執筆活動の一部

1. 「DNA解読」はまだほんの入り口

遺伝子治療への道ははるかに遠い

DNAの基本構造とその機能

いま世は挙げてバイオ・テクノロジー・ブームである。遺伝子組換え、遺伝子治療、DNA鑑定、さらにはクローン誕生と遺伝子がらみの話題には事欠かない。まるでヒト遺伝子のはたらきが解明し尽くされ、不老不死の世界の到来も間近であるかのような騒動ぶりだ。世界中の分子遺伝学者たちはゴールドラッシュの時代さながらに、遺伝子の荒野に金鉱脈探し求めて我先にと奔走している。いったい誰がどこでどんな鉱脈を発見し、どんな掘り方をしているのかさえよくわからないありさまなのだ。たしかに昨今の遺伝子研究の進歩は驚異的なのだが、現実はそうあまくはない。

彼ら遺伝子研究の専門家たちが、異口同音に「ヒト・ゲノムの研究はほんの入口に到達したばかりだ。いうなれば針穴からその向こうにある広大な世界をのぞきみているようなものなのだ」という趣旨の発言を繰り返してしているのには、それなりの理由がある。

人間の個々の細胞核中には23対46本の染色体という微小な紐状物質が存在する。染色体は無数のDNA(デオキシリボ核酸)が幾重にも折りたたまれぎっしり詰まったものである。引き伸ばされたDNAは縄梯子をねじってラセン状に変形させたような構造をしており、縄梯子の2本の縦縄にあたる部分は糖とリン酸、そして縄梯子の個々の横木にあたる部分は対をなす2個の塩基からなっている。横木部を構成する塩基は、アデニン(A)、グアニン(G)、チミン(T)、シトニン(C)の4種にかぎられ、それらが遺伝情報の根源となる。たとえばGGAはグルタミン酸を、GCCはアラニンをいったように、塩基3個1組の配列が20種ある必須アミノ酸のうちのどれかを指定する仕組みなのだ。

横木部の対の塩基はA―T、G―C二種の組み合わせに限定されている。GAAには必ずCTTが、GCCには必ずCGGが対応するわけだ。そのためチャックを開くときのようにDNAが塩基結合部で2つに分裂しても、両者は鋳物と鋳型の関係を保ち続け、情報自体に変化は生じない。周辺の塩基を集めて鋳物にあたるほうは鋳型をそして鋳型にあたるほうは鋳物を再生し、もとのようなDNAのラセン梯子が二組誕生することになる。自然界におけるDNA複製メカニズムの妙としかいいようがない。

塩基配列によって次々に指定されたアミノ酸は、順々につながって多種多様なタンパク質を構成する。そしてさらにそれら蛋白質同士が複雑なルールに従い、結合、増殖、分裂、離反、相殺、消滅といった相互作用を繰り返すことによって、人間の誕生、成長、老化、死といった一連の事態が進行する。この仕組みはあらゆる生物に共通で、種を越えた遺伝子組換えが可能なのはそのためなのだ。ある生物のもつ一揃いの染色体をゲノムといい、ヒト・ゲノムには約30億対、60億個の塩基が含まれる。ヒトの遺伝子数は10万個程度と見積もられており、一個の遺伝子は数万から数百万対の塩基で構成されている。ヒト・ゲノムの塩基配列の全容はアメリカを中心とする国際的な分担作業によって近年ほぼ解読されはしたが、なお前途は多難である。

なぜ遺伝子解読の道は遠いのか

4種の塩基の配列は0、1、2、3の4つの数の配列に置き換えることができる。さしあたっては、遺伝情報は四進法で記述されていると考えてもらえばよいだろう。30億個ものA、G、T、Cの塩基配列、いうなれば、0、1、2、3からなる数列は、「GGA」すなわち「110」がグルタミン酸を指定するといった具合に、3個セットになって20種のアミノ酸のいずれかを指定している。4種の塩基から重複を許して3個のものを選び、それらを並べてできる文字列は4×4×4、すなわち64通り存在するから、20種のアミノ酸と1対1に対応づけるには十分である。

