執筆活動の一部

15. 驚異の巨大バッテリー「葛野川(かずのかわ)揚水式発電所」

武田勝頼終焉の地として知られる山梨県大和村の日川渓谷は大菩薩嶺(二〇五七m)の南面に端を発する風光明媚な渓谷だ。新緑や紅葉の美しいこの渓谷を遡上すると、高アルカリ泉で知られる天目山温泉、蕎麦切り発祥の地の栖雲寺、風情豊かな嵯峨塩温泉、さらには上日川ダムを経て長兵衛小屋のある上日川峠(一五九〇m)に至る。この峠から望む八ヶ岳や南アルプスの景観は雄大そのものだ。ところで、このコースの途中にある上日川ダムは高さ八七m、長さ四九四mのロックフィルダムだが、その周辺に発電所は見あたらず、その湖面もそんなには広くない。一瞥したかぎりでは生活用水か農業用水の確保が目的のなんの変哲もないダムに見える。だが実際には違うのだ。満水時には湖面の高さが海抜一四八一mになる上日川ダムは、駿河湾へと流れ出る富士川水系に属している。ところがなんと、このダムの水は、ダムの東側に聳える小金沢山(二〇一四m)の直下に掘られた導水トンネルを通り、東方八・二kmも離れたところに位置する相模川水系葛野川(かずのかわ)ダムに流れ込んでいるのだ。大菩薩嶺から小金沢山、牛奥ノ雁ガ腹摺山、黒岳と南へ延びる尾根筋は富士川水系と相模川水系の分水境界となっている。わざわざその峻険な尾根を東西に貫き、異なる水系を繋ぐ長大な地下導水トンネルが設けられているのは、それなりの理由があるからだ。葛野川ダムのほうは高さ一〇五m、長さ二六四mのコンクリート重力式ダムで満水時の湖面の高さは海抜七四四mだから、両ダム湖の水位差(落差)は七三七mになる。実はその上下二つのダムの水位差を利用して大出力の水力発電がおこなわれているのである。しかも、その葛野川発電所は、上日川ダムとは尾根筋をはさんで反対側の小金沢山東面山腹の地下五〇〇mのところに位置しているのだ。そんな場所に特殊な大発電所があることなど一般にはほとんど知られてなどいない。

葛野川発電所の驚くべき構造

世界最大の有効落差を誇るこの揚水式発電所の役割やその発電のシステムは大変に興味深い。小金沢山の直下を貫く内径八・二m、厚さ五五cmのコンクリート製導管路によって上日川ダムからほぼ水平方向に三・一kmほど導かれた水は、やがて二本の導水管に分割され、さらに長さ一・九km余の四本の水圧管路に分けられる。内径二・一mのそれら水圧管路は途中から急角度で曲り落ち、導水は傾斜角五二・五度、有効落差七一四m、各水圧管の毎秒流水量七〇tという驚異的水流となって地下発電所の水車ポンプ(ランナー)へと落下する。この水圧管路には一㎡当たり最大一二〇〇tもの水圧がかかるため、厚さ九・四cmもの高張力鋼板が用いられている。地中深くにある高さ五四m、幅三四m、長さ二一〇mの空洞中の地下発電所には四〇万kWの発電電動機(発電機と電動機の両機能をもつ機械)四基を設置し最大出力一六〇万kWの発電がおこなえるようになっている。発電に用いられた水は三・二kmの地下放水路を通って葛野川ダムに放出される。

電力の需要量は季節によって大きく変動するし、一日においても日中と深夜とでは需要量が大きく異なる。深夜には日中のピーク時の五〇%も需要量が減少し、また、需要最盛時にはごく短時間に一〇~一五%くらいの急激な需要量変動が起こる。需要量変化に応じて迅速に発電量を調整できればよいのだが、現在電力供給のベースになっている原子力発電や火力発電ではその調整が難しい。そのメカニズムや安全上の理由から発電量の一定化が必要な原子力発電は増減調整が不可能だし、火力発電は調整可能だが電力需要の急変動には迅速な対応ができない。その点、流水量調整によって発電量の制御が容易なダム式水力発電や揚水式水力発電、なかでも揚水式発電は急激な電力需要量の増減に迅速な対応が可能だ。現在、東京電力で最大の能力をもつ揚水式発電所がこの葛野川発電所なのである。

