夢想一途バックナンバー

第39回 人間ドラマの舞台

(21)福井県大飯町――渡辺淳(わたなべすなお)画伯との奇遇の舞台

竹人形文楽の里・若州一滴文庫

昭和63年晩秋のひどく天候不安定な一日のことだった。若狭路伝いに丹後半島へと向かう途中、大飯町本郷付近を通りかかった私の目に、突然、「竹人形文楽の里、一滴文庫」という案内板の文字が飛び込んできた。車は瞬時にその地点を通り過ぎたのだが、「竹人形文楽の里」というどこかに呪縛の糸を秘めたその言葉の魔力によって私は車ごと案内板のあるところへと引き戻された。国道27号から分岐して佐分利川沿いの道に入りしばらく車を走らせると、岡田という集落の近くにある若州一滴文庫に辿り着いた。静かなたたずまいのその一滴文庫が岡田出身の作家水上勉先生によって創立されたものであると知ったのは、むろん館内に足を踏み入れてからのことであった。真っ先に足を運んだ竹人形館の中で光量を抑えた控え目な照明に浮かぶ人形群と対面した途端、私は、感動と言うより戦慄に近いと言ったほうがよいような衝動に襲われた。救い難い生の痛みや、そのゆえの深い翳りと怨念とを妖麗な美しさに変えて無言でたたずむそれら竹の化身たちは、「人形」というよりは「心形」とでも呼んだほうがよさそうだったからである。竹人形館奥の壁面には多数の竹面が掛けられていたが、それら個々の竹面には魂が宿っているようにさえ思われた。

竹人形館の二階には一滴文庫を訪れた著名人たちが竹紙に揮毫した書画類が展示されていた。だが、私が目を惹かれたのはそれらの書画ではなく、月夜の川原を描いた暗い色調の絵と、明るく温かい光を放つランプのまわりを酔いしれるように飛び交う数匹の蛾を描いたもうひとつの絵であった。それらはいずれも水上作品の表紙装丁用の原画だった。淡い月明りに夜の川面が幽かに光る暗い川原の絵からは、この地に産声をあげ、ささやかな生を営み、そして一握の土塊へと還っていった無数の人間たちの悲喜悲交々な叫び声がいまにも聞こえてきそうであった。ほの白く浮かび、あるいは黒い影を見せて息づく草木の一本一本は精霊を内にはらみ、ひそやかな言葉を発してもいた。また、見る者の心を瞬時に包み込むような温かい光を放つランプの絵は、この画家の、厳しいけれども、やさしく大きな心そのものを物語っていたし、光に酔い痴れ喜々としてランプのまわりを飛び交う蛾の姿は、その人の命あるものへの畏敬の深さを示唆してもいた。私は「渡辺淳」というその画家の人物像にあれこれと想いをめぐらしながら竹人形館を出た。次に訪ねた本館の一階には水上先生と交流のあった高名な画家たちの作品群が展示されていたが、その中に草むらを乱舞する蛾の光景を描いた大きな号数の絵があった。不思議な絵だなと思って制作者名を記したプレートを見やると、そこにも「渡辺淳」という名が表示されていた。さらに、本館の二階には水上勉先生と親交のあった著名人らの書簡や諸々の水上作品関係の資料、原稿類などが展示されていた。また、本館内には一滴文庫の原点となった蔵書室があって、もともとは水上先生個人の蔵書であった膨大な数の書籍類が収納かつ一般公開されていた。

本館玄関から外に出て何気なく右手のほうを見やると、工房風の建物が目にとまった。その入口付近でもうもうと白煙が立ち昇っていたので、好奇心に誘われるまま私はそのほうへと近づいた。そこは、一滴文庫独自の手法で竹紙をいたり竹粘土を作ったりしている工房らしかった。大釜をのせた窯があって、その前で体つきのがっしりした作業着姿の男性が深く身を屈め、火を燃え立たたせようと苦心していたが、折からの雨に薪が濡れていて火つきが悪いらしく、ひどく煙が立ちこめていた。「すみません、ちょっとお邪魔してよろしいですか?」と声をかけると、ベレー様の帽子をかぶったその人物はおもむろに私のほうを振り返った。五十代半ばかと思われるがっしりとした体格のその人の手は、風雪に耐え抜いたその人生の重さを無言のうちに物語っているかのようだった。

若州一滴文庫全景

若州一滴文庫全景

一滴文庫萱葺家

一滴文庫萱葺家

アトリエ「山椒庵」はボロ家だった!

