夢想一途バックナンバー

第22回 人間ドラマの舞台

(4)〈愛媛県鬼北町(きほくちょう)〉

国内最後の清流ともうたわれる四国の四万十川を河口側から遡ると、高知県西土佐村江川崎付近で川筋が大きく二手に分かれる。上流方向右手にのびるのが四万十川本流、いっぽう左手に分岐して県境を越え愛媛県松野町方面へと向かうのが支流の広見川だ。清流を湛えた広見川は大きく蛇行を繰返しながら松野町を抜け鬼北町近永周辺に到る。そしてそのあたりで、鬼北町北東部の日吉方面へとつづく広見川本流と同町西部の成川渓谷方面にのびる奈良川、北西隣の三間町方面へとのびる三間川の3つの川筋に分かれている。

四万十川の主要な支流広見川の源流域にあたるこの愛媛県鬼北町は、近永を中心とする旧広見町と日吉を中心とする旧日吉村とが今年一月に合併して発足した。鬼が城山をはじめとする標高千メートル余の山々の連なる山岳地の北側に位置するため、以前から一帯は鬼北地方と呼ばれており、その呼称にちなんで鬼北町という名がつけられた。鬼北米、鬼北山芋、柚子と柚子製品、山菜茸類、ウコン、木工製品、苺、メロン、そして近年、高麗雉の養殖や絶品と称賛される雉料理などでも広く知られるようになった町である。

慶長19年(1614年)奥州伊達政宗の長子秀宗は宇和島藩10万石の領主に封じられた。そしてそれから43年後の明暦年(1657年)、秀宗の四男宗純は宇和島藩から分れた吉田3万石の当主となった。新生の支藩吉田藩は宇和島湾奥に位置する現在の吉田町、その東隣りの現三間町、さらにその東隣りにある現鬼北町の中部から北東部一帯、さらには4・5箇所ほどの吉田領飛地から構成されていた。吉田藩内には83の村々があったという。

寛政5年(1793年)2月9日、この吉田藩で領内の全村挙げての農民一揆が勃発した。要求貫徹がならぬままに鎮圧されてしまうのが常だったこの時代の一揆にあって、のちにその指導者の名にちなみ「武左衛門一揆」と呼ばれるようになったこの農民蜂起は、当時としてはきわめて異例な展開をたどり、一揆衆側の劇的な勝利に終わったのだった。

天明2年から寛政5年にいたる10年の間に領内は大飢饉や6回にわたる大水害に見舞われたうえに、吉田城下陣屋町や江戸屋敷の火災焼失、幕府による武蔵川・相模川修復工事手伝役申し付けなどの不測事態が重なり、吉田藩の財政は逼迫していた。しかも、のちに名君と称えられるようになった江戸住まいの藩主村芳はまだ13歳にすぎず、藩政は無能な家老衆やその取り巻きの横暴な役人衆の手に委ねられていた。当然の成り行きとして領民らは苛酷非道な悪政にさらされ、想像を絶する重税や過度の賦役に苦しむことになった。

天明の飢饉の最中にも一揆が企てられたが、事前に情報が漏洩し首謀者2名が獄死する結果になった。そのため上大野(広見川上流域の現鬼北町上大野)の農民武左衛門は、一揆を企てるに先立って「ちょんがり(一口浄瑠璃)」語りの貧乏芸人に身をやつし3年ほど領内各地を巡り歩き、さりげなく指導者となる同志を募って決起の日に備えたという。武左衛門の穏健な人柄と冷静沈着な判断力に感服し同志となった者たちは、内々に武左衛門を頭領と仰ぐようになったと伝えられている。ただ、当時は、たとえ一揆が成功をおさめたとしてもその首謀者は斬首の刑に処されるのが法度だったから、決起に際しては誰が頭領かわからぬようにするために、細心かつ綿密な計画が練り上げられた。

その頃、広見川上流域や三間川上流域の農民らの多くは仙貨紙という和紙の生産に従事していた。武左衛門の住む上大野村もそんな和紙の産地だった。寛政4年冬、吉田藩は領内の豪商法華津屋と結託して仙貨紙の専売制度を実施し、農民らの漉く和紙のすべてを法外な安値で強制的に買い漁ったばかりでなく、物理的にも不可能な量の和紙の生産を村々に強要し、農民らの監視役として無頼の徒を雇い入れ重用した。農民らが米穀類を年貢として上納する場合にも明らかに規格外の大枡を用い、しかもそれを強く揺すりながら穀物を詰め込んで計量するという横暴ぶりで、領民の困窮の度とそれに伴う怒りの激しさは日毎に募り高まるばかりだった。

農民一揆勃発の兆しがあるとの密告をうけた藩の重臣たちは、一揆を起こせば首謀者らとその一族を皆極刑に処すと脅すいっぽうで、願いの儀があれば聞き届けるので穏便に申し立てよとの懐柔策に打って出た。農民らは協議を重ね、年貢や賦役の減免、仙貨紙取引の規定改善など17ヵ条の項目からなる嘆願書を提出したが、結局その申し出は全面的に拒否された。重臣のなかで末席家老の安藤継明のみが領民の切実な願いに耳を傾けるよう進言したが、上席家老らはまるで聞く耳をもたなかったという。決起の時の到来を悟った武左衛門は同志と密議し、「我々領民を餓死寸前に追い込んだ法華津屋を引き倒し、上訴して活路を切り開かねばならない。心ある者は我らとともに起て!」と藩内83の村々に檄を飛ばして一揆への参加を促した。それに呼応した領民は密かに用意していた引き倒し用の大綱や筵旗、松明、竹槍、大鎌、大槌、鉄砲などを手にして一斉に立ち上がった。

