夢想一途バックナンバー

第24回 人間ドラマの舞台

(6)和式捕鯨と隠れキリシタンの歴史を秘めた島〈長崎県・生月島(いきつきしま)〉

長崎県西部の西海国立公園一帯の地図を眺めると、母鯨とそれに寄り添う子鯨にも似た二つの島が目にとまる。それら親子の鯨形の島々は、まるで玄海灘から東シナ海方面へと泳ぎ向かいでもしているかのようだ。母鯨にも見える本土に近いほうの島が有名な平戸島、そして平戸島の北西側に寄り添うように浮かぶ子鯨形の島が生月島だ。なんとこの島、訪ねてみると実際にも鯨に縁深いところであった。平戸瀬戸に架かる平戸大橋を渡り、さらに、平戸島と生月島との間の辰瀬戸にかかる生月大橋を渡るとその詩情豊かな生月島へと行き着く。平戸島は知っていても、この生月島の名を知る人はけっして多くはないだろう。

東シナ海に面したこの島の西側には、柱状節理の発達した塩俵断崖をはじめとする垂直な玄武岩断崖が続いている。録音したオラショが流されていたが、その意味不明な早口の唱和は、抑揚もリズムも仏説阿弥陀経や観無量寿経などの読経の響きにそっくりで、もしよそ者が耳にしたとしてもお経をあげているところだと思ったに相違ない。絶間なく青潮の寄せる荒磯を眼下に望むサンセットウエイはその名に恥じぬ快適なドライブウエイで、一帯から眺める夕陽は想像以上に素晴らしかった。西に向かって遠く広がる東シナ海とその水平線上の天空を荘厳な茜色に染め変えながら夕陽は沈んでいくのである。

大碆鼻灯台の展望台からは、ほぼ360度の展望がきく。この大碆鼻周辺では光柱現象呼ばれる珍しい発光現象が見られるのだという。冷え込みの厳しい晴れた冬の夜などに、オーロラにも似た縦長の光の帯が何個も空中に輝き漂うのだそうだ。蜃気楼の一種で、特殊な反射と屈折現象によって海上の漁り火が大気に投影されるものらしい。まだ目にこそしてはいないのだが、夕刻に東の海から昇り朝方に西の海へと沈んでいく満月の済んだ輝きなどもきっと格別なことだろう。生月島というその名はそんな月影の美しさとも関係しているのではないだろうか。島の東岸側には館浦、壱部、古賀江などの集落があって、そこのお店や宿屋で出される鮮魚料理は絶品だった。

〈生月島の古式捕鯨〉

「島の館」という生月町立の博物館に入るとすぐ、かつて「勇魚(いさな)漁」とも呼ばれていた伝統的な和式捕鯨についての貴重な展示資料が目にとまった。江戸時代まで日本海一帯に多数生息していた鯨の群は、冬になると対馬海峡または玄海灘から壱岐水道周辺を経て東シナ海方面へと南下し、夏になると逆に東シナ海から日本海方面へと北上した。餌を求めながら、東シナ海と日本海との間を季節に応じて往復していたわけで、前者は「上り鯨」、後者は「下り鯨」と呼ばれていたという。玄海灘から壱岐水道を経て五島列島周辺へと抜けるかその逆ルートをとる鯨の群は、同海域特有の地理的状況のゆえに、狭い瀬戸を通過せざるをえなかった。なかでも生月島と平戸島ならびにその近隣諸島の周辺水域は鯨の回遊路の要衝にあたっていたから、必然的に鯨漁や鯨産業の中心地となったのだ。

紀州の太地で鯨捕りをやっていた突き組は、17世紀初頭になると西海一帯にまで進出し、生月島周辺で突き捕り式捕鯨をおこなうようになった。そして益富家という一族が、生月島や近隣各地で捕鯨と鯨の解体処理、さらには鯨肉や鯨油その他の鯨製品販売を一手に営む「鯨組」を組織し、莫大な利益を上げるようになっていった。五島や壱岐などに進出した鯨組の捕獲分も合わせると、記録に残っているだけでも140年間で鯨の捕獲数約2万頭、その総収益は300万両を超えたという。年平均140頭の捕獲高、貨幣に換算すると2万両余の収益があったことになる。江戸時代の画家司馬江漢などは、はるばる生月島を訪ね、当時の捕鯨の様子や島の風俗などを克明に描写した。その貴重な絵図原本の一部や拡大摸写図などが館内にはふんだんに展示されていた。益富家を組頭とする鯨組は驚くほど高度に組織化されており、見張り組、漁組、解体加工組、、勘定組、鍛冶屋、網屋、油屋、魚肉屋などをはじめとする徹底した分業体制を敷いていたのだという。その全体的な構成と合理的な運営形態は現代企業も顔負けのものであったと伝えられている。

実際の突き捕り捕鯨の様相は壮絶なものであったらしい。鯨の群を発見した見張り小屋の番人は、直ちに旗幟や狼煙などで群の位置や鯨の種類、頭数などを漁組に知らせる。知らせを受けた漁組は十隻ほどの船団を組んで回遊水路に先回りし、めぼしい鯨を船団で取り囲む。そして曳き綱のついた鉄製の「萬銛(よろずもり)」という太い銛を鯨の背中に打ち込み、鯨が弱ってきたところを見計らってさらに薙刀(なぎなた)を一回り大きくしたような形の「羽指し剣」を何本も打ち込む。鯨の背中に上方から突き立つように投げられるそれら羽指し剣にも丈夫な曳き綱がついていたが、萬銛と違ってこちらのほうには掛かりがついていなかった。鯨の背中に刺さった剣を曳き綱を引っ張って回収し、その剣を再度打ち込むためだった。背中に突き刺さった剣が横方向に働く綱の力で引き抜かれるごとに鯨の身体は深々と切り刻まれる。四方から羽指し剣の容赦ない攻撃を繰り返しうけるうちに、勇魚の異名をもつさしもの鯨も全身に深手を負いその泳力を失っていったという。

