執筆活動の一部

31. 人工合成ゲノムの光と影

「人工生命誕生」まで秒読み段階に

米国の生物学者でセレラ・ジェノミクス社の創立者、J・クレイグ・べンター博士率いる合成生物学研究チームが、「マイコプラズマ・ゲニタリウム」というバクテリアのゲノム(全遺伝情報)を人工合成し、その成功の詳細をサイエンス誌の電子版に発表した。原始的なウイルスの合成事例は過去にあるが、五十八万塩基対にも及ぶ長大なゲノムの人工合成は世界初の成果である。この研究チームはまず当該ゲノム全体の八分の一から四分の一の大きさの分子を試験管内で化学的に合成、それらの分子パーツを大腸菌を用いた遺伝子組み換え技術によって接合し、より大きな分子パーツを作成した。そして、さらにそれらのパーツを同様の手法によって酵母菌中で接合し、目的とするゲノムの完全人工合成に成功した。

グレイク・べンター博士は、「人工合成生命体を生み出すには三つの工程が必要となる。第一の工程は既に実現されており、今回は第二の工程にあたる染色体の完全な人工合成に成功した。人工合成生命体の誕生に必要な残り一つの工程は、今回合成に成功したゲノムを異なるバクテリアの細胞内で実起動させることである」と語り、さらに、「その最後のプロセスは、新たなOSやソフトウェアをコンピューターにインストールし、それをまったく機能の違う別種のコンピューターに変えてしまうようなものだ」と説明している。

ベンター博士の言う第一の工程とは、あるバクテリアから採取したゲノムを他のバクテリアに移植して「それを起動させること」を意味しており、昨年六月にその工程の成功を公表している。したがって、今回人工合成されたゲノムを開発済みの第一工程の技術によってバクテリアに移植し起動させれば、世界初の人工生命が誕生することになる。ほかならぬ神の領域にいよいよ人間が踏み込むことになるというわけだ。ことの善悪はどうであれ、人類未踏の領域に己の足で第一歩を刻むのは科学者の誰もが抱く究極の夢だから、倫理面や安全面からの規制が如何に強かろうと、近々、人工生命体の合成が実現することは間違いないだろう。多くの専門家たちは、今年度中に世界初の人工合成生物の誕生が発表されるだろうと予測している。未公表なだけで、実際にはべンター博士らのチームは既に人工生命体を作り出しているのではないかという憶測さえ飛び交っている。

坊主頭に白い短めの顎鬚をたくわえ、細めの鋭い双眸をもつベンター博士は、ヒトゲノム解読を日米欧共同の国際チームと競い合い、二〇〇〇年、国際チームとほぼ同時に全ゲノム解読に成功した実力者だ。「同博士の率いるクレイグ・べンター研究所の力量をもってすれば、コンピューターに保存された各種ゲノムの情報ファイルを用い、合成化学の技術を駆使して人工を生命を生み出すことは容易だろう」と、カルフォルニア大学の合成生物学の専門家クリス・ボイト博士は語っている。ベンター博士らによるゲノム人工合成の成功にともない、理論的には生命体を自由に設計できるようになり、人間社会に有用な化学物質、たとえばバイオエタノールなどの物質を生成できる一種の生物ロボットも開発が可能となる。それらの生物ロボットに植物の繊維や細胞壁を効率的に分解させようというわけだ。大量の有害廃棄物などを迅速に分解無毒化する特殊微生物の設計も夢ではなくなるし、作物の増収を図ったりその生育期間を早めたりすることもできる。

ただ、当然、様々な危惧も生じている。米国では既にDNAの通信販売が行われ、注文に応じ、遺伝子操作したDNAを作ってくれる企業まで現れている。熟練した遺伝子学者なら、公表済みの塩基配列情報と通信販売のDNA、そしてごく普通のノートパソコンさえあれば、致死性のある人工病原体を合成することなどいとも容易なことなのだ。バイオテロの危険性が指摘されているのもそのような事情があるからだ。また、国立遺伝学研究所の小原雄治所長なども、「今回のゲノムの人工合成は生命のデザインを可能にする大きな一歩だ。しかし、人工微生物を人間が制御できなくなった時に備え、二重三重の安全対策を講じておく必要がある」と、その潜在的危険性について警告を発している。米国の科学者らが、ポリオウイルスや致死性の高い一九一八年型スペイン風邪のウイルスを人工再生している事実からしても、そのような警鐘に十分耳を傾ける必要はあるだろう。

微生物ビジネス界のマイクロソフト

現段階ではまだバクテリア次元の話だが、原理的にはより高等な生物に関してもまったく同じことなのだから、今後このゲノムの人工合成技術は様々な他の生物のゲノム合成に応用されていくことになる。そうなると、医療、農業、環境関連産業をはじめとする各種ビジネスに大きな影響を及ぼすことは必定だ。そのため、クレイグ・ベンター研究所は既にバクテリアの最小ゲノムの人工合成技術に関する米国内特許を申請済みである。また、同研究所は、WIPO(世界知的所有権機関)にも同様の国際特許申請を済ませており、すでに特許は公開されている。その特許の申請範囲は、「成長し自己複製する能力を備えた自由生活性の有機体を合成する最小限の技術」であるという。

これに対し、カナダの国際市民団体ETCグループなどからは批判の声も上がっている。「クレイグ・ベンター研究所の特許申請は、商業市場でのゲノムビジネスの一大展開を睨んで「合成生命体」を独占しようとするもので、その狙いは合成生物学における「Microbesoft」(Microsoftに掛けた造語、Microbeとは微生物のこと)の座を狙うものだ」というのがその批判の要旨である。そして、この種の特許申請が進展し大きな力を持つ前に、それらが人間社会や自然環境に与える影響を十分に考察し、人類にとって真に必要な技術なのか、どの範囲までなら容認できるものなかを徹底的に検証すべきだと訴えている。

だが、そんな批判などどこ吹く風と、クレイグ・ベンター研究所は我々が想像する以上に巧妙な自己アピール手段を講じている。同研究所が合成したゲノムと自然界に存在する天然ゲノムとを分別するには、紙幣の「透かし」に相当する何かしらの識別マークを人工ゲノムに組み込んでおかねばならない。当然、ベンター博士らは暗号化されたメッセージを合成ゲノムの塩基配列の中に忍ばせた。今回合成されたマイコプラズマのゲノム配列はNCBI(米国立生物工学情報センター)の公共塩基配列データベース「Genbank」に登録されたが、その配列には五つの識別メッセージが組み込まれたようだ。ベンター博士はメディアに対し、「隠された解読には、その暗号メッセージを含むアミノ酸配列を特定しなければならない」と述べ、メッセージの内容を伏せたが、メディアの要請をうけたNCBIの研究者らは、ほどなくそのメッセージを解読した。

史上初のバクテリアの合成ゲノムに埋め込まれ歴史に残ることになった五つのメッセージとは、「VENTERINSTITVTE, CRAIGVENTER, HAMSMITH, CINDIANDCLYDE, GLASSANDCLYDE」である。それらは、研究所名およびベンダー博士以下の共同研究者の氏名である。コンピューターのプログラム中に製作者だけにわかる秘密コードを組み込むようなものである。解読作業で最も面倒だったのは、ヌクレオチド配列に対する正しい参照番号を見つけることだったという。「INSTITUTE」の「U」が「V」になってしまっているのは、アルファベットの「U」に相当するアミノ酸が存在しなかったからのようである。

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