たまにだが、人生における出遇いとそれに続く劇的な展開が、出遇い直後のわずか四・五秒間の視線のやりとりによって決定づけられることがある。この人とならなんの力みもなんの構えもなく裸のままの姿で話せる……一瞬視線を交わしただけなのに、私の胸中にはすぐにそんな確信が芽生えたのだった。竹の皮を煮詰めることに始まる竹紙の製造工程を説明してもらうなかで、私はその人物がかつて炭焼きをしていたことを知った。そして、その直後に、先刻本館で目にしたばかりの、草むらの中を蛾の飛び交う不思議な絵の中に古い炭焼窯が描かれていたことを想い起こした。目の前に佇むこの人物がいったい何者なのかを悟ったのはまさにその瞬間だった。それは私が感銘を受けた絵の作者渡辺淳さんその人にほかならなかったのだ。互いに意気投合しあれこれと語り合ううちに、どうせなら一晩自分のアトリエに泊まっていかないかという話になった。アトリエとは名ばかりで、実際は谷奥の古い空き農家を借り多少手を加えただけのボロ家だということだったが、むろん、私にその誘いを辞退する理由などなかった。渡辺さんを助手席に乗せ佐分利川沿いの道をさらに奥へと走ると川上という集落の入口に着いた。そこで本道から分かれ左手の小さな沢伝いに暗い細道をのぼりつめると、谷に抱かれるようにしてぽつんと建つ古風な一軒家が現れた。その家の軒先に立った私は、なによりまず、渡辺さんの「ボロ家ですが……」という言葉が謙遜ではなかったことに深い敬意を表したくなった。渡辺さんの創造力の秘密の潜むアトリエ「山椒庵」は、一言で述べるなら、この上なく見事なボロ家であった。だが、それはまた、この世でもっとも心温まるボロ家でもあった。玄関から奥に通じる狭い廊下の床はきしみ、部屋を仕切る戸の多くは開閉がままならなくなっていた。黒くすすけた天井の裏には物の怪の棲む気配さえも感じられそうだったし、部屋のあちこちには雨漏りの跡も見かけられ、山椒庵というよりは「惨笑庵」とでも呼んだほうがよさような風情だった。この仙人のような庵主は、自らこの超芸術的な空間を心の奥で笑い、楽しみ、そして愛し、それを創造の源泉にしているふしがあった。また、そのせいだったのだろう、この不思議な空間には、人心を自然に和ませる本物の温かさと安らぎが満ち広がっていた。

山椒庵の奥の部屋にはいった瞬間、私の目にまっさきに飛び込んできたのは、若い全裸の男が両膝を立てて座り込み、なにかに苦悶するかのごとく頭をかきむしっている襖半分ほどの大きさの絵であった。水彩とクレヨンで描かれた粗いタッチの絵だったが、内から激しく突き上げる遣り場のない想いを御しかねて無言の呻きを発する若者の姿にはそらおそろしい迫力があった。それが若き日の渡辺さんの心象的自画像に違いないと直感した私は単刀直入その絵の背景を尋ねてみた。その絵は、渡辺さんが貧乏のどん底にあった十八の頃に描かれた作品で、炭焼き作業に不向きな冬場に出向いた土木工事の仕事先からもらい受けてきたセメント袋をほぐし広げ、その上に苦悩する自分の姿を描いたものなのだそうであった。

竹人形(越後つついし親知らず)

竹人形(越後つついし親知らず)