上部ダムの貯水量一一四七万tのうち実際に発電に用いられる有効貯水量は八三〇万tで、最長八時間の連続発電をおこなうと、それに伴い水位が二一m低下する。いっぽう、貯水量一一五〇万t、有効貯水量八三〇万tの下部ダムではその間流入する水によって水位が二六m上昇する。この発電所が実際に発電をおこなうのは電力需要ピーク時や突然の電力需要増加時で、電力の余る深夜時には柏崎刈羽原子力発電所などから送電される余剰電力で下部ダムから上部ダムへと逆に水を押し揚げる。余剰電力はそのままでは保存できないから、水の位置エネルギーに変換して保存しようというわけだ。八三〇万tの水を下部ダムから上部ダムに揚水するには一一時間を要する。原動機と揚水機の両機能をもつランナーは水車ポンプとも呼ばれ、発電時は水車として発電機を動かし、揚水時は電動機により動くポンプとして機能する設計になっている。落差七〇〇m余の流水圧と毎分五〇〇回もの高速回転に耐える直径四・六mのランナーの開発には想像以上の苦労があったようだ。このシステムにおいては八三〇万tの水を上部と下部の両ダム間で往復させるだけで、両ダムの合計貯水量は一定に保たれる。台風や大雨で水量が増えた時は主に下部ダム側で一定量に戻るまで余分な水が放出される。要するに、葛野川発電所は緊急な電力需要時に備え余剰電力を備蓄する巨大バッテリーなのである。発電所単独では採算が合わないが、発電システム全体として考えると電力コストの低減に大きな貢献をしているという。

地下発電所は見学可能

葛野川発電所を見学したければ大月市猿橋のTEPCO葛野川PR館に申し込めばよい。葛野川発電所の無料見学が可能で、現地まで無料の専用バスで案内してもらえる。地下五〇〇mの発電所へは、高さ六・八m、幅五・五m、全長五kmの馬蹄型トンネルが続いているが、各種機材を搬入する大型トレーラーの通行にはそれでもぎりぎりだったらしい。導水トンネルや放水トンネル、送電用トンネル、各種工事用トンネルを含むトンネル総延長は三五kmにも及ぶという。トンネル掘削によって生じた大量の土石類は極力上下ダムの建設資材に用いるようにし、周辺の自然環境への影響を最小限に抑える配慮もなされたようだ。案内された地下発電所はジャンボジェット機三機がゆうに納まるほどに広大なものだった。奥の方に日立製と三菱製の発電電動機の上部が見えていたが、一基の重量が四五〇tでその固定子の重量も四五〇tあるそうだ。残り二基は東芝製になるとのことだから、国内重電機メーカー三社が揃ってこのプロジェクトに参画しているわけだ。この場所が選ばれたのは地層が安定し岩盤が極めて強固であるからだった。現在までの総工費は三四〇〇億円にのぼり、そのうちの七割が土木工事費で占められている。固い地下岩盤中に傾斜角五二・五度、七七〇mもの斜坑を掘るなど難作業の連続で、国内ジェネコン二一社の技術の総力を結集しての大工事だったようだ。現在、この地下発電所は無人運転されている。かなり離れた場所にある制御室のコンピュータによる指令に基づき、電力需要の変動に応じて必要量の発電と揚水とが随時おこなわれているという。地下発電所の見学後に案内された葛野川ダムの位置は発電所の位置よりも高かった。揚水時に水車ポンプが始動しやすいように下部ダムの湖面が地下発電所の水車ポンプの位置よりも九〇m高くなるように設計してあるからだそうだ。時間のある方はまず大月で葛野川PR館、葛野川発電所、葛野川ダムを見学し、そのあと日川渓谷に入って勝頼の墓のある景徳院や自然石庭のある栖雲寺を訪ね、天目山温泉や嵯峨塩温泉で一風呂浴びたらどうだろう。そのあとは上日川ダムに立寄り、上日川峠の長兵小屋で一服し、南アルプスを眺めながら塩山へと下るとよい。

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