもようともしたわけです。元禄の時代というのはもう相当に拓けた時代です。現代の私たちが芭蕉の足跡を辿ろうとしても、すっかり拓けてしまってその時代の面影などまずもって目にすることなどできません。まったくそれと同様に、芭蕉もまた、西行や能因といった先人たちが歩いた所はどこもすっかり拓けてしまい昔の面影などどこにも残っていないと感じたのではないかと思ったわけなのです。 もし芭蕉が陸奥の旅路でそのような思いをもったとすれば、どうしたことでしょう。たぶん、彼は、事実をただそのまま書き連ねるのではなく……、言うなれば「言葉の絵師」としての立場を堅持しながら紀行文を書こうとしたに違いありません。優れた絵画というものにはモデルはありますけれども、写真みたいにそのモデルをそのままそっくりに描いてあるわけではありません。芭蕉は写真を撮ろうとしたのではなく、あくまで絵画を描こうとしたのだという風に考えてみれば、この人物の意図というのが見えてくるのではないかと……。もしそうだとすれば、事実とはまるで異なることが書かれていることの理由やその背景なども十分に了解できるのではないかと……。現代的な意味での「紀行」という言葉に縛られてしまっている自分が、すなわち、芭蕉の時代においても、旅路で起こったことのすべてを忠実に書き記すことが「紀行」であったと思い込んでいる自分の方が間違っていたのではないかと、その時初めて考えるようになったのでした。

そして、そう考えるようになった途端に、巷でよく見かけるような「芭蕉忍者説」や「芭蕉隠密説」といったようなものはまるで意味のないものだという結論にも達したのでした。もしも芭蕉が幕府の隠密で、隠し田や隠し金山などの存在を内偵する任務を負っていたとすれば、山刀伐峠越えレベルの旅をしていてその責務を果たせたはずなどありませんからね。こんなことを述べ語りますと、奥の細道に書かれていることを事実そのままだと信じていらっしゃる方々から反論を受けたり、あまりにロマンのない話だと嫌われたりしてしまうかもしれません。でも、このように新たな芭蕉像の捉え方をすれば、奥の細道の記述と曽良日記などに基づく事実との相違のもたらす疑問を解消することはできるような気がします。この種の旅の発見というのものは他にもいろいろとございます。

種子島銃に端を発する鉄砲問題についての発見も旅を通してのことでした。種子島に渡って種子島銃関係の詳細な資料を目にするまでは、種子島に伝わった鉄砲の技術はまず当時の薩摩藩に伝わり、そこから九州を経て中国地方、さらには近畿地方へとそれなりの時間をかけながら伝わって来たものだとばかり思っていました。ところがですね、なんと、鉄砲が伝わった三ヶ月後には紀伊半島の雑賀衆がもう種子島に行っているのですね。そして種子島に伝来した鉄砲の複製技術を修得して一年後にはもう紀伊に戻ってきている。そして次の一年間で三千丁もの鉄砲を造ってしまったのですね。なぜそんなことがと首を傾げたくもなるのですが、よく考えると、そんなことになったのは「海」のおかげなのですね。種子島からは黒潮が紀伊半島付近に向かって流れていますから、鉄砲についての情報報はその黒潮に乗る船によって一気に近畿地方にもたらされたわけです。それからもうひとつ見落としてならないのは、鉄砲というものが当時の日本において果たした重要な役割です。フランシスコ・ザビエルは日本に来てからいろんな地方を巡っているのですが、そのうえでポルトガル王国に対してレポートを送っているのです。それは「この国を武力で支配するには難しい」というレポートだったのです。宣教師、すなわち、神の戦士としてのフランシスコ・ザビエルには、もうひとつ裏の顔がありました。スポンサーたるポルトガル国王への情報提供者、植民地主義者の手先としての顔です。そのザビエルがそのようなレポートをしたのは、彼が来日した時には既に、膨大な数の鉄砲が日本国内に存在していたからなのです。いくら性能が良い鉄砲をもっていたとしても百人や二百人では何千丁何万丁もの鉄砲をもつ武士集団と戦って勝利を収めることはできません。中南米とか中東、インドなどにおいて、西欧勢力は鉄砲の威力をもってその地を支配することに成功したわけですけれども、日本だけはそういきませんでした。刀鍛冶が各地にいた日本には玉鋼(たまはがね)、すなわち鋼鉄を造る技術があったので、すぐにも鉄砲を大量生産することが出来ました。日本が植民地にされなかったのは鉄砲のおかげなのではないか、鉄砲というものは通常考えられている以上に大きな役割を果たしてきたのではないかという思いがするようになりました。地図を眺めながら、いろいろと想像力をめぐらしているうちに、いつしかそんな歴史の裏側が見えてくるようになりました。