上大野村をはじめとする広見川上流域の村々(現在の鬼北町日吉一帯)の一揆衆は下流川筋一帯の村々の一揆衆と合流しながら宇和島藩の近永村(現鬼北町近永)へと近づいた。吉田藩の役人らはその面子にかけても、一揆衆が主藩の宇和島領内にはいるのを防ごうとしたが、もはや農民らの勢いには抗すべくもなかった。広見川筋の一揆衆が三間川筋の一揆衆と合流し吉田藩陣屋や法華津屋のある海沿いの地域に出るには、宇和島藩領内を通過させてもらうのが早道だった。そこで武左衛門らが領内通過を許諾してもらうように宇和島藩代官友岡栄治に上申したところ、その申し出はただちに受諾された。

だがこの時点で武左衛門らは冷静な吟味のもとに戦術の一大転換を試みた。一揆の目的を達成するには、無能な家老衆や役人しかいない吉田藩庁に強訴したり法華津屋を打ち壊したりするよりも、善政を旨とする主藩の宇和島藩に吉田領民の窮状を訴え、公正な裁きを仰いだほうが得策だと判断したからだった。そこで武左衛門らは代官友岡栄冶や吟味役鹿村覚右衛門らを通じ、あらためて宇和島藩に嘆願書を差し出した。武左衛門らの態度は穏健かつ冷静沈着そのもので、その嘆願の趣旨も終始一貫し理に適ったものだったという。しかも、武左衛門らは一揆の首謀者が誰なのかを悟られることのないよう慎重に行動した。

この戦術転換を機に吉田領83カ村の一揆衆は宇和島藩内の八幡河原に集結することになった。広見川筋や三間川筋の村々の一揆衆も海沿いの村々の一揆衆も八幡河原を目指すことになったのだが、宇和島藩はそんな民衆の行動を容認した。吉田藩の重臣や役人らは必死にその流れを押し留めようとしたが如何ともし難く、次席家老尾田隼人の一揆解散を目論んだ買収工作も失敗に終わった。首席家老の飯淵庄左衛門にいたっては責任回避のため仮病を装い自宅に籠る有様だった。八幡河原に参じた一揆衆は総勢7,647人にのぼり、武左衛門らの要請に応じた宇和島藩の豪商らは、彼らのために炊き出しをしたともいう。

万策尽きた吉田藩は、領民救済を進言し庶民の信頼も厚かった末席家老安藤継明を八幡河原に送り込んだ。だが、もはやその説得も功を奏せず、安藤は自らが全責任を取るかたちで自刃して果てた。安藤自害の知らせをうけた宇和島藩首席家老桜田監物は直ちに吉田藩に赴き、「この大騒動が幕府に知れたら藩の存亡にも関わりかねない。ここは領民らの嘆願を全面的に容認し、早期解決をはかることが望ましい」と説得した。そして両藩の役人を八幡河原に遣わして一揆衆の要望を取り纏めさせた。その結果、民衆の要求すべてが受諾されるとともに、一揆の首謀者の詮議や処罰はおこなわないとの確約がなされた。

面子まるつぶれの吉田藩は宇和島藩の意向に叛き密かに一揆首謀者の捕縛を狙ったが、農民の結束は固くなかなか首謀者が割れなかった。そこで藩の役人らはなんとも姑息な手段に出た。一揆から2年ほどが経った頃、大野村周辺の川普請の監査役として岡部二郎九郎という役人が送り込まれてきた。岡部は実に頭が低く物腰の柔らかな人物で、農民らの面倒を十分にみて彼らの信頼を勝ち取った。そんな岡部はあるとき酒席を設けて農民らに酒や肴を存分に振舞い、その折に先の一揆の指導者らの手腕を褒め上げ、「百姓にしておくのはもったいない人物なので、藩としては是非とも士分に取り立てたいのだが…」との話をまことしやかに伝えたのだった。すると、すっかり酒がまわりいい気分になっていた農民の一人がその誘いにのってついつい武左衛門らの名前を口走ってしまったのである。

岡部からの急報を受けた吉田藩は直ちに一揆首謀者らの捕縛部隊を結成、釣り竿や猟銃あるいは大きな風呂敷包みを持つたりして領民に変装した隊員は、あらかじめ定められた日の早暁に指導者のいる村々を急襲した。上大野村を襲った部隊は武左衛門を捕縛連行し筒井坂(現鬼北町溝水)というところまでくると、そこで直ちに武座衛門の首を刎ねた。武左衛門の捕縛が知れ再び騒動が起るのをおそれたからだった。武左衛門の首は上大野村と下鍵山村の境にある堀切というところでさらし首にされた。捕縛当日、岡部は滑床渓谷(現松野町)を見物しに出かけており、戻ったあとで「自分がおればなんとかしてみせたのに」と武左衛門の斬首を口惜しがってみせたという。上大野村の瑞林寺に武左衛門の墓が建てられると農民らが続々と参詣し始めたため、吉田藩吏らは墓碑をげんのうで打ち砕き近くの川の淵に捨てたとも伝えられている。

現在では鬼北町日吉周辺に、武左衛門及び同志者の碑、武左衛門堂、武左衛門一揆記念館などが建立され、また一揆当時の農民の姿に扮して町内を練り歩く武左衛門ふるさと祭なども催されている。また瑞林寺跡地には武左衛門銀杏という大銀杏があり、その脇には武左衛門の墓が再建されている。

現在の上大野周辺風景

現在の上大野周辺風景

武左衛門一揆記念館

武左衛門一揆記念館

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