執筆活動の一部

9. これでは科学者は育たない

自然を遊び場としなくなった少年たち

近年の日本には問題解決型能力をもつ人材は多いが、問題発見型能力をもつ人材はごく少ないといわれている。科学の世界で大発見をしたり画期的な新理論を創造したりするには、必要なら既成の理論や概念にも疑問を抱き、自然界の未知の現象に人一倍の興味をもち、一定のリスクや不遇や嘲笑を覚悟もで行動できる問題発見型能力の持ち主が不可欠だ。そんな原理思考能力をそなえる人材の減少は、今後の国家の存亡にもかかわる由々しき問題なのであるが、その原因を探っていくと日本の初期教育環境の悲惨な実態が垣間見えてくる。一口に言うと、初等中等期の科学教育の前提、あるいは前段階として存在すべき「学育」環境の喪失が問題なのだ。それは「ゆとり教育」や「詰め込み教育」の優劣を云々する以前の話なのである。なお、ここでいう「学育」とは、「外界に適切に対応しながら自ら学び育つこと」を意味している。「教え育てる」という意味の「教育」概念とは裏腹の概念だと考えてもらえばよい。

子供を大自然の中に放り出せ

かつての日本の就学期以前の幼児らや小中学校就学期の生徒らには、程度の差こそあれ、時間をかけて大自然に親しみ、自然の不思議やその美しさに感動したり、自然の猛威やその怖さを体感したりする機会があった。都会育ちの子供でさえも現代ほどには自然界から遊離した生活を送ってはいなかった。そして、そんな生活を通じ、子供らは無意識のうちに「心の原風景」とも「自然界で生きるための知恵の基本」ともいうべきものを自主形成していった。それらは、創造性と破壊性、安全性と危険性、規則性と不規則性といったような相反する要素を同時にもつ自然現象を考察する能力や、将来新たな自然科学の発展に寄与するエネルギーの源泉ともなるものだった。そんな学育能力の器があってこそ、のちに続く科学知識の教育も十分に意味をもち、その成果を上げることができた。しかし、現代の日本社会においては、そんな学育環境がすっかり失われていきつつある。自然体験学習のような催し物なども全国各地で開かれているが、日常生活に深く根差したものではないため、どうしても付け焼刃的で教育色の濃い感じは拭えず、あまり大きな成果は期待できそうにない。

蔓草の蔓の巻き方をわざと反対にしてやると何が起こるのか、キュウリの雌蕊にカボチャの雄蕊をつけてやったらどうなるのか、椿の花にスポイドで水を差しメジロの好物である椿の蜜をたくさん造り出せないものか、片方だけ猫の口ヒゲを切ってしまうと猫はどうなってしまうのか、蟻の穴に大量の水を注ぎ込んでも蟻は生きていられるのか――かつて子供たちは自らの意思でそんな具合にさまざまな実験を試みた。潮流の激しい岩場に潜り、あちこち身体を切ったりしながら魚貝類を捕り、子供だけで夜の海に伝馬船を漕ぎ出しては月星や夜光虫を眺め、嵐の海岸や氾濫寸前の川の土手に立っては凄まじい自然のエネルギーを体感したりした。それらの行為にリスクはあったが、観察力や行動力、自然事象への対応能力といったものを子供らは必然的に身につけた。鮒や鰻を捕ろうと田圃の側溝を堰き止めて水をかい出し、周辺の田圃の持ち主から大目玉を食らうようなこともあった。ルール違反はしたけれど、子供たちはそうすることによって鮒や鰻がたくさん捕れることを学習したし、自分らの行為のどこが問題だったのかを知らされる羽目にもなった。

蔓草の正しい蔓の巻き方は教育により知識として教えることはできる。しかし、幼少期に学育経験がない者には、「蔓の巻き方をわざと変えたらどうなるのか」といったような発想はなかなか生まれてこないだろう。また、たとえそう思ったとしても、自ら進んで実験してみようなどという気などはさらさら起こるまい。ましてや、反対巻きの蔓はほんとうに存在しないのか、そうだとすればその理由は何故なのか、といったような疑問を抱くことなどまずないだろう。むろん、この蔓草の話の意味するところは、すべての科学的研究に必要な本質的思考能力や実行力にも通じることなのである。

ゆとり教育であろうと知識の詰め込み教育であろうと、その前提となる学育能力が欠如している場合だと効果のほどは期待できない。経済力にものをいわせて名門校に通わせ、教育によって一時的に多くの知識を習得させたとしても、学育ベースのない者には、将来それらの知識を実践的に用いたり、新たな創造に繋げたり、自然界の深い理解に役立てたりすることができないからだ。それは文学などの場合にも同様で、いくら古今の名文を朗読させ暗記させても、その名文が描く自然体験や社会体験を抜きにしてはその理解度も感動のほども半減してしまう。名文や名詩の表現が心の原風景や原体験と結びつき、内なる想いの代弁をしてくれるからこそ素読や暗記も意味をもつというものだ。体系的かつ集約的に整理された知識を教える「教育」は、それに先立つ体験的かつ試行錯誤的な「学育」の場あってこそ生きてくる。さもなければどんな知識も短期記憶を司る海馬の表層を滑り去るだけだ。

「初等教育」を抜本的に見直すべし

豊かな海に囲まれた南国の離島の子供らも、いまでは都会の子供ら同様、フォームとタイムと競いながら設置されたプールで泳ぐ。眼前に海があるというのに魚貝を求めて素潜りするような光景はほとんど見られない。夕陽や夕月の美しい各地の岬からは子供たちの姿がすっかり消えた。幼児期からの画一的な知識教育が津々浦々にまで浸透し、過剰なまでの安全思想が全国に広まって、生活に密着した以前のような学育の場はもうどこにもなくなった。これまでの自然科学分野の独創的な研究者には、幼児期から少年期にかけて豊かな自然環境の中で育ち、ゆっくりとした時間の流れの中で自然界の奥懐を見つめながら、その世界の神秘と驚異に感動する能力を培った人が多かった。だが、全国的に都会化現象の波及した現在の日本社会では、幼児期から知識を教え込む教育のみが盛んになり、試行錯誤を通じ自主観察や自主体験を重ね深める学育の場はすっかり影を潜めてしまった。昨今の学力低下騒動は、子供たちが学育力未熟なままで知識教育にさらされた結果なのである。初等中等教育の現場では自然観察力の育成や自然に対する豊かな感受性の養成などが必要視されるようになってきているが、現実にはけっして容易なことではない。学育能力の欠如した子供らを相手にする教師たちのほうにしても、学育力に裏付けられた真の意味での自然観察能力をそなえもっている者はごく少数だからである。

いずれにしろ、このままだと科学立国としての日本の未来は危うい。したがって、学育能力に立脚した初期科学教育を実践するしかないのだが、そのためのひとつの手段は、単なる知識優先の大学入試の内容や選抜法を根本的に改革してしまうことだろう。現在のように表面的な知識重視の単一方式入試が主体だと、その影響を受け、全国の高校は言うに及ばず、小中学校や幼稚園までもが学育抜き暗記中心の知識教育にさらされ続けることになる。これは、科学的能力の育成にとって致命的な事態にほかならない。そこで、学育能力や本質的な思考能力の持ち主を合格させるため、従来の知識重視型入試と並行して、創造力重視型の試験や原理思考重視型の試験、特殊な能力を評価する型破りな試験、面接重視の試験などをおこなうべきだ。いずれにしろ、学育力形成のために十分な時間を費やすことがけっして不利にならないよう、入試の多様化をはかることが望ましい。

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