鯨が弱るのを見計らって、「刃刺(はさし)」と呼ばれる屈強で泳ぎの達者な男どもが大型包丁のようなものをくわえて命懸けで鯨に近づき、その背や頭によじ登って急所を突き刺す。そして鯨のいちばんの急所、鼻(呼吸孔)を切って止めを刺した。この勇猛かつ壮絶な鯨漁においては、激しく揺れ動く手漕ぎの和船で必死に暴れ狂う鯨に近づき、鋭利な刃物で獲物に立ち向かわねばならなかったから重傷者や死者も続出した。大変危険をともなう仕事だけに、鯨を捕る漁組の組員には一種の能力主義が敷かれており、腕のよい刃刺や船頭、舵手などは国内各地からスカウトされ、応分の待遇が与えられもした。ただ、1677年に紀州の太地角右衛門頼治が網捕り式捕鯨を考案すると、その捕鯨法が西海一帯にも広まり、それまでの突き捕り方式に比べて捕鯨効率や安全性は飛躍的に高まった。網捕り式捕鯨は突き捕り式捕鯨の改良型ともいうべきもので、鯨の頭部がすっぽりとはいるような芋網を仕掛けてその動きを封じ、あとは従来と同じやり方で鯨を突き捕る方式だった。

〈生月島と隠れキリシタン〉

「島の館」の隠れキリシタン関係の資料も目を見張るようなものばかりだった。かつて生月島や平戸島の根獅子地区では一部の役人をも含めた住民全員がキリスト教の信者になっていたという。生月島には宣教師ルイス・アルメイダなども来島し、信仰の最盛期には六百人を収容できる教会なども建ちラテン語の聖歌が歌われていたらしい。キリシタン禁止令が敷かれ、厳しい幕府の取締りが進むに及んで、島の人々は仏教や神道を隠れ蓑にしながら、隠れキリシタンとしてその信仰を密かに守り続けていくようになった。展示室の最奥には隠れキリシタンの秘密教会の役割を果たしていたツモト(お宿)家の隠し部屋が復原されていて、実際に中に入り当時の雰囲気を体感することができるようになっていた。

土間に面する板敷きの仏間には、菩薩像を配した仏壇があり、その左手にはお大師様を祀る棚檀が、右手にはお札様という一種の神棚が並べ設けられている。ところが、板戸でしっかりと仕切られた仏壇や神棚の奥には隠し納戸があって、実はそこが隠れキリシタンの本尊「垣内の御前様(マリア像や聖者像)」を祀る秘密の間になっていた。奥の壁には和風のタッチで描かれた幼いキリストを抱く聖母マリア像の軸が掛けられ、その下には聖水を入れる瓶などの各種聖具が置かれていた。各地域のツモト家の納戸部屋には日本古来の観音像を巧みにデフォルメした各種のマリア観音像なども秘蔵されていたようだ。非常時に備え、小さなマリア観音像や十字架、貴重なメダリオンなどが納戸の柱や壁に埋め込まれたり塗り込められたりすることもあったらしい。壁で仕切られた納戸部屋の隣の座敷部屋では様々な秘儀や行事が催され、オラショというたいへん長い祈祷文が唱和されもしたのだという。録音したオラショが流されていたが、その意味不明な早口の唱和は、抑揚もリズムも仏説阿弥陀経や観無量寿経などの読経の響きにそっくりで、もしよそ者が耳にしたとしてもお経をあげているとことろだと思ったに相違ない。

いまひとつ私が目を奪われたのは、「魔鏡」と呼ばれる特殊な構造の銅鏡だった。魔鏡というものがこの世に存在するということは以前から耳にしていたが、その実物を目にするのは初めてだった。裏には観音菩薩像の浮き彫りがあり、表側は通常の銅鏡と同じように滑らかに磨き上げられた鏡面になっている。ところが、この鏡に光を当てその反射光を白い壁や紙に投射すると、なんと、円形の光像の中に十字架に掛けられたキリストの姿とおぼしきものが浮かび上がって見えるのだ。観音菩薩ではなくてキリストやマリアの像が浮かび上がるところが魔鏡の魔鏡たるゆえんである。いつの時代に誰が考え出した技術なのかは知るよしもないが、なんとも見事な技法だというほかない。生月島で幻の魔鏡に遭遇できるなんて望外のそのまた望外のことでもあったから、反射光の中に浮かび上がる不思議な聖像を眺めながら、私はすっかり興奮し感動した。

魔鏡の秘密は観音像の浮き彫りをもつ裏面と表の鏡面との間にある見えない中空部にあるらしい。外からはわからないが、二枚の円形銅板を巧みに貼り合わせて作った中空部、すなわち鏡面のほんとうの裏側には微妙な凹凸がつけられ、また特殊な細工などが施されている。そして、それらの凹凸や細工が表の鏡面に及ぼす影響のために反射光に明度のむらが生じ、その明暗の光の縞が全体的に組み合わさって聖像の文様となるらしいのだ。なんとも驚くべき高等テクニックというほかない。

館内には有名な踏絵の実物も展示されていた。小型の和琴のような木の台の中央に銅製の踏絵本体がはめこまれたもので、黒ずんですっかり摩滅したその踏絵の木部は、それを踏まされた者の数が如何に多かったかを無言のうちに物語っていた。

平戸島から望む生月島

平戸島から望む生月島

勇魚漁の様子の展示模型

勇魚漁の様子の展示模型

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