20種のアミノ酸はア行からタ行までの20文字のカタカナにそれぞれ対応していると考えるのが本来なのだが、話を明解にするために、塩基配列が指定するアミノ酸は50種あってそれぞれが50音に対応しているとしてみよう。日本語がそうであるように、50音(アミノ酸)を適当に組み合わせれば多数の「単語や助詞」、すなわち様々な種類の「タンパク質」ができる。次に単語や助詞を組み合わせれば「文節」、すなわち「筋肉や骨や皮膚」ができる。そして文節を組み合わせれば「文」、すなわち「胎児や乳児」ができあがり、最後に文を組み合わせると完成した「文章」にあたる「一個の成体」が完成する。

この比喩にそくすると、現在の分子遺伝学の研究は五十音の配列と膨大な数にのぼる単語や助詞のごく一部を解明し終えた段階にすぎない。文節、文、文章およびそれらを司る文法に相当する領域、すなわち多種多様なタンパク質同士の複雑このうえない関係、人体の形態形成、成長し老化する成体の全機能といったような問題の解明については、目下のところその糸口さえも見つからない状態なのだ。単語や助詞にあたる個々のタンパク質の解明でさえも、いうなれば編纂予定の分厚い辞書のほんの一部の項目内容がようやく書き込まれた段階で、他の部分は白紙のままになっているようなものなのだ。人間はなぜこのような形態や機能を有しているのか、どのようなメカニズムで思考は生まれるのかといった問題の解明はなお遠くはるかな世界のことだといってよい。

先端遺伝子研究の期待とその危険性

我が国の遺伝子医療研究の第一人者として知られる中村裕輔教授は、「病気とは特定のタンパク質の機能や量に異常が生じ、それによって身体の生命維持機能がアンバランスになった状態である。したがってタンパク質を制御する遺伝子のはたらきが将来完全に解明されれば、あらゆる病気について、患者個別の遺伝子情報に基づくオーダーメード治療ともいうべき画期的な療法が生まれるだろう。しかし、個人の負の遺伝子情報の流出は社会的差別や各種の不利益の直接的な原因となるから、法的規制を含めたきわめて慎重な対応が不可欠だ」と、今後の遺伝子研究に期待しながらもその危険性について警鐘も鳴らしている。

人間のDNA塩基配列の個人差は平均1千万ヶ所ほどだといわれるが、その違いのあるものが各人に固有な病気をもたらすこともすくなくない。ある特定の病気をもつ人とそうでない人とのDNA塩基配列の一部を比較し、その相違から病原がどの塩基配列にあると推定するのが現段階の遺伝子診療のレベルであり、その研究はまだ始まったばかりにすぎない。理化学研究所遺伝子多型研究センターの池川志郎を中心とする研究チームがごく最近発見した変形性関節症の原因遺伝子なども、その方法によって特定されたものである。

なお、ジャーナリストの間でもすくなからず誤解されているのだが、現在の遺伝子治療は異常部位のDNAの塩基配列そのものを直接修復するというようなものではない。そのような技術はまだ確立されていないのだ。DNAやRNA(DNA転写酵素リボゾーム=DNA遺伝子情報のメッセンジャーを務める)を使い、身体のある部分の機能が正常でない場合にはその機能を高め、ある部分が過剰にはたらく場合にはその機能を抑制するといった治療をするのがいまおこなわれている最先端遺伝子医療の実情にほかならない。

ヒト遺伝子の機能解明を待たず様々な先駆的遺伝子組換え実験がおこなわれている現状を憂え、国際的遺伝学者メイ・ワン・ホーらは、水平遺伝子伝達すなわち種の壁を越えて諸生物のゲノムを侵略する人工遺伝子拡散の危険性を警告している。人工遺伝子や組換えDNAの水平伝達は、直接病気を引き起こしたり、感染症の治療を不可能にする抗生物質耐性遺伝子をばらまく新種のウイルスやバクテリアを容易に生み出しうるからだ。そうなったらヒト・ゲノム解明どころの騒ぎではないというのである。

(「選択」2005年2月号より)

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