ランプに集う蛾に魅せられて

十代半ばの頃から本格的な炭焼き生活に入った渡辺さんは、単身佐分利谷奥の深山にこもり、肉体を限界ぎりぎりまで酷使しながら孤独な時間との戦いを続ける日々を送った。山ごもりの生活ともなると夜はランプの光だけが頼りとなる。そのランプの光に誘われて炭焼き窯の周辺には蛾がたくさん集まってきた。山奥で黙々と働く孤独な若者にとってそんな蛾たちは掛替えのない存在となっていった。蛾の一匹いっぴきに心の蠢きを感じ、その羽ばたきにいとおしい命の躍動を見て取った渡辺さんは、やがてそんな蛾たちに深い親しみを覚えるようになった。そして、毎夜光を求めてやってくる蛾たちに話しかけ、こまやかな愛情を惜しみなく注ぎこむうちに、常人には聞こえない彼らの声がはっきりと聞こえるようになっていった。そんな蛾たちとの不思議な交流を通して声なきものの声を聞くすべを身につけた渡辺さんは、やがて様々な動物たちや野山に茂る草木の一本いっぽんとも心の対話を重ねていくようになった。そして、仕事の合間を縫っては人知れぬ想いを込めて絵筆をとった。貧しくて高価な画材など買えなかったから、セメント袋や麻袋、ベニヤ板などをキャンバス代わりに用いた。絵筆の代用をつとめたのは川原の葦や菊科の植物の茎だった。葦の茎をハスに切って使うと独特の味のある線を描くことができたし、菊の茎は一端をほぐして用いると柔らかな毛先の筆に早変わりした。さらに、石灰や粘土、炭焼き窯から出るタール、草花の汁、各種の岩粉などを適当に調合して絵具をつくった。これらの葦ペンや菊の茎の筆、手製の絵具類などは、のちに渡辺さんが水上勉先生の新聞小説挿絵を描くようになったときにも大いに役立つことになった。そんな渡辺さんが好んで描いたのは、蛾や蜘蛛、イタチなどはじめとする昆虫や動物たち、炭窯や炭焼き小屋とそれらを取り巻く草木、さらには、物語を秘めて山椒庵の梁に掛かる傘付きの石油ランプなどであった。なかでも身近な蛾とランプと炭窯は、この人の絵の核をなす重要なモチーフとなった。だが、電気・ガス器具の普及と木炭用の原木不足のために、ほどなく渡辺さんは生業の炭焼きを断念せざるをえなくなった。そのため大飯郵便局の請負郵便配達人に転じ、以後31年間にわたってその仕事に専念し続けた。請負配達人は正規の局員と違って薄給で、しかも周辺の谷奥や山奥に散在する家々が主な配達先だったから、その仕事は想像以上に厳しかったが、そんな日々のなかにあっても渡辺さんが絵筆を捨てることはけっしてなかった。郵便配達の仕事の途中で目にする野の草花や川面のきらめき、さらには佐分利谷の美しい四季の変貌の有様が渡辺さんの新たな絵のモチーフとなっていったのである。

1967年、35歳のとき、「炭窯と蛾」という作品が日展に入選、それを契機に渡辺さんの数々の絵とその独自の画風は世の脚光を浴びるところとなった。だが、自分はあくまで炭焼きであり郵便配達人であるとする渡辺さんは、以後も自らの信念を守り通し、佐分利谷の一隅でささやかに暮す一生活者としての立場を捨てることはなかった。そんな噂を聞きつけた水上先生は帰郷の際に当時38歳だった渡辺さんのもとを訪ねた。そして、そのことが縁となって、渡辺さんは水上作品の装丁や挿画を数多く手掛けていくようになったのだった。

渡辺淳画伯と制作中の絵

渡辺淳画伯と制作中の絵

あれからまもなく20年が……

渡辺さんと出遇ってからもう20年近くの歳月が流れ去った。のちに私は渡辺さんとの出遇いを題材にした「佐分利谷の奇遇」という作品で第2回奥の細道文学賞を受賞した。渡辺さんが取り持つ縁で生前の水上勉先生とも懇意になり、直接にさまざまなご教示を仰ぐこともできた。渡辺さんとの親交はいまも続き、朝日新聞アスパラクラブ・AICで連載中の拙稿には折々挿絵まで描いてもらったりもしている。あまりに傷みがひどくなり絵の創作や作品の保管に支障をきたすようになったため、いまでは旧山椒庵の近くに立派な新山椒庵が建てられ、渡辺さんはそこで日々創作活動に没頭している。そんな新山椒庵を訪ねる私は、時々「これは山椒御殿ですね!」と、ほかならぬ庵主をからかったりもしている。

渡辺画伯自筆の言葉(旧山椒庵)

渡辺画伯自筆の言葉(旧山椒庵)

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