それからもうひとつ、歴史がらみの事例としては遣唐使船などの問題などもありますね。数学をやっていた人間の特性として、実際のところはどうだったのかなと半ば懐疑的に諸事実を検証していこうとするところがあるのですが、そういう性癖がプラスになって歴史上の事象の隠れた一面がはっきりと見えてくることがあります。資料を調べてみると、遣唐使船団は4隻の船で構成され、正使以下総勢500名くらいの者が各船に分乗し唐に向かったことがわかります。それぞれの船は全長45メートルぐらいの木造平底船なのですが。往路よりも帰路のほうがずっと遭難率が高かったようです。どうしてそうなったのかよくわからなかったのですが、あれこれと想像力を働かせているうちに見えてきたものがありました。当時の和船はいわゆる帆掛け船だったのですね。皆さんご存知の通り、帆掛け船は風が後方か斜め後方から吹いてこないと前進するのが難しい。ところが、ヨーロッパやアラビア、中国などの帆船は前から風が吹いてきても前進できる構造になっていました。揚力を利用するヨットの原理をすでに用いていたからです。しかし日本の遣唐使船などは帆掛け船だったのですね。後方寄りから風が吹かないと帆前進できない掛け船の性質上、太平洋側から大陸に向かって風が吹く夏場の季節に中国に渡航したのは自然の成り行きでした。往路はまだよかったのですが復路はとても大変だったろうと思われます。復路は冬場に大陸から東シナ海に向かって吹き出す北西の季節風に乗って大陸を離れざるをえませんでした。秋期は風向きが一定しないうえに台風に出合う危険性が極めて大きかったからです。冬の季節風は北西風ですから、その風に乗ってもストレートに九州本土に達することはできません。どうしても沖縄方面に流されていくわけです。うまく琉球諸島のどこかの島に到達できれば、天候のよい日を選んで島伝いに屋久島や種子島あたりまで北上し、そこから薩摩半島の坊津あたりに入港できたのですが、帰還船の多くは琉球諸島のどこにも着けずに太平洋側に抜けてしまったわけです。運良く琉球諸島のどこかに到着しても、そこから北上する際に嵐にあって遭難したり、方向を失って太平洋へと流されたりしてしまう船も少なくなかったろうと想像されます。

太平洋に抜けてしまったら、北西の季節風と黒潮に乗って東寄りに流されるだけですからもうアウトで、行方不明になってしまったわけです。なかには辛うじて紀伊半島の突端あたりに難破船として漂着した船もあったようですが、どちらにしろ無残なかぎりで、遣唐使団員の母国帰還率は25%くらいだったと推定されますから、とんでもない話ですよね。それを承知で当時の若者らが唐に旅立ったのは、現代の宇宙飛行士同様にある種の使命感や未知の世界への憧れがあったからでしょう。とにかく、旅を通して海を眺めたり風を肌で感じたりしながら、自分の言葉と自分の体験をもって考えていくうちに初めて見えてくる世界というものがあるわけです。ちなみに述べておきますと、六回目の航海で鑑真和上はようやく我が国にやってこられたわけですが、その六回目の渡航にチャレンジした際、鑑真は第二船に乗っていたんですよね。正使の藤原清河やあの有名な阿部仲麻呂がこの時に乗っていた第一船は現在のベトナムに近い海南島まで流されてしまったんです。鑑真の乗った船だけが奇跡的に坊津に辿り着いたんです。平城京に入ってからの鑑真ついても不思議に思うことがあります。ご承知の通り、鑑真のもとには戒律を受けるために日本各地から僧侶らが多数やってきてその教えを乞うたとのことなのですが、一体鑑真は何語で講義をしたのかなと考えるわけです。まさか日本語は喋れなかったでしょうから中国語だったのでしょうが、その場合に通訳がついたのか、紙が貴重だった時代に筆記用具は何を用いたのか、いまでいうテキストはどうしたのか、もしそんなものを使わなかったとすれば、当時の僧侶らは皆おそろしく記憶力が良かったのか……、このあたりのことは専門家に訊いてもわからないことばかりなんですね。ですから、そのぶん、考えれば考えるほど面白いということにもなるわけです。

教育がらみということになりますと、最近旅をしていてとてもショックを受けたことがありました。ちょうど1年前のことですが、取材のついでに伊豆半島先端の石廊崎に立ち寄ったことがありました。3月の日曜日のことで、とても天気がよかったので、久しぶりに石廊崎で夕日を見たいと思ったんです。昔は石廊崎一帯はずいぶん栄えていたのですが、いまはもう広い駐車場がガランとしていて、5時半になったら入口を閉鎖すると書いてあるのです。何故だ?……と思いながらも仕方がないので路肩上に駐車しまして岬へと向かいました。ところがですね、途中の道沿いにあったたくさんの土産物屋はもちろん、ジャングルパークという大きな植物園のような施設までが無惨に荒れ果てた状態になっているんですね。どうなっちゃったのだろうと思いながら、ともかく石廊崎の先端まで行ってみたのです。そこで眺めた夕日はとにかく綺麗でした。西に太陽が沈むと同時に東の空には満月がのぼってきて、その光景もまた感動的でした。その時になって、なんでここにいるのが自分一人だけなの?……という疑問が湧いてきたのです。私にも息子と娘がおりますが、彼らがまだ小さかった頃、一緒にこの岬に夕日を見にきたことは何度かありましたし、夜に懐中電灯をつけながら周辺の岩棚の上を探索して回ったこともありました。もちろん、その頃は家族連れやアベックなどの来訪者で溢れ返っていました。日曜日など駐車場は満車状態で、夕日の眺められる日などは観光客でいっぱいでしやから、早々と駐車場が閉鎖されるようなことはありませんでした。それなのに、この日は私だだ一人だけで、一組のアベックの影すら見あたらないんですよ。その時に、ああ自分は異邦人になってしまったのだなあと思いました。世の中の趨勢が大きく変わり、自分のもつ感性のほうが時代から取り残されてしまったのだなあと感じたわけなのです。多分ですよ、今の子どもたちの親御さん方や若者らには、石廊崎みたいなところで夕日や夕月を見ながら、綺麗だなと感動するような感受性がなくなってきているのでしょう。ましてや、その子どもたちにいたっては、そんな所に連れて行かれて夕日や夕月を見せられたってそれが何だよ、とでもいうことになるのでしょう。そんなバカなことをするよりは、何処か塾にでも行ってお勉強でもしてなさいということになってしまうのだろうなと……。自然に親しみ観察力をつけようなどと綺麗事を言っているけれど、この有様ではそんなことなど不可能だし、いったいこんな子どもたちの行く末はどういうことになるのだろうと……。(中略)

(つづく)

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